(3)
全身の血液が凍るような思いであたしは凝視する。
今、たった今まで、マティルダちゃんがいた場所を。
彼女と同じように、大きく両目と口を開きながら。
いた。いたのよ。
確かにそこにいたの。
最期に、落下する瞬間の彼女と目が合ったのよ。
泣き叫びながら、救いを求めていたのよ。
あたしの名を呼びながら。
そう。あたしの名を呼び続けていた。
たすけて雫さまと、何度も何度も。
何度も何度も何度も。
何度も何度も何度も何度も何度も。
何度も!!!
あたしに救いを求めて!!!
このあたしに、『助けて欲しい』と泣き叫んでいたのよ!!
それが、それが目の前で!!!
「うわああぁぁぁーーー!!!」
マティルダちゃん! マティルダちゃん!
あたしはあなたを助けてあげられなかった!!
まだ幼い笑顔。好奇心に満ちた表情。
そして寂しそうな仕草。家族の肖像画を見上げる物悲しい目。
廊下の向こうから駆けてくる、色鮮やかなドレス姿。
『雫さま! あのね、あのね、マティルダねぇ、雫さま大好きよ!』
見殺しにしてしまった! あたしを慕ってくれた幼い純真な命を!
あたしが助けなければならなかったのに!
「ごめんなさい! ごめんなさいぃ!!!」
泣きながら絶叫する。
暗黒の雨に顔面と全身をしとどに染めて、天を見上げて咆哮した。
こんな、こんな事って! あんまりだわ!
残酷すぎる!! どうしてこんなことに!!? なぜなのよ!!?
不意に甲高い笑い声が響いた。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で、あたしは震えながら振り返る。
アグアさんが……。
黒い雨に打たれながら、嘆き悲しむあたしの姿を指さしながら、本当に、この上なく幸せそうに……。
あざ笑っていた。
「アグアさん。マティルダちゃん、死んだわ」
「ククク」
「あなたの雨で手が滑って、落ちていったの」
「ウフ、ウクク」
「なにが……」
「クフフフ。ウフフ」
「なにがそんなにおかしいのよ!!!」
怒鳴り声を上げるあたしの姿を見て、アグアさんはさらに嬉しそうに笑った。
本当に嬉しいんだ。楽しいんだ。
あたしが苦しむ姿を見るのが、嬉しくてたまらないんだ。その喜びを得るためなら……。
マティルダちゃんの死なんて、どうでもいい事なんだ。
アグアさん。
あなたのその気持ち、あたしには分かる。
憎い相手を不幸に貶めるためならば、どんな事でもやるつもりだった。
何を犠牲にしてもかまわないと思った。それがあたしの目標で、誰にも邪魔をさせない強い決意と信念だった。
分かるわ。でも、それでもあたしは。
「今すぐ笑うのをやめなさい!」
あたしは、こんな事を許容するわけにはいかない!
この事態を黙って見過ごすわけにはいかない! 絶対に!!
「目を覚ましなさい! そして自分のしている事をよく見るのよ!」
自分のした事は自分の意思。自分自身に言い訳は通用しない。
そうだ。今ここで、この全ての状況を「しかたがない」と諦めたら、それはあたしが自分で選んだ意思になる。受け入れて納得したことになるんだ。
受け入れないわ。絶対に。
こんなの誰が受け入れるもんですか!
目を逸らしたりしない! 後になって「どうしてあの時」なんて後悔、もう絶対にしない!
始祖の神の導きで、あたしはこの世界に呼ばれた?
いいえ、冗談じゃないわ。
「この旅はもう、あたし自身が選んだ旅なのよ!」
真実も正義も罪悪も簡単には断じれない。
だから世界には、現実に「しかたない事」「無理もない事」がたくさんある。
苦悩しながら、それを飲まねばならない時がある。それをあたしはこの旅で知った。
でも同時に「しかたない」が言い訳にならない場合がある事も知った。
あたしには、マティルダちゃんの命を「しかたない」のひと言で片付けられない。
これは、こんな事態はあってはならない事なんだ。
だから、アグアさんをとめる。
たとえそれが不可能であったとしても。
それでもあたしは、こんな事態は絶対に受け入れない。
足掻いてやる。足掻いて、足掻いて、無駄な足掻きをしまくってやる。
可能も不可能も関係ない。それこそがあたしの拒絶の証明。
『こんな事、どんな理由があろうと絶対に認めない』
これがあたしの選んだ意思だ!
あたしは自分の両膝をがっしり掴んで、気合を入れて立ち上がる。
「アグアさん」
ゆっくりと立ち上がったあたしの姿を見て、アグアさんの笑い声がやんだ。
ねぇアグアさん。あたし達はよく似ている。
傷付いて、苦しんで、恨んで恨んで、道を踏み外した。
分かるわ。すごく分かる。
だから……。
「いっちょ腹を割ってとことん話し合いましょうか!」
あたしは威勢良く怒鳴り声をあげた。