(9)
ヴァニスが目を覚まして、反省して、全てが元通りになったらきっとマティルダちゃんにも良い影響を与えるわ。
政策方針の転換は反発もあって大変だろうけど、政治は先を見据えた決断だって重要よ!
そう確信したあたしは気を強く持ちながら、昨日と同じ王族用の馬車に乗る。
するとやっぱり昨日と同じ、ろくろ首の妖怪馬がこっちを凝視してきた。
うっ、と一瞬身構えて、それでも負けずに睨み返す。
にゅうっと無遠慮に向かってくる横っ面を、手の平でべしんと引っ叩いてカウンターを食らわしてやった。
しつこいのよ全く! ジロジロ見ないでよ失礼ね! 見物料徴収するわよ!
驚いた馬はビクッと顔を引っ込めブルブル頭を振るった。
そしてスゴスゴと前へ進みだす。
ふ、ふふ。だいぶ妖怪にも慣れてきたわね。よーしよし。
そうよ。こちとら向こうの世界じゃ、妖怪クラスな連中と毎日渡り合ってたきたんだもの。
期限付きの仕事を「ごめん忘れてた」って前日に持ってくる上司とか。
溜めまくって厚さ10センチにもなった必要書類を、「ごめんずっと忙しくて」って夕方6時過ぎに提出してくる営業とか。
日本中から在庫を探してやっとのことで入荷した商品を、「ごめんもういらない」って返品してくる顧客とか。
妖怪「ごめん」に比べたら、ろくろ首なんて可愛いもんだわ。首が長いだけじゃないの。キリンの親戚みたいなもんよ。
鼻息も荒いあたしに、ヴァニスが面白そうに声を掛けてくる。
「また昨日とはずいぶんと態度が違うものだな」
「集団で追い立てられたら、嫌でも免疫がつきますからねぇ~」
「余のおかげ、というわけかな?」
「おかげというか、仕業というかねぇ~」
「ふむ。今朝はずいぶんと強気だな」
「あらそんな事ありません。わたしはいつでも平常心ですから」
「ほう? そうか?」
ヴァニスが顔を寄せてきた。唇が耳元に近づいてきて、思わず肩に力が入る。
な、なによ!? ちょっと近すぎ!
「いつも平常心のわりに泣いていたな? 昨日の夜」
ドキン!と心臓が鳴った。
ゆうべバルコニー越しに目が合ったあの時。やっぱり泣いてるのバレてたんだわ。
「なぜ泣く? 何がそんなに悲しい?」
ヴァニスの囁くような声が耳をくすぐる。温かい吐息を首筋に感じてヒクリと肩が震えた。
ちょ、近いってば!
「余に話してみよ」
「は、離れてよ」
「泣いていた話を他の者達に聞かれてもよいのか?」
うぅ、それは嫌だけど、ヴァニスが話すたびに息が……。
唇をキュッと噛み締め、あたしは全身に力を込めて耐えた。
くぅ、耳、首筋……!
そんなあたしを弄ぶように、ヴァニスは自分の鼻先をあたしの髪の中にうずめる。
そしてまた温かい吐息をふわりと吹きかける。
「なぜ泣いていたか当ててみようか?」
いらないわよ! だから離れなさいー!
耳と唇が今にも触れ合いそうなくらい近い。ヴァニスの黒髪とあたしの黒髪がハラリと混じり合う。
い、いったい何考えてるのよ!? このバカ王は!
『お兄様、きっと雫さまをお気に召されたんだわ』
マティルダちゃんの言葉を思いだし、ハッとした。
まさか本当にヴァニスがあたしの事を?
それでこんな必要以上にあたしに接近を? だとしたら、どうしよう!
ハーレムとか、側室とか、愛人とかの単語が頭の中をグルグルする。
そんな事を強要されたら、あたし抵抗できる? 周りは全員ヴァニスの味方ばかりの状況で。
夜伽を命じられて、泣く泣く強引に。
そんな悲惨な展開が頭に浮かんだ。どうしよう、どうしよう、どうしよ……。
「元居た世界の、家族の事を考えて泣いていたのであろう?」
……。
は??
「恥じる事はない。人間、いくつになっても父や母は恋しいものだ」
あたしは体の力を抜いてヴァニスを見た。
ヴァニスは真面目な顔で、小声で話し続ける。
「余の家族の肖像画を見て里心がついたのであろう? さぞ会いたかろう。その気持ちは余も理解できるぞ」
そういうヴァニスの黒い瞳は澄んでいて、揶揄している様子は全く無い。
あたしの心は、さっきまでのギャップのせいもあって素直に元の世界の家族の事を想ってしまう。
あぁ……お父さん、お母さん……。
国王一家の肖像画。
ごく当たり前の幸せな家族。奪われてしまった、二度と戻らない存在。
うちもごく平凡な家庭で、それに気付かないほど普通に幸せだったと思う。
失って初めて分かった。『普通』がどれほど大切かって事に。
あの時のあたしは、お父さんやお母さんに思い切り不平不満をぶつけて恨んでいた。
それはどこの家の娘でもやってる事だと思う。
……婚約破棄は、どこの家庭でもあるわけじゃ無いとは思うけど。
お父さんが弁護士だの慰謝料だのと叫んでいたのは、世間体じゃなかったんだろう。
娘をこんな目に遭わされた父親の、せめてもの反撃だったんだろう。
他に娘を庇う方法が分からなかったんだろう。
お母さんが彼の事をどうこう悪く言っていたのだって。
別にそれは、あたしの男を見る目が無かったんだと責めてたわけじゃなくて。
あたしの味方をしてくれていたんだろう。
元々あいつはそういう人間だったんだ。お前は何も悪くないんだ。
だから元気を出せと。
そう、言いたかったんだろう。ふたりとも。
なぜ気付かなかったんだろう。
どうして、今になって気付くんだろう。
いつも失ってから気がつく。手放してから、やっと。
彼の事も。家族の事も。ジンの事も。
のっぴきならない差し迫った状況になって初めて分かる。表面だけでは見ることのできない、奥深い部分に。
そして後悔するんだ。なぜあの時ちゃんと見る事ができなかったんだろうって。
元の世界へ帰れたら、今度こそちゃんと両親や皆と向き合いたいと思う。
でも帰ったら、ジンとは?
もう二度と会えなくなってしまう?
あたしは自分の不出来さ故にこの世界へ来てしまった。
そして後悔して、元の世界へ戻る旅を決意した。
でもこの世界で恋をしてしまった。銀の精霊、風のジンに。
そしてまた、どうすればいいか分からずオタオタと悩み揺れている。
堂々巡りだ。
なんの進歩もしてないじゃないの……。
あたしはこの先、どんな後悔をするんだろう。
過去を振り返り、再び「どうしてあの時」と悔やむ時が来るんだろうか?