ガルダ
二○八九年七月十六日 東京 午後十一時三十分
コーネリア・キルドレーンのマンションから五キロほど離れた森の中で、ノーフェイスとビル・ダイノートンは数メートル距離をおいて対峙していた。雨はすでに止んでいて、満月の明かりが森の中に射し込んでいた。その明かりに包まれた二人は、闇の中で、眩い光の粒子を纏っているように見えた。二人の周囲数十メートルは、木を伐採して地面をならした後のような更地と化していた。
「オマエが、そこそこの超能力者だっていうのは、よ〜くわかった。だが、所詮は人間だ。これ以上やれば死ぬぞ」
「私が死ぬことはない」
「おいおい、オレはオマエみたいな忠犬ハチ公は、はっきり言って嫌いだ。見てると胸くそが悪くなる。だが、暇つぶしの遊び相手にはもってこいだと考え直していたところだ。殺すのは惜しいからこうして忠告してやってるんだぜ」
「お前は私を殺せない」
「何なんだオマエ、バカなのか? もう一度言う。これ以上やれば死ぬぞ」
「やってみろ、お前は私を絶対に殺せない」
ノーフェイスは呆れたような顔をして、左手で何度か自分の後頭部を掻いた。
「わかった、わかった。そこまでほざくなら……」
「殺してやるよ」ノーフェイスの右手が霧状になって、消えてなくなった。
「?……」
「ぐっ……ぐはっ……ゴホッ……何だ? お前が私の心臓を掴んでいるのか?」ダイノートンは苦悶の表情で、胸を両手で押さえたまま地面に両膝をついた。
「ナノレベルまで粒子化させたオレの右手をオマエの口から体内に侵入させて、心臓を鷲掴みにしているんだ。どうだ、苦しいだろ?」
「ぐっ……」ダイノートンは、残された力をふり絞ってなんとか立ち上がったが、呼吸は今にも止まりそうだった。
「すぐラクにしてやるよ。ちょっと右手に力を入れるだけだ。こんな具合にな」
「ぐうおぉーーっ」ダイノートンの断末魔の叫びが森に轟いた。
力尽きたダイノートンは、巨木が根元から折れて勢いよく倒れるように、地面に身体を強く打ちつけて倒れた。
雲が満月を覆い隠し、森は再び暗闇に沈んだ。
ノーフェイスは粒子化させた右手を、握り潰したダイノートンの心臓から離脱させ、自身の右手に呼び戻し、元通りに実体化させた。
「ただのブラフだったか」息絶えたダイノートンを一瞥してから背を向けて、その場を立ち去ろうとした。その時、
「ガルルルルゥ……」
背後から聞こえてくる獣のような唸り声に、ノーフェイスは振り返った。
息絶えたはずのダイノートンが、ゆっくりと立ち上がった。暗闇の中、眼は不気味な赤色光を放ち、体毛が異常なスピードで増殖して身体全体を包み込んでいった。
「人間じゃ……ない? セリアンスロープ〈獣人〉だったか」
「ガルゥーーーー」獣の雄叫びが、森に轟いた。
「ハハッ、いいね。どんな獣に変わってオレを愉しませてくれるんだ? ヴァンパイアのような虚弱体質ばかり相手にするのは、いい加減ウンザリしてたところだ」
ダイノートンの身体が炎のように輝きはじめ、背中から巨大な赤い翼が飛び出した。
「!」
「……炎のように輝く身体に赤い翼……ガルダだったか」
「グルルルルゥ……」
「ハァーーーァ」ノーフェイスは、大きなため息をついた。
「オレは不死身の聖獣を相手にするほど暇じゃないんでな。そこそこ愉しめたよ。ダイノートン、またな」ノーフェイスは、一瞬にして姿を消した。
森に残された獣は、再び雄叫びを上げた。
「逃げられたか」暗闇の中から声がした。
「!」獣は、声のする方に視線を向けた。
満月を覆い隠していた雲が風で流れ、再び森に月の光が戻った。
森の中から、二人の闘いで更地になってしまった場所に、銀髪の青年が姿を現した。
「シルヴェール様!」ダイノートンは、獣から人間の姿へと戻り、銀髪の青年の前に膝まづいた。
「申し訳ありません。指輪を取り戻すことに失敗しました」
「気にするな。相手が相手だけに仕方がないよ。どうせ、ノーフェイスに命令を下した父上には、指輪の力を使うことは出来ない。私の力が無ければ、彗星計画は実行不可能なのだから……寧ろ、心配なのはコーネリアの早老症の方だ」