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凪原和也

 二○八九年七月十四日 午後

 アロハの男と子分たちの命に別状はなく、取り調べは長時間にわたり行われた。

 ジョン・スパンが少女と横浜水上警察署を出た時にはすっかり夜が明けており、頭上から太陽が容赦なく照りつけていた。

 携帯Vフォンの示す時間を見ると、午後二時を過ぎていた。

 夏だというのに空からは雪のように白いものがちらほらと降っていた。最近になってとみに増えてきたこの異常気象は“フェアリー・ドロップ”と呼ばれている。その愛らしい呼び名とは裏腹に電気の流れを著しく損ねる性質を持つ厄介なもので、至るところで電子広告やネオンはバチバチと不規則な点滅を繰り返していた。

 N大学のバッフォー教授を中心として研究が続けられているが、ピューリー・メルトリンク不可視彗星の周期と何らかの関連があるのではないかという程度の結果しか得られていなかった。

 “フェアリー・ドロップ”に身をおいていると自然と身震いを起こしてしまう。寒くはないのだ……決して。ただ、気持ちの問題であって条件反射のようなものなのだろうか?

 スパンは少女が腕を組んだまま離れようとしないので、取りあえず事務所へと連れていくことにした。

 山手公園全体が見下ろせる九階建て赤レンガ調のマンション六○九号室。ドアの磨りガラスの窓には『ジョン・スパン探偵事務所』の文字。部屋に入るとカウンターがあり、部屋の側面は全面ガラス貼りとなっている。カウンター越しに横並びに二つ、その向かいに二つ、計四つの事務机が配置されている。窓際に応接用のソファーがテープルを挟んで一組あるだけのシンプルで殺風景な1LDK。手前の二つの机を我がもの顏で“アッシュ”という名のバーマン猫が昼寝に使っていた。その向かいの右席には、こっちを睨んでいる女性。左席には、山積みのエロDVDに囲まれて見知らぬ若者が座っていた。

 少女は、部屋に入ってからもスパンと腕を組んだまま離れようとしなかった。二人は、仲良く? カウンターの中に入って“アッシュ”の寝ている席に座った。スパンが女性の前、少女が見知らぬ若者の前に。

 女性は、左奥のキッチンに立ち、アイスコーヒーをつくりスパンと少女の前に差し出した。そして、ゆっくりと席に戻り、深くため息をついた。

 キャンディス・メロン……事務所の経理担当。ブラウン色の髪が肩まであり、額の中央少し右側ぐらいから自然に分けている。紺色のスーツとスカートを完璧に着こなし、一分の隙もない。彼女のメガネがキラリと鋭い光を放ち、ヒステリック気味に言い放った。

「そのおかっぱ娘は誰?」

「出会いは海でした」なぜか敬語だった。

「海? へぇ〜、海ねぇ〜 バッカじゃないの! そんなの信じろっていうの!……大体カッパは海じゃなくて川にいるもんでしょうが!」

「嘘ではない。この男が海で私のファースト・キスを奪ったのだ。男に素肌を触られて蕁麻疹がでなかったのは初めてだ。運命の男に違いない」

「はぁ〜、キ、キスぅ〜……スバン、あなたカッパにキスしたの?」

「じ、事故です。突発的な事故だったんです」

「事故ぉ〜」メロンの眉間に皺が寄った。

 スパンは、思い出していた。以前、メロンが眉間に皺を寄せたまま十日間、一言も喋ってくれなかったことを。……話題を変えなければ。

「それはそうと、隣の彼は? 日本の方かな?」

「そこの山手公園で拾ったのよ」

「へぇ~、公園でねぇ〜、バッカじゃないの! 胸が残念じゃないの! メロンで胸がないなんて!」小学生レベルの返しだ。

「殺す! スパン、お前、絶対殺す!」

「まぁまぁ、二人とも止せ。私はこの運命の男と結婚するから、ペチャパイ女、お前はそこの小僧とでも結婚しとけ。それで丸く収まる」

「カッパ女、お前も殺す! 必ず殺す!」

「あの〜、僕、年上はちょっと」

「三人まとめてかかってこいや! こらっ!」メロンは、そこそこの力で若者の頭を叩いた。

 その反動で彼の頭が山積みのエロDVDに突っ込んだ。


 少女以外の三人は、床に散乱したDVDを片付けていた。

「こんなエロDVDばっかり集めてる奴のどこがいいの……あんたぐらいの年頃ならイヤでしょ。好きな人には、自分だけを見てて欲しいんじゃないの?」メロンはそう言って、自分が片付けた分のDVDを机の上に置いた。

「ペチャパイ女、お前は乙女か! 私はいつでもウエルカムだ。私の超絶テクニックを持ってすれば、エロDVDなど見たいとも思わなくなるはずだ」片付けを手伝いもせずに突っ立ったまま腰に手を当て、勝ち誇ったように言った。

