(4)
「ガアァァァッ!!」
返答するようにアグアさんが叫び返した。
憎しみと恨み骨髄に達した叫び声に呼応して暗黒の雨の勢いが更に増す。
足元に溜まった黒い水がザワザワと細かく振動しはじめる。
なにごとかと見ると、水がまるで群がる虫のような動きをし始めた。
それが足からわらわらと這い上がってきた! うわあ!? き、気持ち悪い!!
あっという間に全身が水の膜で覆い尽くされてしまった。
息が、できない! 目の前が真っ黒で何も見えない!
慌てて顔の周りの水を手で振り払った。でもすぐにまた水で覆われてしまう。
厚さでいえばほんの数ミリでしかない水の量の膜。こんな薄い膜で窒息死するなんてシャレにならない!
でも苦しい! 苦しい!
ジタバタと懸命にもがいた。手は空を掻くのに、あたしの周りに酸素が存在しない。
何も見えない反面、聴覚は敏感になった。
あたしの全身を覆う水の音。この暗黒の雨もやはり間違いなく水なんだわ。
水。水。みず。
水の精霊。
あの日、砂漠で出会った。この世界で初めて巡り合った存在。
あぁ、あなたも同じね。世界の行く末をそのままには受け入れなかった。
拒絶する証として、自分の命と引き換えにあたしに力を託して逝った。
『仲間を、世界を救って欲しい』
それがあなたの選んだ意思。
ここであたしが諦めたら、あの世であなたに合わす顔もないわ!!
全身に力が少しずつ戻ってくる。
体中の細胞が、水が、活性化していくのが感じられる。
そう、アグアさんには遠く及ばないまでも、あたしにだって水の力はある!
真っ暗だった目の前に少しだけ光が差し、徐々に視界がハッキリしてくる。
体を覆っていた暗黒の水。それがどんどん色が抜けて、やがて完全に無色透明な水に変化した。
水に覆われていても、不思議と呼吸ができた。あ、ちゃんと声も出る。
耳元に聞こえるのは清々しいせせらぎの音。
相変わらず降りしきる暗黒の雨だけど、あたしの体だけは黒く染まらない。守られているんだ。
ありがとう、水の精霊。
クリアになった視界の向こうでアグアさんが立ち尽くしている。
真っ黒な塊りで表情は分からないけど、おそらく唖然としているんだろう。
低い唸り声をあげ肩をいからせたかと思うと、金切り声をあげてあたしに飛び掛ってきた。
あたしは避けずに正面から受け止めた。アグアさんの両肩を両手でがっしり掴む。
すさまじい怪力で暴れまくる彼女を、なんとか全身で押さえ込もうとした。
ヘドロ、悪臭、ぬらぬらする肢体。世界を汚染する元凶。
ガップリ絡み合いながら、これで水の保護膜が無かったらどうなっているだろうとゾッとした。
「アグアさん聞こえる!? 聞いて!!」
「ギャアアアッ!!」
格闘しながら懸命に声を張り上げる。誤解を、誤解を解かないと!
「あたしが愛しているのはジンなのよ!!」
「グアアアアーーー!!」
あたしの懸命の説得に獣のような叫びが返ってきた。
ねぇ、聞いてるの!? ちゃんと聞こえてる!? 大事な話なんだから聞いて!
「あたしはジンが好きなのよ!!」
「ギャアアアーーッ!!」
「ジンなのよ!! ジンなの!!」
「ガアアアアーーッ!!」
ああもう、何を言ってもガアアしか返ってこないし!
猛獣相手に調教してる気になってきた!
だから! あたしが愛しているのはモネグロスじゃなくてジン……
あぁそうか! ジンって言われてもアグアさんには何の事だか分かんないんだわ!
でも説明しても、そもそも相手に通じるの!? これ!
化け物じみた怪力で襲い掛かってくる、ほとんど化け物と化した相手。
極限状態だけどオバケは苦手なんていってる場合じゃない! ここで怯んだら本当に憑り殺される!
あたしも死に物狂いで応戦し、叫び続けた。
「アグアさん! モネグロスは!」
―― ズボオッ!
ぐううぅっ!!?
大きく開いたあたしの口の中にアグアさんの手が突っ込まれた。ノドが焼けるような感覚が肺に伝わり、全身に瞬く間に広がる。
侵入した穢れが体内を冒している!
白目を剥いて手を引き抜こうとしたけれど、また全身から力が抜けていく。
恐ろしい怪力に太刀打ちできない。さらに深く深く入り込んでくる手と穢れが体中を駆け巡る悪寒。これはまさしく悪意。
あたしは汚染、される。穢れて、捕り込まれて、死ぬ。
死ぬ。死ぬ、死……。
ノド深く侵入する穢れた手。込み上げてくる嘔吐物。でもその行き場が無い。
まさに悶絶の苦痛。引き剥がそうとするあたしの手が痙攣するように震えた。
涙が流れた。家族の顔が浮かんだ。
友達全員の顔も一人ずつ浮かんで消える。
思い出が走馬灯のように脳裏を流れる。
ジン、モネグロス、ノーム、イフリート、ヴァニス、マティルダちゃん、みんな。
死ぬ。もう終わる。
全てが終わる。あたしが死んで、死んで……
死……
……死に
死に、た
『死にたく、ない―――――!!』
心の中の絶叫。全身全霊が渇望する「生」の執着。
突如、全細胞の水が熱く沸騰したように感じた。
あたしの全身を包む水の保護膜がアグアさんの体に勢い良く噴き付けられた。
その水が熱湯のように湯気をたててヘドロを溶かす。悲鳴を上げてアグアさんは引っくり返った。
あたしは胸に手を当て猛烈に咳き込む。
水の力は本来、命を守り育てる力だ。だからあたしの生きたいという意志に無条件に応えてくれた。
そうよ、水は生きる為の力。
「アグアさん! 思い出して!」
あなたも命を守り続けてきたはず! あなたの力はこんな事の為の力じゃないのよ!
「あなたの本当の役目は!」
アグアさんと目が合った。
ヘドロが溶かされ、わずかに生の顔が覗いていた。
その顔を見て、あたしは背中に寒気が走った。