アジール
二○八九年七月十六日 午前十一時
上空からガラスの割れる音が響いた。
「あっ」何気なく十メートルほど先のGタワーを見上げていたジョン・スパンは、驚きの声を発した。
一緒に歩いていたパット・ジェネロウは、スパンの視線の先を追った。
Gタワーの高層階から、ガラスの破片がゲリラ豪雨のように地面に降り注ぎ、轟音をたてて周りに砕け散った。近くにいた人達は、破片に当たらないように頭を抱え込み、その場から一目散に逃げた。突然の集中豪雨が突然止むように、ガラスの雨は一瞬にして止んだ。
その時、何かが落ちて地面にぶつかる鈍い音がした。
「キャーッ」OLの甲高い悲鳴が周囲に響いた。
砂糖に群がる蟻のように、落ちた何かの周りには、瞬く間に野次馬が群がった。写真や動画を撮っている人間も少なくはなかった。
駆けつけたスパンとジェネロウは、野次馬を掻き分け、落ちた何かの正体に辿り着いた。
仰向けに血塗れの男が倒れていた。男から流れ出る血だまりに飛び散った細かなガラスの破片が赤いルビーのように鈍く光っていた。
ジェネロウは、警察官IDカードを翳して、野次馬にここから離れるよう怒鳴った。
血塗れの男をしゃがんで見ているスパンの横にジェネロウもしゃがんだ。
即死だった。後頭部と身体の背面が爆発したかのように破裂していた。男の首にはネームプレートがかかっていて、血で汚れていたが、なんとか判読することが出来た。
「H&B本社 広報部広報課係長 ジェームス・ピット」
スパンとジェネロウは、顔を見合わせた。
「またやられた。なんでこうも先回りされるんだ?」ジェネロウは、薄くなった頭髪を掻きむしりながら、携帯Vフォンを取り出して、神奈川県警に連絡を入れた。
「何処からだ、落ちたのは?」スパンはGタワーを見上げる。地上八十階あたりの窓ガラスが割れているのを見つけた。
「警部、あそこだ! 窓が割れてる」スパンは割れた窓ガラスを指差した。
「えっ、どこだ?」と眼を細めてみるが、よく見えていないようだった。
探偵の名前はジョン・スパン。改造人間。視力は、一般人の十倍強。
割れた窓ガラスからスパンをじっと見ているアフロヘアーでジョン・レノン風の丸眼鏡をかけた男がニヤリと笑った。そして、ゆっくりとスパンの視界から消えた。
「割れた窓ガラスからアフロヘアーで丸眼鏡の男が覗いていました」
「アフロに丸眼鏡だな。よしっ!、中へ入るぞ」ジェネロウは、スプリンターのようなダッシュを見せ、Gタワーの正面玄関入口へと飛び込んでいった。
「警部! 危険だ! 強化ガラスを壊した奴ですよ」スバンは、ジェネロウの無鉄砲さに呆れていた。
玄関入口のドアマンを突き飛ばして、走ってくる突然の侵入者に、正面玄関入口の受付カウンターにいた二名の受付嬢の一人が慌てて飛び出した。両手を大きく広げてジェネロウの突進を制止した。
「ダメです! 絶対にダメ! 許可証のない人がここを無断で通ると、命にかかわるんです」
「私は、ICPOのパット・ジェネロウだ! 緊急事態なんだ! どけろ!」と警察官IDカードを翳して、受付嬢を手で払い除けようとした。
「お願いです! お願いですから私の言うことに従って下さい」受付嬢は、ジェネロウにしがみついて必死になって止めようとした。
ジェネロウが、やっとの思いで受付嬢を振り切って数メートル進んだところで、急に身動きがとれなくなった。警備用武装オートマトンによって羽交い締めにされたのだ。
「社法第三十一条第二項ノ規定ニヨリ不法侵入者ヲ速ヤカニ排除シマス」
「やめてー! その人を殺さないで!」受付嬢は、悲痛な叫び声をあげながら、頭を両手で抱えて座り込んだ。
“殺さないで” “殺さないで” 受付嬢は何度も何度も心の中で祈った。
受付嬢は、肩を軽くボンッと叩かれて、ハッとして顔を上げた。
「大丈夫だ、任せろ」
スパンは、走りながらスーツ下の左脇ホルスターから四十四口径はありそうな銃を取り出していた。軽い身のこなしでジェネロウを羽交い締めにして背後が無防備になっていたオートマトンの肩に飛び乗り、延髄のリムスキー器官めがけて引き金を引いた。
鋲打機のような重々しい発射音がした。その衝撃波がリムスキー器官を中心にして上下に突き抜けた。スパンは発射の反動を吸収しきれず数メートル後方に弾け飛んだ。プレス機でスクラップを押しつぶすような軋みがフロア全体に響きわたり、床が抜けたような轟音が鳴った。
屈強なオートマトンは膝をつき、その機能を完全に停止させた。延髄から股間を突き抜けて床下にまで達する拳大の穴が空いていた。
ジェネロウは悪戦苦闘の末、スクラップと化したオートマトンの束縛から身体を振りほどき、ようやく自由を取り戻した。自分の首の存在を確かめるかのように何度もさすりながら、右手に銃を持って駆け寄るスパンに声をかけた。
