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(ジン、誰にも絶対に言えない事、いま心の中でだけ言わせて)


 あたしは啜り上げ続けながら彼の頬を撫でる。

 その手に、感触は何も無かった。

 それがとてつもなく悲しくて、うっすら見えるジンの顔の形を、ひたすらに感覚だけでなぞる。


(あなたが消えてしまうなら、もう世界なんてどうでもいいって一瞬考えちゃった。それほどあなたを愛してるのよ)


 大馬鹿女の、小さな本音。聞こえた? ジン。

 聞こえたなら、返事してよ……。


 体中の水分が枯れてしまいそうなほど、あたしは涙を流し続ける。

 そして透き通った彼の唇に自分の唇を重ねた。


 その時、ドサリと何かが倒れるような音がして、あたしは顔を上げた。

 そしてそこに見えたものに目を見張る。

 ヴァニスが、倒れている。しかも体中から白い湯気のような、煙のようなものが濛々と出ている。


「ヴァニス!? どうしたの!?」


 血色の戻っていたヴァニスの顔色がみるみる悪化して、白い煙と共にそれはどんどん蒼白になっていった。


「ヴァニスどうしたのよ!? その煙の正体は何なの!?」

「あれはモネグロスの命の砂と私の水です」


 アグアさんの声にあたしは勢い良くそっちを向いた。

 命の砂と水!? それってさっき、アグアさんがヴァニスに与えてくれたやつよね!?

 それがヴァニスの体から出てしまっているの!? どうしてよ!?


「アグアさん、ヴァニスを回復してくれたんでしょう!?」

「ええ。ですがそれは一時的なものです」

「い、一時的!?」

「神の命は、人間の器には納まらない。もう時間切れです」


 あたしは唖然として口を開いたまま言葉も出なかった。

 そんなのってないわよ!!


「アグアさん! お願い何とかして!」

「不可能です」

「そんな事言わないで!」

「無理です。命とは……」


アグアさんは俯き、涙を一粒流した。


「命とは、世界にたったひとつしか無いものなのです……」


 命は、たったひとつだけ。

 マティルダちゃんの命も。イフリートの命も。ノームの命も。

 ヴァニスの命も。モネグロスの命も。ジンの命も。


 取り替えがきくものならば、あたしもアグアさんもこれほど苦しみはしない。

 身も枯れるほど嘆き悲しみはしない。

 命とは、失えばそれほどもう、どうしようもないものなんだ。


「雫よ……」

ヴァニスの黒ずみかけた唇から、小さな声が息と共に漏れた。

「これで良い。余は人間の王として、マティルダの兄として、果たしたい望みを果たした」


 果たしたい望み?

 ……違う。そうじゃない。あなたが本当に果たしたい望みは。


 帰りたいんでしょう?

 ロッテンマイヤーさんの元へ。お城の人達の元へ。国民の元へ。

 そしてこれからも全力で皆を守って生きたいんでしょう?


 そう問うあたしに、ヴァニスはぼんやりとした目で笑った。


「これでもう、尻をぶたれる心配をせずに済む」


 初めて出会った時から、いつも変わらぬ強い視線。

 堂々と伸びた背筋でまっすぐ前を見て、進む道を信じる姿。

 間近で見た、吸い込まれるような黒い瞳。

 あたしの頬にかかった黒い艶やかな髪。


 触れた唇。抱きしめられた広い胸。優しい言葉。

 受け入れる事のできなかった、あなたの想い。


 ヴァニスの体から昇る煙の量が徐々に少なくなってきた。

 ヴァニスの命がもう尽きる。逝ってしまう。これも、代償のひとつ。

 全てが代償として逝ってしまう。


「ヴァニス!!」

「ならぬ」


 思わず腰を浮かしたあたしをヴァニスが諌めた。


「来てはならぬ。お前がいるべき場所は余の傍ではない」

「……!」

「間違えては、ならぬ。雫よ」


 ヴァニス。最後まで、あなたはなんて誇り高い王。

 常に民を、人を、正しき道へ導こうとする。


「そこで見ていて欲しい。ヴァニスが人間の王として、生を全うする様を」


 煙が細々と立ち昇る。

 一筋、また一筋、消えていく。

 ヴァニスの体から生気が消滅していく。

 目から光が消え、皮膚は黒ずみ、力が抜けていく。

 その様をあたしは瞬きもせずに見ていた。


 最期まで、最期の一瞬まで見届ける。

 このあたしの両の目でしっかりと。

 間違いなくヴァニスという人間の王が生きた証を!


 涙が視界を曇らせ邪魔をしたけれど、あたしは何度も何度も手で拭った。


 そして最後の、白い一筋。

 完全に死相を浮かべたヴァニスの唇が、微かに動いた。


『…………』


 まったく音を成さない、短いひと言。

 ほんのたったひと言。

 それで充分だった。充分に理解できた。


 彼は、世界の全てを肯定した。



 ―― ドシュゥッ!


 閃光が走り、石柱から眩い光が天に向かって行く。

 人間の誇り高き王ヴァニスは……旅立った。


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