本間忠之
二○八九年七月十七日 横浜 午後一時頃
本間忠之は、昼食を外で済ませたついでに会社の近くにある横浜図書博物館に足を運んでいた。
横浜デイリー新聞社の社会部遊軍記者として働く彼は、個人的な興味からある人物を調べていた。しかし、調べれば調べるほどその人物に関する資料がないことに困惑していた。
半年前、フランス革命三百周年に関する仕事で資料を収集するために横浜図書博物館を訪れ、一七九九年発行のジャン=ジャック・バロード著『血の祭典』という題名の本を偶然、手にしたことがきっかけだった。
『血の祭典』を読み進めるうちに、第五章「ミカエル・ショルテの回想」の中にほんの数行だけ登場している“断頭台の番犬”ジュリアン・シルヴェールのことが頭から離れなくなったのだ。
横浜市中央図書館は、『MM21大災害』の被害は受けなかったものの、再開発計画により、国立国会図書館に匹敵する約四千万点の蔵書数を誇る地下五階、地上十階建の『横浜図書博物館』として甦った。再開発計画に伴って野毛山動物園は閉園となったが、日ノ出町駅は大規模なリニューアル工事で生まれ変わり、横浜図書博物館と動く歩道の整備されたアーケードで直結していた。
本間忠之が横浜図書博物館の正面玄関から出ると間もなく、見知らぬ二人が声を掛けてきた。
「私はFBIのエヴァ・マイルズ捜査官、こちらはトーマス・ランバート捜査官です」二人は、FBIのIDカードとバッジを見せた。
栗色のショートヘアのエヴァ・マイルズは、二十代後半、頭のきれるキャリアといった感じで、少し近寄り難い雰囲気だった。
トーマス・ランバートは、三十代前半、少し太っていてポパイに出てくるハンバーガーばかり食べているキャラクターに似ていた。
「一体、何の用ですか?」本間は、戸惑いを隠せなかった。
三人は、『横浜図書博物館』の一階にある喫茶店にいた。ガラス張りの窓に対して垂直に置かれた四人掛けテーブルに、店内から見て右側窓際にマイルズ、その左隣りにランバート。テーブルを挟んで左側窓際、マイルズの正面に本間が座っていた。店内から窓越しに見るオープンテラス席は、夏に降る雪“フェアリー・ドロップ”のせいで閉鎖されていた。
「あの、お話というのは、喫茶店で話せるような内容なんでしょうか?」
「ご安心下さい。この喫茶店のスタッフ、客、全員が我々の関係者と入れ代わっておりますので」
「そうですか……」本間は、緊張で唾を呑み込んだ。
「早速ですが、“タンドウィッチ連続殺人事件”をご存知でしょうか?」マイルズは、話を切り出した。
「タンドウィッチ…ええ、よく憶えていますよ。稀に見る猟奇殺人事件でしたからね」
「私の母は、その事件を担当していたニュー・スコットランド・ヤードの刑事でした」
本間は、彼女がなぜ、そんな話をするのかさっぱりわからなかった。
「“タンドウィッチ連続殺人事件”の結末は、刑事として優秀だった母の唯一の汚点だったのでしょう……少女が助けられたという幻の男を探し出すことに全ての時間を費やし、家庭を顧みなくなりました。事件から一年後、両親は離婚し、私は実業家の父と共に、父の母国アメリカへ移住しました」
「二ヶ月前、母が亡くなったという連絡を受けた父と私は、八年振りにイギリスへ戻りました。葬儀を無事に終え、遺品の整理をしていると、私宛の原稿用紙大の封筒が出てきたのです。中には、焼け焦げた携帯Vフォン一個と新品のデータチップ一個、それと写真が一枚入っていました」
ランバートは、本間が第一印象で感じたイメージを裏切ることなく、マイルズの左隣りでハンバーガーを美味しそうに頬張っていた。
「本間さんは、以前『賢老会議』について取材されたことがあおりでしたよね」
「ええ、良くご存知ですね。数年前から取材を進めてたんですが、結局『賢老会議』から取材許可が下りなくて、企画そのものがボツになったんです」
「取材中、Gタワー屋上ヘリポートの大型オートジャイロから降りる男の写真を撮られませんでしたか?」
本間は、フゥ~と軽く息を吐いた。
「さすがFBI。凄い情報網ですね」
「……」
「失礼……あなたの仰るとおり、小型AM(オートマトン)ヘリコプター“エア・アウル”を使って写真を撮りました。写っていた男が銀髪だったので、《ネストル・ギーヴァーじゃないか?》と社内中が、大騒ぎになりました。しかし、『賢老会議』に直接、確認することが不可能となってしまい、銀髪の男が誰なのかは、不明のままです」
マイルズは、スーツの左ポケットから写真を取り出した。
「これは、先程お話した封筒に入っていた写真です」テーブルの上に写真を置いた。
本間は、写真をまじまじと見つめた。
「オーダーメイドの紳士服店の前で撮られたものです。店の従業員三人と一緒に写っている…この男」マイルズは、そう言って写真の中の一人を指差した。
「私が撮った銀髪の男と似てますね……髪の色は違うけど…」本間の視線は、写真から無表情なマイルズの顔へと移っていた。
