(2)
あたしの力を貸す?
それって、後ろから船を腕力で押せって意味じゃないわよね? やっぱり水の力?
「簡単に言わないでよ。あたしは初心者なのよ?」
「さっきはちゃんと虹の橋を作れたろ?」
「そりゃそうだけど、あの時とはワケが違うわよ」
「同じ要領だ。大丈夫、船が覚えてる」
「船が覚えてる? なにを?」
「神達を乗せて走った時の記憶さ。呼び覚ましてやればいいんだ。船も水の仲間だから」
船も水の仲間か。確かにそうね。
でも船の記憶を呼び覚ませと言われても、逆に困るわ。
具体的にどうしろってのよ。ヒザ突き合わせてじっくり対話すればいいわけ? 木造船相手に?
う~~ん……。
「無理」
「いいからやれ」
「無理だって~~」
「やってみろ。大丈夫だから」
仕方なくあたしは、またパンパンと勢い良くかしわ手を打った。そして心の中で熱心に語りかける。
えーっと、も、もしもし船さん?
…なんかちょっとバカらしく思えてきちゃった。まあ、いいわ。
もしもし船さん。覚えていますか? あなたが海原を走った時のことを。
たくさんの真っ白な帆を張り、風を満面に受けた時のことを。
モネグロスや、アグアさんや、眷族達を運んだ時のことを。
皆があなたと共に風を全身に浴び、髪を靡かせ進んだ姿を。
思い出して下さい。そして再び、走って下さい。
モネグロスとあたし達を乗せて、救いを求める水の精霊アグアの元へ。
不意に、わずかに船が動いた。
まるで長い眠りから薄い覚醒をして、身じろぎをするように。
ぼおっとした淡い光が船全体を覆って点滅している。きっと船が寝ぼけてあくびしてるんだ。
そんなわけないのに、なぜかあたしはそう確信した。
―― ザザァ……
耳に潮騒の音が聞こえてくる。
そんなバカな。砂漠のど真ん中に波音?
不思議に思って船の縁から身を乗り出し、下を見下ろすと…。
砂が、海辺のように波打っていた。
柔らかくしなやかに波打って、船体にぶつかって砕け散る。
あたし達を乗せた船を、砂が海面のように優しく揺らしている。
トプントプンと、深く柔らかな水音が聞こえてくる。
海だわ。砂の海だ。
言葉も出ない思いでその光景を眺めていると、船の縁に乗せたあたしの手にジンの手がそっと重ねられた。
一瞬ドキンとしてジンを見る。
「よくやった。雫」
ジンは微笑んでいた。銀色の瞳がとても美しく輝いている。
「後はオレの役目だ」
ジンの銀色の瞳が静かに閉じられ、研ぎ澄まされた美貌が天を向いた。
胸一杯に大きく息を吸い込んでいる。とても満ち足りたその表情。
ゆっくりと、ジンの唇から吐き出された風が、船全体を包み込んだ。
帆が風を受けてバンと張り、ゆらり…ゆらぁり…と、船の揺れがさらに大きくなった。
形容し難い、不可思議な浮遊感を全身に感じたと思った時。
船は、砂の海を悠々と進みだした。
うっわあぁぁ!
あたしは風に髪を靡かせ、大きく両目を見張る。
船が進んでる。砂漠の海を真っ直ぐ悠々と進んでいる。すごいわ!
ジンが閉じていた両目を薄っすらと開いて、あたしを見た。
その嬉しそうで生き生きとした表情。
そう。嬉しいのね、ジン。あなたの心は今、この砂の海原を駆けているんだ。
一陣の風となって自由に。
あたしの手に重ねられたジンの手から、無上の喜びが伝わってくる。
駆け巡る風。本当になんて素晴らしい風なんだろう。
浮き上がるような心地良い風に、あたしは目を閉じた。
走る。走っている。黄金の砂の海原を。
あぁ、バンと張った帆の全面に受ける風がなんと気持ちいい。
阻む物など何も無いのだ。大いなる金の海原を駆ける私を阻むものなど、ありはしない。
偉大なる砂漠の神、モネグロスを乗せる船たるこの私を、阻むものなど。
風の精霊と水の精霊が、共に進んでくれている。
自由に駆け抜ける風と、美しくおおらかな水が。
『なんて素晴らしい船』
舳先に立ち、両腕を広げ、その身に余すところ無く風を受ける水の精霊。
太陽の強烈な日差しを浴びて、目がくらむほど眩しく輝いている。
『何物にも例え様が無いほどよ。ねぇモネグロス』
愛する神に微笑む美しい、アグア。共に海原を駆けた我が良き友よ。
今……何処?
気付けばあたしは、止めどなく涙を流していた。
悲しくて切ない。苦しくて、しのびない。
あたしの胸を締め付ける強い感情は、この船の記憶?
ううん、これは、この船の感情だ。
海原を駆ける喜びを奪われてしまった。
傍らで共に悲しむ友がいるならば、まだこの非業の仕打ちに耐えられようものを。
それすらも失い、失意の中で延々と見る夢。
それは、かつて確かに存在していた輝き。幸せに満ちた記憶。
今こうして再び黄金の海を駆けれども
偉大なる神をこの背に乗せども
一陣の風は傍らに吹けども
我が友アグア。お前はいない。お前だけが足りない。
我に触れるその手に再び会いたい。もう一度、共に金の海を駆けたい。
どこに……どこに、いるというのか……。
会いたい。会いたい。かけがえのない友。
美しいアグアよ……。
胸に大きな穴が開いたような喪失感。
その穴に吸い込まれるかのように、次々と涙が零れ落ちる。
失った宝物を探し求める心。代わりになるものなど、無い。そんなものなどありえ無いの。
あてど無く指を伸ばし、でもその先は闇ばかりで。
空を掴む虚しい悲しみにキュッと唇を結んで、泣き続けるあたし。
辛い。切ない。
求めても求めても、もうそこに居ない苦しみ。また、そんな苦しみをこんな形で味わうなんて。
「雫よ」
モネグロスが、あたしの隣に立つ。
「感謝します。私の目を覚まさせてくれた事に。そして…」
土気色の顔が、優しく微笑んだ。
「共にアグアを救うと言ってくれたことに」
あたしは大粒の涙を零しながら、何度も何度も頷いた。