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(2)

「たすけて……」

 弱々しい声を頼りにあちこちを手当たり次第に探す。

 どこ!? どこから聞こえてくる!?

「たすけて。おねがい……」


 いた! 見つけた!

 そしてあたしは血の気が引いた。

 マティルダちゃんが、今にも塔から落下しそうに宙ぶらりんにぶら下がっていた。

 ガレキの端ギリギリ、少女の白い手が懸命にしがみ付いている。

 ドレスの裾が風にあおられ揺らめいていた。


「マティルダちゃん、今行くわ! 絶対に手を放しちゃだめよ!」


 夢中で駆け寄ろうとしたあたしの頬にポツンと何かが当たった。

 思わず手で拭ってみると、指先が黒く染まっている。

 ポツンポツンと続けざまに頬に当たり、足元が点々と黒く染まっていく。


 ポツ、ポツ、ポツ。サアァァーー


 空を見上げた。

 いつの間にか空を覆っていた、ひどく暗い色の雲から雨が降っている。

 瞬く間に雨足が強くなり、崩れかけた塔を黒い雨が激しく打ち付ける。


 この雨、おかしい。変だわ。

 黒い色をしているだけでも充分変だけど、やたらとドロリとしている。

 濃いというかヌメヌメとして。


 なんか、気持ち悪い。気分が悪いわ。寒気がする。

 ムカムカと吐き気がして、なぜか体から力が抜けていく。

 足元は一面黒く染まり、あたし自身も頭から黒く染まっていく。

 ドロリと、ぬるりと。


 重々しい雷鳴が轟いた。夜のように暗くなった空間に青白い稲光が走る。

 それを合図のように、雨は一気に勢いを増し豪雨となった。

 天から叩きつけられる激しい雨音が四方に充満する。


 あぁ、気持ち悪い。力が、入らない。


 足と腰からガクンと力が抜けて、あたしはその場にうずくまった。

 頭に、背中に、痛いほどの雨が降り注ぐ。

 真っ黒な雨が猛烈に床を叩き、周囲の全てを染め上げ煙らせる。


 ククク……。


 忍び笑いが聞こえた。

 愉悦に満ちた、恍惚の笑い声が。

 アグアさんが両手を広げ、黒い雨に身をさらし、ますます色濃く暗黒に染まっていく天を見上げて笑っている。


 彼女が降らせてるんだ。この雨を。


 狂った歓喜の叫びをアグアさんが発した。

 すさまじいスコール。雷鳴。続く閃光。

 空間が黒一色になってしまった。


 悪寒が走り全身が脱力する。雨に力を奪われているんだわ。

 この感覚は城内を汚染していた、あの空気と同じ。あの穢れた空気を濃縮したものが、この雨なんだ。


「たすけて。手が、手が!」


 マティルダちゃん!?

 いけない! こうしていられないわ、早くあの子を助けなきゃ!


「手が、雨で手が滑るの!」


 あたしは立ち上がろうとして、また膝から崩れてしまった。

 だめ! どうしても立てない!

 今度は四つん這いになって進もうとした。でも関節から力が抜けていく。

 ぬかるんだ黒い床に、潰れたカエルのようにビシャリと突っ伏した。


「雫さまっ! 早く来て、雫さまぁ!」


 歯を食いしばって顔を上げた。立てないなら、四つん這いもだめなら、このまま進む!

 あたしはヌメヌメした床を、ほふく前進しながらズルズル進んだ。

 待っててマティルダちゃん! 頑張って!!


「助けて! 早く!早く!」

「マティルダ、ちゃん! 今行くわ!」

「早くぅ! もう手が!」

「絶対に放しちゃだめえぇ!」


 必死に両手両足を使って、もがきながら進んだ。

 ヌメる雨が進行を阻む。体に全然力が入らない。

 早く! 急いで! 早くしなきゃマティルダちゃんが!


「怖い! 怖い! お願いだから助けて!」

「助けるわ! 頑張って!」

「いやあ! もうダメ!! 手が滑るぅ!!」

「諦めちゃだめよーー!」


 半狂乱で救いを求める声。

 無様な姿で、死に物狂いで床に爪を立てるあたし。

 でも踏ん張った足からは力が抜け、しがみ付いた手は雨で滑る。

 あたしは意味不明の叫び声を上げながら、もがき進む。


「たすけてたすけてたすけてええ!!」

「もうすぐよ! もうすぐ行くわ!」

「早く雫さま! 雫さま! 雫さ……」


 あたしの名を呼ぶ声が、不意に途絶えた。

 わずかに縋っていた白く細い指が、力尽きガレキから放れた。

 刹那の瞬間、白い閃光を放ちながら、光景があたしの脳内と網膜に強烈に焼きつく。


 叫び声ひとつたてずに、ぶら下がっていたままの体制で、彼女は落ちていく。


 両目と口は、極限まで大きく開いていた。

 自身の終焉を悟りながら、それが信じられない。

 そんな表情だった。


 黒く染まった視界の中で、彼女のドレスが少しだけ色彩を放つ。


 一瞬、一瞬。


 本当に一瞬で。


 マティルダちゃんは黒い世界に吸い込まれるように落ちていった。


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