「この写真が撮られたのは、一九八二年のフォークランド紛争下のロンドンで、セヴィル ロウ ストリートという場所です」
「一九八二年⁈……百年以上も前⁈……先祖か…そうでなければ他人の空似…」本間は、心のどこかで思っていた《今、目の前にいるのは、あのFBIなのだ。きっと、自分が口に出したような単純な答えではないのだろう》と。
マイルズは、テーブルの上の写真を裏返した。
JULIEN SYLVERE
STRULDBRUG
34
赤いサインペンで書かれた手書きの文字だった。
「鑑定の結果、母の筆跡でした」
「ジュリアン・シルヴェール、ストラルドブラグ……聞き覚えはありませんか?」
「ジュリアン・シルヴェールは、私が個人的に調べている人物と同じ名前ですが…」
「写真の洋服店は、現在も同じ場所で営業を続けていました。過去の顧客名簿にジュリアン・シルヴェールの名が記されていました」
「?…」
「ストラルドブラグについてはどうですか?」
「ええ、知っています。ある本にその言葉が記載されていたので」
「それは、ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』で、第三篇のラグナグ王国のくだりですね」ハンバーガーを食べ終わっていたランバートが、初めて口を開いた。
「い、いいえ、私が言ったのは『血の祭典』という本のことで…」
「勿論、分かってますよ。冗談です」ランバートはニッコリと笑った。そして、ウエイトレスを呼んでショートケーキを注文した。
マイルズはランバートの冗談をスルーして、スーツの右ポケットからデータチップと携帯Vフォンを取り出した。そして、データチップを携帯Vフォンにおもむろに差し込んだ。
「これを見て頂けますか。封筒に入っていたデータチップの動画です。全体で六時間ほどあるのですが、最初の四時間は早送りさせてもらいます」マイルズは、早送りボタンを押して、目的の場面で停止させた。
「この動画は、事件が起きたホテルの真向かいにあるマンションから固定した状態の携帯Vフォンで、前日の午後十一時頃から無人撮影されたものです。窓に掛けられたレースのカーテン越しに撮影されていますが、携帯Vフォンの最新暗視カメラ機能によって、画像は極めて鮮明です。加えて、データの色彩や明度などが大幅補正されていて、昼間に撮影されたものと遜色ありません」マイルズは、動画の再生ボタンを押して、携帯Vフォンの画面が本間に見えるように、テーブルの上の裏返しになっている写真の横に置いた。
老人がベッドの横、窓側の床下で少女に跨って首を締めていた。突然、向かい側の寝室ドアが開き、男が立っていた。
「この男も似てるけど、髪の色がな…」
老人は驚いて、少女の首から手を離した。その瞬間、老人は五メートルほど後方へ吹き飛び、空中に浮いたまま両手、両足をバタバタさせていた。少女の呼吸は、止まっているようだった。男はベッドを回り込んで少女に駆け寄った。仰向けになっていた少女の顔を覗き込むようにして跪き、少女の首に右手を翳した。その右手中指には指輪がはめられていた。男は少女の首に手を翳したまま、微動だにしなくなった。
「この男は、何をしてるんですか? 何故、警察や救急車を呼ばない? ……それと、一体どんな手品を使ったら、犯人を浮かせていられるんだ?」
「くぅっと、そしぇいしょつをしてぇるんでぇしゅよ」ランバートは、ショートケーキを頬ばりながら言った。
「えっ、何ですって?」
ランバートは急いでコーヒーを含み、口の中に残っていたショートケーキと一緒に飲み込んだ。
「ゴホッ、ゴホッ、すいません……きっと、蘇生処置をしているんですよ」
「でも、右手を翳してるだけですよ」
「あなたもその目で見たでしょう。手も使わずに犯人を吹き飛ばし、なおかつ空中に浮かせたままにするなんて、普通の人間じゃないんですよ」
「我々は、少女が殺されて、三十四人目の犠牲者になったと考えています」マイルズは、裏返しになっている写真の34の数字を指差した。
「少女は殺されて、この男が蘇生させたと?」
マイルズは、テーブルの上の携帯Vフォンを覗き込むようにして、早送りボタンを押し、目的の場面で停止させると再生ボタンを押した。
再生時間のデジタル表示は、六時間近くになっていた。
男は少女の首から右手を離すと、自分の左手中指にはめていた指輪を外して、少女の左手中指にはめた。少女は倒れたまま動かなかったが、呼吸をしているのが画面でも確認出来た。
「息を吹き返した」本間が声を上げた。
男は立ち上がり、背後の、長時間空中に浮いたままでぐったりしている老人に振り返った。突然、窓に掛けられたレースのカーテンがカーテンレールから外れ、生命を吹き込まれたように宙を舞い、空中に浮いたままの老人をぐるぐる巻きにした。次の瞬間、レースのカーテンがピタリと動きを止め、老人の身体は、引力によって数時間振りの地面である床へと転げ落ちた。
