(4)
―― ごぽり……
モネグロスが倒れているすぐ横の地面に、黒い染みが突然浮かんだ。
染みの表面はヌラヌラと水面のように揺らめいている。あれは、黒い水溜り?
―― ごぽり ごぷり……
水溜りは広がり、そしてみるみる上方へと盛り上がっていった。
粘度のある真っ黒な塊りが、ゴプゴプと音を立てて何かの形に形成されていく。
悪臭がツンと鼻を突き、あたしは鼻を手で覆った。
そして盛り上がっていく黒くドロリとした塊りを唖然と見た。
このドブの底のような臭い。形容し難い不気味な色。わずかに見られる人型の形状。
……アグアさん!?
そこに突如として現れたのは、紛れも無くアグアさんだった。
全身を悪臭とヘドロで覆われ。
生きる屍のような爛れて腐り落ちた醜い顔。
悪意に堕ち、道を踏み外した成れの果て。
飛び出た眼球が、消えかけたモネグロスを見下ろしている。
そのモネグロスは言葉もなく、アグアさんを見上げていた。
あたしはその光景を、身動きすら出来ずにただ見つめるしかない。
どうすればいいんだろう。
会わせてあげたいと思っていた。
ふたりを会わせてあげたいと、本当に心から願っていた。
そして……会ってしまった。
こんな救いようのない状況で。
あぁ、あたしはいったい、どうすれば?
「アグア……?」
モネグロスがポツンと囁いた。
「アグア……アグア? やはり、アグアですね?」
ほとんど透けて、もう、ぼんやり朧にしか見えない姿。
なのにはっきり分かるほど、モネグロスの表情は喜びに満ちていた。
「あぁアグア、会いたかった。アグア」
透けた頬を歓喜の涙が、幾筋も幾筋も伝ってポタポタ零れ落ちた。
幽玄のような腕が、愛する者へ向かって懸命に伸びる。
彼の愛そのもののように、まっすぐアグアさんへ向かって。
「どれほど、この時を夢見たことか。わたしのアグア……」
小さく掠れた、でも幸せに満ちた優しい声。
向こう側が透けるほど薄い、でも満面の微笑み。
柔らかな愛の囁きが、愛し求め続けた存在を誘う。
万感の想いを込めた指先が、愛する女性の元へと、ひたむきに。
「……モ、ネ……グロ……」
アグアさんは、その声と声に引き寄せられるようにユラリと近づいた。
あぁ……!
あたしは震える両手で口元を押さえた。
別にクサいんじゃないのよ! いや、確かに臭うは臭うんだけど!
それよりも感動で涙が止まらないの!
これが本当の愛! 何も心配なんて無かったんだわ!
どうだ見たか番人! モネグロスの愛は本物よ!
モネグロスはあんたの姑息で陰険な企みになんて、決して動じないわ!
彼は偉大な砂漠の神なんだから!
モネグロスの透けた指先にアグアさんの手が触れる。
やっとのことで重なる事が叶った、ふたりの手。
ぽうっと、モネグロスの指先に光が灯り、彼の力が僅かに戻ったように見えた。
あたしは涙ぐみながら、その光景を深い感動と共に見つめる。
これでモネグロスの消滅も免れる!
きっとアグアさんもすぐ元通りになるわ!
もうこれで番人の思い通りになんてならな……
― ビシャリ!
アグアさんの手が、モネグロスの手を乱雑に振り払う。
すり抜けた手からヘドロが飛び散り、地面に嫌な音と臭いを立てた。
「私がこの汚らしい手を取ると思ったか。モネグロス」
アグアさんのノドから怨嗟の唸りが響いた。
モネグロスはキョトンと目を丸くして、アグアさんを見上げる。
あたしは頭から爪先まで冷えていく不安な感覚に襲われた。まさか……。
「汚らわしい裏切り者よ。いつまでも私がお前への愛に縋ると思うか」
アグアさんの言葉に対し、モネグロスは小首を傾げた。
言われている意味が分からない、と言いたげに。
不可思議そのものの表情には、さっき流した歓喜の涙が張り付いている。
「お前への愛など、とうに失せた」
モネグロスの不可思議な表情が、凍りついた。
喜びは一瞬で跡形も無く消え去り、代わりに驚愕が顔全体を覆っていく。
自分にとって今、世界で最もあり得ない事が起きている。
そんな表情だった。
あたしの心臓は、もはや早鐘のようだった。
何かが全身からすうっと音を立てて引いていく。
恐ろしく嫌な予感に、手に汗が滲んで足は一歩も動かない。
そんな、そんな。まさか、だめよ。そんな。
アグアさん、あなたまさか!
アグアさんはモネグロスにぬうっと顔を近づけた。
爛れた顔が、透けた顔に重ならんばかりに近づく。
ギロリと睨みつける眼球がモネグロスの澄んだ瞳と重なった。
「さっさと消滅してしまうがいい。お前の無様な死に様を見届けてやる。この、憎き砂漠の神めが」
……!!
モネグロスが……壊れた。
彼の中で、彼にとっての全てが消失した。
たったひとつの拠り所。彼をこの世界に繋ぎ止める唯一の細い糸。
『永遠の魂の片割れ、アグア』
だたそれだけがあれば、彼は彼として存在できるのに。
他にはもう、何もないのに。
彼は……彼は。
もう……。
― ザンッ!!
砂の崩れ去る音と共に、モネグロスは完全に消滅した。
最後の最後に、心から愛する者から向けられた、非道な言葉を胸に抱いて。
後には……彼の名残のように黄金の砂が悲しく残っていた。