絶望と希望(1)
あたしが元の世界へ戻り、もうすぐ一年が過ぎようとしていた。
あぁ、今日は天気がいいなぁ。風も気持ちいい。
あたしはうーん、と背伸びをしながら高く澄んだ空を見上げる。
会社の屋上にペタリと座り込み、ひとりで空を見上げるのは、いつもの昼休みの過ごし方だ。
……あの後。
意識を取り戻したあたしは、会社の制服姿のままで会社の屋上に倒れていた。
そして、こちらの世界ではほとんど時間が経っていない事を知った。
ものの5分か10分程度。
どんな作用が働いたのかは分からないけれど、お陰であたしは何の騒ぎもなく、すんなり日常に戻れた。
あくまで表面上は、だけれど。
しばらくの間は折り合いをつけるので精一杯だった。
あちらの世界での体験の凄まじさは、言語を絶するものだったから。
こっちの日常でのギャップに心が追いつかなくて、結局また数日会社を休んで寝込んでしまった。
でもいつまでもそうしてもいられない。
あたしは会社に出勤して、日常生活を過ごし始めた。
最初のうちはかなり情緒不安定で、いきなり泣き出しちゃったりなんてのはしょっちゅうで。
矢も楯も堪らず会社の屋上に駆け上り、フェンスにヤモリみたいにしがみ付いたりもした。
ひょっとしたら、またトリップできるんじゃないかと期待して。
こっちの世界で生きるべきだと決意したけど、あたしの決意なんて、まぁそんなもんよ。
すぐにヘナヘナと紙切れみたいに腰砕けになってしまう。
でも結局、トリップはできなかった。
きっともう二度とできないんだろう。
フェンスにしがみ付いたヤモリ体勢のままで、あたしはずいぶんと泣いた。
それでも時間と日常ってのは、実に見事な妙薬で。
否応なく時間は過ぎていき、少しずつ少しずつ、あたしはこちらの日常に向き合えるようになっていった。
彼とあの娘は揃って会社を辞めた。
自己都合による依願退社って事になっている。
でも実はクビになったんだとか、まことしやかに噂が流れた。
本当のところはどうなのかは分からないけど。
別にそのまま結ばれて幸せになるのなら、なればいいし。
別れる事になるのなら、それはそれ。
あたしとあのふたりの人生はもう関係が無くなってしまったんだから、どうなろうと、それはあのふたりだけの問題。
まぁ多少はご縁があったわけだから、せいぜい長生きできればいいね、程度には思う。
両親ともすっかり和解して、今では何事もなかったように毎日笑って接している。
弟達もまったく変化なし。相変わらず掃除や洗濯や食器洗いの当番の事でケンカばかりしてる。
近所のペキニーズの吠え声も健在。やれやれ、まったくあの犬ときたら。
何事も変わらないこちらの日常生活の流れ。
変わった事があるとすれば。
土を見ればノームを想い。
火を見ればイフリートを想う。
沈む黄金の夕日にモネグロスを想い。
緩やかなウェーブの黒髪の男性を見ると、思わず振り返る。
そして……そこには誰も居ない事を思い知る。
懐かしさと切なさに心を締め付けられ、しばし佇む。
風に吹かれながら。
ジンのものでは無い風に身をさらし、思いは乱れ、心は飛ぶ。
あの世界の愛する者の元へ。
そしてあてど無く彷徨い、心は結局日常へ帰る。
あたしの生きるべき、この日常に。
今こうして会社の屋上で風に吹かれ、思うはやはりあの世界の事。
あれからどうなったんだろう。みんな無事に復活できたんだろうか。
あたしの事は記憶に残っているのかしら。
どんな生活を送っているんだろう。
なんとか頑張って毎日生活しているだろうか。
神と精霊と人間の関係はどうなっているだろう。
思いは尽きない。気掛かりはとめどない。
でもどんなに考えても答えは出ない。分からない。
気にかけるだけ無駄なんだろうけど、でも世の中、無駄とか無意味とか、そんな物差しだけでは価値は計れない。
だからあたしはこれからも想うのだろう。
この先もずっと、毎日の日常を精一杯過ごしながら、折にふれて思い出を彷徨う。
あの時間は、あたしの中の大切な一部分なのだから。
あぁ、前髪を揺らす風が気持ちいい。
耳をくすぐる風の流れる音が、心地良いささやき声のようだ。
まるで誰かに呼ばれているみたい。
雫と、あたしの名を。
『……ずく……』
そう。そんな風に。
『……ずく。しずく。雫』
ええ、こんなにハッキリと聞こえる気がするわ。
『雫! おい雫って!』
あぁ、まるで本当に彼が呼んでいるような。
『おい!! 聞こえてんなら返事ぐらいしろよお前は!!』
………。
はあああーーー!?