男は撮影に気付いたのか、携帯Vフォンのカメラに視線を向けた。次の瞬間、映像が途切れて画面が真っ黒になった。
「……」本間は、呆然となっていた。
「母は、この動画を録画したパパラッチを探し出し、焼け焦げて壊れた携帯Vフォンを大金で買い取りました。それをニュー・スコットランド・ヤードの科学捜査サービスに持ち込み、データを復元してもらうと、画像を補正するよう指示したそうです」
「お母様の事件に対する執念は、よく分かりました。それで、お母様は、この男が何者なのか突き止めることは出来たんでしょうか?」
「それは、母にしか分かりません。しかし、数少ない情報を元に、我々は一つの推論を立てました。洋服店の男と動画の男、そして銀髪の男が同一人物であると」マイルズは、相変わらず無表情のままだった。
「何を根拠に?」
「指輪です。洋服店の男、動画の男、どちらも両手の中指に指輪をはめていました。そして、銀髪の男は、右手中指に指輪をはめていましたが、左手中指に指輪はなかった。指輪を少女の左手中指にはめたからです」
本間は、テーブルの上の裏返しになっている写真を手に取って、もう一度見直した。
「本当だ。指輪をはめている…」本間は、写真を表にしてテーブルの上に静かに置いた。
「これは、極秘に入手した写真です」マイルズは、スーツの右内ポケットから写真を取り出し、本間の前に置いた。
大型オートジャイロから降りる銀髪の男。本間の撮った写真だった。
「こいつは……」本間は驚いて、マイルズを見た。相変わらず無表情のままだった。
本間は、フゥ~と軽く息を吐いてから、写真を手に取り、穴が空くほど見つめた。
「左手に指輪がない…」力が抜けたように、テーブルの上に写真を置いた。
「あなたは、知らないと思いますが、アハスエルスやカルタフィリスといった“さまよえるユダヤ人”やワーグナーのオペラ“さまよえるオランダ人”のように永遠の命を持つ者が、我々の知る限り九人いるんですよ。我々は、彼らを『ガリヴァー旅行記』の不死者になぞらえて“ストラルドブラグ”と呼んでいます」
「『血の祭典』のジュリアン・シルヴェールが本物の“ストラルドブラグ”であるならば、洋服店の男と同一人物の可能性はあって然りですよ」ランバートは、話を続けた。
「国防総省上層部の“フェニッキシアン”も、血眼になって“ストラルドブラグ”を追っています」
「“フェニッキシアン”?」
「永遠の命を欲する低俗な輩ですよ」ランバートは、皮肉たっぷりだった。
「権力の頂点を極めた人間ほど、永遠の命に対する執着心が半端ないんですよ」
「国防総省の狙いは、ジュリアン・シルヴェールただひとりなのです」とマイルズ。
「なぜですか? 九人いるんですよね」
ランバートは、スーツの右ポケットから携帯Vフォンを取り出し、素早く操作した後、その画面を本間に見せた。画面に映っていたのは、イスに座っている皺だらけの老人の姿だった。
「これは?」
「九人のうちのひとりです」
「“ストラルドブラグ”は本来、不死ですが、ご覧の通り不老ではないんです。国防総省がジュリアン・シルヴェールに拘る理由は、極めてシンプルです。彼が歴史上はじめて、不老不死と噂される“ストラルドブラグ”だからです」
「どうして、ここまで突っ込んだ話を私にするんですか?」
「あなたのことを調べて、信頼出来る人間だと判断したからですよ」
「おなた方は、一体、私に何を?」
「こちらで用意した匿名記事を横浜デイリー新聞の明日の朝刊に載せて頂きたいのです」マイルズは、メモリーチップを本間の目の前に置いた。
「この中に記事データが入っておりますので、後で内容をご確認下さい。我々との連絡方法につきましては、記事データに添付しておりますので、その指示に従って頂くようお願い致します」マイルズの話し方は、非常に事務的なものだった。
「記事を載せなかったら、私はどうなりますか?」
「我々は、国防総省やCIAではありませんよ。記事を載せなければ、あなたは大スクープを逃し、他の新聞社から大スクープが発表される。それだけのことですよ。あなたに損はないと思いますがね」とランバート。
「分かりました。返事は、何時までにすればいいですか?」
「返事は結構ですよ。明日の朝刊で確認させてもらいますから」
「分かりました」
「それじゃあ、本間さん。長い時間引き止めてしまってすみませんでした」ランバートは、頭を下げた。
本間のランバートに対するイメージが、第一印象から大幅に変わっていた……実質的なリーダーは、彼だ。
マイルズは、テーブルの上の写真二枚と携帯Vフォンをスーツのポケットにしまった。
ランバートが席を立つと、マイルズも急いで席を立った。
本間も立ち上がった。
「では、これで失礼します」 本間に深々とお辞儀をしてから、二人は出口へと向かった。
同時に、喫茶店のスタッフ、客、全員が立ち上がると二人に続いて足早に喫茶店から姿を消した。本間は、店内にひとり取り残された。
「取りあえず、座るか」フゥ~と軽く息を吐いてからイスに腰を下ろした。