「ふぅ〜、助かった。本当に助かった。すまん、面倒をかけたな」ジェネロウはまだ首をさすりながら、スパンが持っている銃をまじまじと見つめた。
「その物騒なオモチャは何だ?」
「Dr.カルルが発明した地中貫通爆弾もどきの重圧弾です。反重力研究の失敗から偶然生まれたものだそうです」
「Dr.カルル? ああ、あの戸部の変人か」
「ハハハッ、変人ね。まったくだ。でも、その変人のおかげですよ、警部が無事なのは」
「まさか、お前の友達だっていうんじゃないよな?」
「この銃をタダでくれるぐらいの仲ですよ」と言ってジェネロウに銃を見せてから、左脇ホルスターにおさめた。
「タダって、それ以前にそんなもん販売出来るもんか!……でも、まぁ、命拾いしたのは事実だしな。礼もしたいし、今度、紹介してもらおうか」ジェネロウは、バツが悪そうに頭髪を掻いた。
「はい、喜んで。彼は、今では数少ない“心ある科学者”ですからきっと警部も好きになりますよ」スパンは、屈託のない子供のような笑顔を見せた。
瞳を涙でいっぱいにした受付嬢が、駆け寄ってきた。
「大丈夫でしたか? お怪我はありませんか?」あまりにも一生懸命な眼差しに、さしものジェネロウもたじろみ気味だった。
「あ、ああ、大したことない。あと十秒遅ければ、コレだったけどな」右手で自分の首を切る仕草をした。
「一瞬だったが、手招きされたよ、死んだ爺さんに」今度は右手で手招きの仕草をした。
「だから……だからあれほど言ったじゃないですか」溢れ出る涙をハンカチで何度も拭い去った。
スパンは、泣き腫らした瞼と少し赤くなった鼻に受付嬢の純粋さを感じた。泣いた時に鼻が赤くなる女性を見るのは、これで三人目だった。
警備用武装オートマトンをスクラップにしたスパンとジェネロウに対して、H&B本社の対応はいたって寛大で、ICPOへの賠償請求は一切要求しないと公約した。その上、故ジェームス・ピット広報部広報課係長専用オフィスの現場検証も快く承諾した。オフィスには、ピット本人と女性秘書二名以外の指紋は一切検出されなかった。手掛かりと呼べるものは何ひとつ残されていなかった。おまけに、神奈川県警からは、勝手な行動をするなとこっぴどく叱られてしまった。
二○八九年七月十六日 午後二時
スパンとジェネロウは、新関内ステーションビルが目の前に見える珈琲専門店のテラスで、アイスコーヒーを飲んでいた。
「迂闊だった。あそこが“アジール”と呼ばれる聖域だってことをすっかり忘れてたよ」
「世界の“法”では裁くことが出来ない不可侵領域が、一企業に存在しているなんて驚きですよ」
「今、この世界を支配しているのはフリボリッツ、ソニアン、ロックス=ヒルの三大企業連合なのは言うまでもない。唯一対抗出来るのは、ジークフェルト系の財閥ぐらいのもんだろう。三大企業連合の支配層である『賢老会議』のつくりあげた超法規的軍需企業がH&B社だ。『賢老会議』統一議長ヨナ・ストラヴォは、国が軍事介入出来ない紛争地域に私設軍隊を派遣し、テロ組織やテロ国家の平定を成し遂げた。彼は、世界平和の均衡を保った功労者として『世界の良心』と呼ばれるようになったんだ。誰にも手は出せんよ」とジェネロウは、グラスからストローを外し、テーブルに置いた。グラスを口に運び、一口飲んで、話を続けた。
「企業としては、やましいところは何もないからいくらでも調べてみろっていう余裕のあらわれだな」アイスコーヒーを一気に飲み干し、氷だけが残ったグラスをテーブルに置いた。
「企業が、不法侵入者に対して死の制裁で対処するなんて、まともじゃないですがね」
「一瞬で、どれだけ多くの人間をどれだけ効率的に抹殺出来るか。そんな兵器を競い合って開発している連中だ。まともな訳がない」ジェネロウはグラスを口に運び、氷を一つ口の中に入れて噛み砕いた。そして、言葉を続けた。
「しかし、手掛かりがなくなったなぁ。せっかく総裁が、コーネリアの行方を知ってるかもしれないニュー・スコットランド・ヤードの潜入捜査官とコンタクトを取って下さったのにな」
新関内ステーションビル屋上に設置されている“モナリザ”と呼ばれる、あらゆる方向からの視聴が可能なパノラマヴィジョンは、東京で起きたバスジャック事件の犯人が射殺され、人質が全員無事解放されたというニュース映像を流していた。
「あれっ? 彼女……似てませんか?」“モナリザ”をぼんやり見ていたスパンが、人質となっていた少女の顔がアップになった映像を指差して、ジェネロウに声をかけた。
「コーネリア・キルドレーンが十七歳になったらこうなってるぞ写真に」とスーツの胸ポケットから写真を取り出し、ジェネロウに見せた。スパンと同様、ぼんやりと“モナリザ”を見ていたジェネロウは、写真と見比べて、
「おおっ、そうだな、よく似てるな。警視庁に照会してみるか」ジェネロウはすぐに携帯Vフォンを取り出し、警視庁に連絡を取った。