(5)
うねうねと長い首をしならせ、口からは涎がダラダラ。
な、なんで涎垂らす必要があるわけ!? しかもあたしを完全にロックオンしながら!
どうし……いやいい! あえて知りたくない!!
「きゃああぁぁーーー!!」
あたしは血相変えて逃げ出した。
ドレスの裾を踏んづけて転びそうになりつつ、必死に走り回る。
妖怪馬達の入り乱れるひずめの音に追い立てられ、死に物狂いで逃げ込んだ先は……。
「あ」
石柱のトライアングルの、見事にど真ん中……。
あたしは周囲の石柱を見回し、ギリィッとヴァニスを睨み付けた。
馬を使って誘い込んだわねぇ!? 狐狩りの狐かあたしは!
どこまで非人道的な真似をするのよ! やっぱり狂王だわ!
でも当のヴァニスは涼しい顔。
「どんと来い、と言ったのはお前自身だぞ」
「だからって本当に来させなくてもいいでしょ!? あたしは狩りの獲物じゃないわよ!」
「狩りなどしていない。馬たちと触れ合わせてやろうとしただけだ」
「余計なお世話よ! 涎垂れてる目の血走った馬なんて、触りたくもないわ!」
狂犬病よりタチが悪いわ! そんな危険物体!
「おーえるという者が何者かは知らぬ。が、お前のような手合いの女の扱いなど、造作も無い」
「なんですってぇ!?」
「自尊心だけは高いが、中身は至極単純。片手一本で扱いは可能だ」
こ……この……どこまでも徹底的に、人をバカにした物言いときたら!!
今までの人生で会った、どの上司よりも虫が好かない!
「だからあんたのそーゆーとこ……!」
歯を剥いて怒鳴りつけようとした瞬間、石柱が唸るような音を立てて、振動し始めた。
言いかけた言葉を飲み込み、あたしは不安な気持ちでキョロキョロ周りを見上げる。
白い石柱が微細に揺れている。
空気を振動させ、低い音を鳴らし、まるで互いに呼び合っているようだ。
気のせいか音が、次第に大きくなっていく?
途端にあたしは、訳の分からない不安に駆られる。
な、なんだか全然理解できないけど、何かがヤバイ!
あたしはとっさに石柱のトライアングルゾーンから飛び出そうとした。
「動くな!」
ヴァニスが鋭い声を発してあたしを止めようとする。
でもあたしはお構い無しに逃げ出そうとした。
この状況で動くなと言われて、誰が素直に「はいそうですか」と戻るのよ。アホかあんたは。
ふんっと鼻から息を吐き出し、一歩前へ踏み出そうとした足が止まった。
あたしの目は、白く輝く刀身を捕らえる。
ヴァニスが剣を抜き、その切っ先をあたしの鼻先に向けて構えていた。
「動くな。そこから一歩でも動けば、斬る」
両耳にヴァニスの冷淡な声が聞こえる。
あたしの両目は輝く刀身から離れない。
今まで日常生活ではまったく無縁だった、剣という名の武器。
それが無造作に自分に突きつけられて、想像のつかないその脅威に足がすくんで動けない。
ヴァニスは恐らく本気で言っている。
脅しじゃない。この男は本当に、斬る。
狂王と呼ばれるこの男なら迷いも無く本当に人間を斬る。
目の前にはヴァニスの剣。そして周囲には振動する石柱。
あぁ、にっちもさっちも!
唸る音の広まりにつれて、空気が息苦しいほどにますます張り詰めていく。
進退窮まったあたしの額に汗が浮かぶ。手の平にもじっとりと汗が滲んだ。
どうしよう!? どうする!?
このままこの場所にいたら危険だわ! でも逃げたら容赦なく斬り付けられる!
いちかばちか、剣から身をかわして走って逃げ出そうか? 逃げ切れる?
ヴァニスの冷静沈着な目が、ひどく怖い。
ただ片手で剣を構えているだけなのに、腹の底が冷えるような威圧感を感じる。
きっと相当な腕前なんだろう。素人のあたしが剣をかわすのはきっと不可能だ。
仮に一瞬逃げおおせたとしても、馬に乗った護衛の兵士達に、あっという間に取り囲まれてしまうのは明らかだし。
焦る間にも石柱はますます激しく唸り、振動を続ける。
緊迫して高まった空気が皮膚を刺激して、痛みまで感じるほどだ。
何かが、確実に迫っている。得体の知れない、良くない何かが!
どうする? どうしよう? どうにもできない。
額の汗がツゥッとこめかみを伝った。背中にも汗がじわじわと滲む。
あたしもしかして、この場で死んでしまう?
あぁ、約束したのに。ジンに、必ず戻ると約束したのに。
ジンの笑顔が脳裏に浮かぶ。
胸が締め付けられるように、切ないほどに痛んだ。
あたしを見つめる銀色の瞳。風に揺れる銀の髪。
そっと触れ合った優しい指先。
会いたい。彼にもう一度会いたい!
会えないままで死にたくない! ジン! あたし、あなたに会わずに死ねない!