(10)
(ジン、誰にも絶対に言えない事、いま心の中でだけ言わせて)
あたしは啜り上げ続けながら彼の頬を撫でる。
その手に、感触は何も無かった。
それがとてつもなく悲しくて、うっすら見えるジンの顔の形を、ひたすらに感覚だけでなぞる。
(あなたが消えてしまうなら、もう世界なんてどうでもいいって一瞬考えちゃった。それほどあなたを愛してるのよ)
大馬鹿女の、小さな本音。聞こえた? ジン。
聞こえたなら、返事してよ……。
体中の水分が枯れてしまいそうなほど、あたしは涙を流し続ける。
そして透き通った彼の唇に自分の唇を重ねた。
その時、ドサリと何かが倒れるような音がして、あたしは顔を上げた。
そしてそこに見えたものに目を見張る。
ヴァニスが、倒れている。しかも体中から白い湯気のような、煙のようなものが濛々と出ている。
「ヴァニス!? どうしたの!?」
血色の戻っていたヴァニスの顔色がみるみる悪化して、白い煙と共にそれはどんどん蒼白になっていった。
「ヴァニスどうしたのよ!? その煙の正体は何なの!?」
「あれはモネグロスの命の砂と私の水です」
アグアさんの声にあたしは勢い良くそっちを向いた。
命の砂と水!? それってさっき、アグアさんがヴァニスに与えてくれたやつよね!?
それがヴァニスの体から出てしまっているの!? どうしてよ!?
「アグアさん、ヴァニスを回復してくれたんでしょう!?」
「ええ。ですがそれは一時的なものです」
「い、一時的!?」
「神の命は、人間の器には納まらない。もう時間切れです」
あたしは唖然として口を開いたまま言葉も出なかった。
そんなのってないわよ!!
「アグアさん! お願い何とかして!」
「不可能です」
「そんな事言わないで!」
「無理です。命とは……」
アグアさんは俯き、涙を一粒流した。
「命とは、世界にたったひとつしか無いものなのです……」
命は、たったひとつだけ。
マティルダちゃんの命も。イフリートの命も。ノームの命も。
ヴァニスの命も。モネグロスの命も。ジンの命も。
取り替えがきくものならば、あたしもアグアさんもこれほど苦しみはしない。
身も枯れるほど嘆き悲しみはしない。
命とは、失えばそれほどもう、どうしようもないものなんだ。
「雫よ……」
ヴァニスの黒ずみかけた唇から、小さな声が息と共に漏れた。
「これで良い。余は人間の王として、マティルダの兄として、果たしたい望みを果たした」
果たしたい望み?
……違う。そうじゃない。あなたが本当に果たしたい望みは。
帰りたいんでしょう?
ロッテンマイヤーさんの元へ。お城の人達の元へ。国民の元へ。
そしてこれからも全力で皆を守って生きたいんでしょう?
そう問うあたしに、ヴァニスはぼんやりとした目で笑った。
「これでもう、尻をぶたれる心配をせずに済む」
初めて出会った時から、いつも変わらぬ強い視線。
堂々と伸びた背筋でまっすぐ前を見て、進む道を信じる姿。
間近で見た、吸い込まれるような黒い瞳。
あたしの頬にかかった黒い艶やかな髪。
触れた唇。抱きしめられた広い胸。優しい言葉。
受け入れる事のできなかった、あなたの想い。
ヴァニスの体から昇る煙の量が徐々に少なくなってきた。
ヴァニスの命がもう尽きる。逝ってしまう。これも、代償のひとつ。
全てが代償として逝ってしまう。
「ヴァニス!!」
「ならぬ」
思わず腰を浮かしたあたしをヴァニスが諌めた。
「来てはならぬ。お前がいるべき場所は余の傍ではない」
「……!」
「間違えては、ならぬ。雫よ」
ヴァニス。最後まで、あなたはなんて誇り高い王。
常に民を、人を、正しき道へ導こうとする。
「そこで見ていて欲しい。ヴァニスが人間の王として、生を全うする様を」
煙が細々と立ち昇る。
一筋、また一筋、消えていく。
ヴァニスの体から生気が消滅していく。
目から光が消え、皮膚は黒ずみ、力が抜けていく。
その様をあたしは瞬きもせずに見ていた。
最期まで、最期の一瞬まで見届ける。
このあたしの両の目でしっかりと。
間違いなくヴァニスという人間の王が生きた証を!
涙が視界を曇らせ邪魔をしたけれど、あたしは何度も何度も手で拭った。
そして最後の、白い一筋。
完全に死相を浮かべたヴァニスの唇が、微かに動いた。
『…………』
まったく音を成さない、短いひと言。
ほんのたったひと言。
それで充分だった。充分に理解できた。
彼は、世界の全てを肯定した。
―― ドシュゥッ!
閃光が走り、石柱から眩い光が天に向かって行く。
人間の誇り高き王ヴァニスは……旅立った。