「何がテクニックよ! 男に触られると蕁麻疹が出るって言ってたわよね……あんた本当は処女なんでしょ!」

「まぁまぁ、二人とも落ち着いて聞いてくれ。エロDVDを不純で卑猥なものだと決めつけているようだけど、そんな単純なものではないんだ」片付けていたDVDの中から一枚を取り出した。

「たとえばね、このリンダという女優は家が貧しく随分苦労して育ったらしい。両親に家を建てたいという夢のために自分のカラダひとつで現在の輝かしい地位を築き上げたんだ。俺は彼女の夢に共感し、協力するためにだな……」

 もう誰も聞いていなかった。


 四人は再び席に戻っていた。

「結婚、結婚って言ってるけど、そもそも俺と君との間に愛ってもんがないだろ」

「それは心配ない。一緒に暮らしていれば愛は育つ。愛は育てるものだ」

「そうは言いますけどね、このX指定男は、ポンコツなのよ。子供だって作れるかどうかわかんないし。それでもいいの?」

「何? お前、どこか欠陥でもあるのか? まさか、アソコ?」

「ポ、ポンコツにアソコ……」スパンの心は、マリアナ海溝よりも深く沈んでいった。

「心配するな。女より男が好きだなどという趣味さえ無ければ、子供が出来ないことは大目に見てやる。ファースト・キスの相手と結婚するのが我がファミリーの掟だからな」

「やっぱり処女ね! でも何なの、この底なしの自信は」

 少女は、左手首にはめていた電波腕時計を見た。針は午後五時を指していた。

「私は、そろそろ帰らなければならない。また明日来る。結婚のスケジュールはその時に。じゃあな運命の男」と言って立ち上がった。

「ところで、君の名前は? 何処に住んでるの?」

 少女は、スパンの問いかけを無視してサッサと部屋を出ていった。

 エレベーターへと乗り込み、一階のボタンを押す少女の口元は少し緩んでいた。

 エントランスから外へ出た少女は、マンションを見上げながら携帯Vフォンを取り出した。

「デザイアだ。接触に成功した」


「……」見知らぬ若者を見て、“アッシュ”があくびをした。

「ところで、君の名前は?」行き場をなくした問いかけは急遽、若者に向けられることとなった。

 若者は立ち上がり、

「あっ、挨拶が遅れてすみませんでした。僕は凪原和也という名前で、二十二歳の日本人だそうです」

 若者につられてスパンも立ち上がり、

「だそうです?」

「笑っちゃうんですけど、記憶喪失のようです」

「えっ、笑っちゃうって……君、凄いな」

「朝、気がつくとパスポートを手に持って山下公園に立っていたんです。頭の神経回路をフル稼働させても何ひとつ思い出せない。そのうち、何だか無性に可笑しくなってきて大爆笑してたら、メロンさんが優しく声をかけて下さったんです」

「“笑うの止めなければ、殺す”と金属的なものを後頭部に突きつけられました」

「優しく言ったよね、ワタシ♥」ぶりっこがするように握った両手を頬につけて微笑んだ。

「ええっ、まぁ……」

「俺もメロンさんが優しいのはよ〜く知ってる。うん」

「午前中に彼を連れてパスポートの住所に行ってみたの。戸部地区にある高級マンションなんだけど、酷い状態だったわ。彼をほっとけないし、危険だからここに連れてきたって訳なの」

「危険?」

「マンション周辺にMIBばりの男たちがウロウロしていて、部屋には入れなくて……」

「スコープで覗いてみると、部屋が銃弾の跡で蜂の巣状態になっていたわ」

「調査したら、マンションの住人全員が行方不明になっているの。それに、ガトリング砲が乱射されたにも関わらず、警察庁のメイン・コンピューターには出動要請も出動記録もなかったわ」

「おそらく使用されたのは、特殊攻撃型オートマトンが標準装備するガトリング砲ね」

「“ミュルミドン”か……これは厄介だな」

「戸部地区にはDr.カルルのラボがあるから、ラボに寄ったついでに凪原君のマンションの様子を探ってくるよ」

「わかったわ、気をつけてね」

「本当にすみません。僕のために」太腿に手をそえて、深々とお辞儀をした。よく見ると彼は右手にだけ黒い革手袋をはめていた。流行りなのか?

「俺は、まだ君がどういう人間なのかは知らない。“ミュルミドン”が関わっているのなら、ただの政治犯や思想犯という訳ではないだろう。でも、こうしてメロンさんが君を守るというのなら、俺も協力するよ」

「ありがとうございます。僕も自分が犯罪者でないことを祈ります」

「ああ、そうだな」

「メロンさん。アイツらに声をかけておくから、何かあれば『ベアードカフェ』へ逃げ込むんだ。アイツらなら何とかしてくれる」

「じゃあ、いってきます」

「いってらっしゃい」と言ってメロンは立ち上がった。

「あっ、凪原君。いいか! 絶対、メロンさんに手を出すんじゃないぞ! 絶対だぞ!」

「あの〜、僕、年上はちょっと」メロンは、そこそこの力で若者の頭を叩いた。

 再び、彼の頭が片付けたばかりのエロDVDに突っ込んだ。

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