(8)
自分の目に映る光景が信じられない。
現実とはとても思えない。
あたしはか細い息を吐き、目に映るものを懸命に否定した。
嘘よ。こんなの嘘だわ。
こんな残酷な光景、あるはずがないもの。
人間の体に、ヴァニスの体に……。
あの、素晴らしい王であるヴァニスが、こんな、こん、な目に……。
半分意識を失っているあたしの横で、番人は平然と石柱を眺めている。
石柱が白い光を放つのを、いまかいまかと待ち構えているんだ。
でも……。
「…………?」
無表情だった番人が怪訝そうな態度を示した。
石柱が、光らない。
番人は串刺しのヴァニスのもとへと近づき、身を屈めて覗き込んだ。
番人の手がヴァニスの胸元から何かを取り出すのが見える。
金色と赤色の混じったそれは……。
マティルダちゃんの髪飾りだった。
「これにより致命傷を避けたか」
その番人の言葉に、あたしは胸が詰まって泣きそうになる。
マティルダちゃんの髪飾りがヴァニスを守ってくれたんだ。
「無意味な」
番人は無感動に言い捨て、振り返った。
「風の力で杖の勢いを弱めたか。それもまた、無意味」
番人の視線の先には、地面に這いつくばるジンの姿があった。
やっとの事でここまで這いずってきたんだろう。
もう彼には頭を上げる気力も無く、定まらない視線だけが朦朧とこちらを見ている。
肩からは銀色の気体が漏れ続け、全身が銀に染められていた。
半分飛んでいるあたしの意識が、ジンの存在によって少しずつ動き始める。
すると、ジンの姿が一瞬霞んだ。
ぼうっと全身が淡く光り、蛍のように瞬いている。
あれは? あの光は。
消滅の光り!!?
あたしの脳は頭から冷水を浴びせられたように一気に覚醒した。
血液が凍りそうな衝撃を受ける。
あれは水の精霊やモネグロスが消滅した時と同じ光りだわ!
じゃあ、まさか、ジンが消滅してしまう!?
「いやあぁぁ! ジン!!」
あたしは転がるようにジンの所へ駆け寄った。
ジンの体に縋り付き、懸命に両腕で揺さぶる。
「ジン! しっかりしてジン!!」
嫌よ嫌!! 死なないで!! それだけは嫌あぁぁ!!
ジンは揺さぶられながら、あたしを見上げた。
ほとんど意思の消え去ってしまった曖昧な目で。
もう、意識は混濁してしまっているのかもしれない。あたしの事も分かっていないのかもしれない。
「ジン! ジン! ジン!!」
狂ったように彼の名を叫んだ。
あたしの頭も体も心も、爆発して粉々に砕けてしまいそうだった。
それでもいい! 砕け散っても構わない!
そしたら、そしたら最期に水の力が発動するかもしれない!
まだ彼には質感がある! まだ間に合う! きっと助かるわ!
あたしの命と引き換えに助けられるかもしれない!
必死のあたしの望みも虚しく、ジンの全身の瞬きが見る間に強まった。
あぁ、透けていく! 透き通るように儚くなっていく!
消えてしまう! あたしのジンが!
命よりも大切な愛するジンが、今ここで消滅してしまう!!
あたしはもう半狂乱だった。
ギャアギャアと金切り声を上げ、血を吐くほどに絶叫し続ける。
正常な意識なんてとても保てない。
『こんなのは嫌だ』
その感情だけがあたしの全てを支配し、突き動かしている。
水! 水の力!
あたしの体中の血液も体液も何もかも、全部一滴残らずジンに捧げる!
血も骨も肉も心も、命さえも、何もかも失っても構わない!
でもジンだけは失えない!
たとえこの恋が成就しなくても、あたし達が結ばれなくても、それでも。
それでも! ジンが生きていてくれればそれでいい!!
「……ずく……」
ジンの唇が動いた。
もう下の地面が透けるほど薄くなってしまったジンの体。
恐らく彼の自己意識も消滅しかけている。
「ずく……し、ずく……しずく……」
その彼が、あたしの名を呼んでいる。
あたしは、どおっと涙を流した。
ジンは自分自身が誰であるかすらも覚束ないのに、それでも、あたしの名前を・呼んでくれる。
命の消える瞬間まで、きっと彼はあたしを呼ぶ。
なぜ? それは。
「し、ず、く……」
その名を持つ者を、彼が心から愛しているから。
これ以上ないほどの確かな愛の証を捧げられて、あたしは泣き喚く。
もうあたしの愛を彼に伝える時間と手段の無い悲劇に。
髪を掻き毟り、時よ止まれと懇願する。
でも現実はどこまでも無情。
番人が今まさにヴァニスの命を奪おうとしていた。
「金の髪飾りも、風の力も、異世界の人間の涙も、全ては愚かで無意味」
淡々と語る番人の声。
無意味だと語るその声にすら、何の意義も感じられない。
きっと本当に、無意味なんだ。
番人にとってこの世界における全ては無意味なんだ。
命も、愛も、涙も、なにもかも全て、価値のカケラもない。
唯一、始祖の神の復活だけ。ただそれだけが、番人の……。
「この世界は罪に汚染され、始祖の神によって破壊される。ただそれだけが現実である」
番人は両腕を大きく広げ、暗く渦巻く天を仰ぐ。
その足元には瀕死のヴァニスの、体中に杖の突き刺さった断末魔の姿があった。
あぁ、あたし達はまるで神の裁きを待つ罪人のようだ。
終末の時を向かえ、呆然と、超越せし者の姿を下から見上げるのみ。
圧倒的な力を前に、それでも、それでも。
それでも
『死にたくない』と懸命に足掻き続ける。
…………。
それが無意味? 愚か?
いいえ、無意味じゃない。
決して無意味じゃない。愚かでもなんでもない。
破壊だけが現実でもない。
それは違う。
あたしは、それを、知っている。
だからあたしは絶対に、拒絶する!!
―― ザアァァッ!!
突如、重く形容し難い不思議な音が聞こえた。
同時に、天を仰ぐ番人の体が大きくビクンと震える。
「確かに私は、愚かにも道を踏み外し罪を犯した」
不意に響く、場違いなほどの静かな声。
どこかで聞いたことがあるような。誰?