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(9)

 あたしは声の主を探した。

 彷徨った視線が見つけ出したその人物は……。


 アグア、さん?


 アグアさんが上体を起こし、片腕を番人に向けて伸ばしていた。

 あたしは状況が理解できずに呆けるばかり。


 ヘドロにまみれ、爛れた姿。

 かつて讃えられた美貌の片鱗も無い。

 とり返しのつかない過ちを犯してしまった彼女は、二度と元の姿に戻る事はないかもしれない。

 それでもその全身は威厳に満ちている。


「私が世界の汚染の元凶。全ての謗りを受けるべきはこの私」


 堂々とした姿勢。清涼な声。

 奥底から湧き出す、輝くような清廉な心を彼女から明確に感じる。

 美しい。神々しいほどに美しい。彼女はやはり水の精霊アグアなんだわ。


「それでも、私はあなただけは許せない」


 ―― ザアァァッ!


 再びあの音が響き、アグアさんの手から鋭い水流が、まるで鉄砲水のように一直線に番人に放たれた。

 ……いや、違う。あれは水だけじゃない。水と一緒に、なにかが……。


 その正体を見定めようと懸命に凝らしていたあたしの両目が、大きく見開かれた。

 砂だわ! 水に大量の砂が混じっている!


「ただの人間や精霊ごときに手出しは不可能でも、世界で最も偉大な神、モネグロスの命の砂はどうですか?」


 砂漠の神モネグロスと、水の精霊アグア。

 ふたりの力の結晶が、番人の体を確実に貫くのをあたしは見た。


 アグアさんの手から水流が放たれるたび、番人の体は跳ねるように震えた。

 純粋な愛を知るモネグロスの命の砂が、世界の全ての価値を否定する者の体を貫いていく。

 番人の体からは血も気体も、何も出なかった。

 ただ複数のいびつな穴が、ポカリと体のあちこちに開いている。

 その姿はとても不気味で、どこか滑稽にも見えた。


 我が身を破壊されながらも、どこまでも番人は無表情だった。

 痛覚という感覚すらも否定しているのかもしれない。

 それでも番人の体はフラリとよろけて、倒れる寸前に踏みとどまる。

 ダメージは受けているんだわ。それもかなり。

 そう感じたあたしの胸に小さな光が灯った。


 番人を倒せる!!

 今まで何をどんなにしても超然としていたけれど、これできっと倒せる!

 世界を救える! これまでの全ての犠牲は報われる!

 やっぱり無駄でも無意味でもなかった!! ねぇ、みんな!!


 ついに番人がその片膝を地面につけるのを見て、あたしの胸は激しく高揚した。

 心臓が口から飛び出そうになる。

 もうちょっと! あともうちょっとよ!!


 ところが、我を忘れてその光景を見守るあたしの目が、あるものを捉えてハッとた。

 番人の、強い意志に彩られた目を。


 あれは、あの目は何も諦めてはいない。

 自分の望むものに、今まさに手を伸ばさんとする寸前の者の目だ。

 勝利を確信している者の目。


 あたしの胸に宿った小さな光が途端に翳り、強烈な不安がよぎった。

 まだ、何かがこれから起きる!?


 その時ヴァニスの全身に突き刺さっていた杖が、忽然と消滅した。

 栓を失ったことで、全ての傷口から僅かに残ったヴァニスの血液が零れ出る。

 あたしは両手で口元を覆いながら悲鳴を上げた。

 ああ! ヴァニスに残った最後の血が、最後の命の灯火が消える!!


 番人が皺枯れた手を頭上に掲げた。

 その手に、一本の杖が握られている。

 素早く振り向き、番人はアグアさんへ向けて大きく杖を振りかぶった。


「アグアさん! 逃げてぇぇぇ!!」


 裏返るあたしの絶叫が空間に響いた。

 でもアグアさんは逃げない。

 掲げた片腕を、何かを撫でるかのような滑らかな仕草で静かに下ろす。

 その手の動きに連動するように、モネグロスの砂と水が、ヴァニスの全身にサッと降り注いだ。


 モネグロスの命の砂。

 命を育み守るアグアさんの水。

 それが染み渡るようにヴァニスの体に吸収されていく。


 番人の目が、精霊の生贄を石柱に捧げるために狙いを定める。

 アグアさんに向けて大きく振った腕から、杖が放たれようとしていた。


 その一瞬。番人の背後の頭上から足元まで。

 一本の、細く鋭い光の線が走った。


 と、番人の体は、まるで魔法にかけられた様に完全に動きを止めた。

 そしてドサリと、吊り糸が切れた操り人形のように前のめりに倒れる。


 ついに、番人が地に伏した。


 信じられない思いでその光景を凝視するあたしの目には、神剣を両手に掴んで立つヴァニスの姿が映っていた。


 番人の体には、深い刀傷が縦一直線に刻まれていた。

 あの一筋の閃光はヴァニスの刀身の輝きだったんだ。

 人間の王ヴァニスの、神剣による渾身の一撃。

 それによって引導を渡された番人はピクリとも動かなかった。


「余は……今、悟った」


 濃い血の赤に染まった、彼の端正な顔。

 漆黒の衣装は真紅の血を吸い、ギラギラと異様な色彩を放つ。


「神から賜った宝刀。神と精霊から預けられた命。そして」


 乱れきった黒髪。そんな凄惨な姿とはまるで対照的な、澄んだ瞳。


「そしてそれを動かすのは、人間の意志であると」


 ヴァニスは胸が膨らむ限界まで大きく息を吸った。

 そして満足そうに目を閉じ、ふうぅっと長く息を吐く。

 その表情は穏やかで、とても満ち足りていた。

 そして……、ほんの僅かばかりの悲哀が混じっていた。


 あたしは、ひたすら泣いていた。

 とても話すことなんかできない。

 この胸に、この世界に来てからの様々な思い出が、嵐のように心の中を駆け巡る。


(ジン……終わったよ……)


 下の地面が透けて見えるほど薄くなってしまったジンの体をすり抜けて、あたしの涙がボタボタと土に染み込んでいく。

 もうすぐ終わる。ジンの時間も。


 かけがえのない大切な時間。

 失った大切な存在達。

 それを代償として守りきったもの。


 守りたいと望み、その為に戦い、手に入れた。

 皆がそれぞれの役目を立派に果たして、素晴らしい偉業を成し遂げたんだ。

 そして。


 その結果ジンはこれから消えていく。


 あたしは最愛の者を失うんだわ。世界の存続という戦果と引き換えに。


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