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 ―― ズルリ


 わらう番人の背後から何かの塊りが近づいてきた。


 ―― ズルリ、ズルリ


 途端にすさまじい臭いが漂ってきて、あたしは両手で鼻と口を覆った。

 強烈な悪臭にノームが激しく咳き込む。


 衝撃のあまりすっかり失念してた。

 室内に充満している悪臭は、近寄ってくるこの塊りが悪臭の元なんだわ!

 うぅ、たまらない! は、吐く!

 窓! 誰か窓開けて空気の入れ替えして!

 あ、ここって窓がないんだったわ!


 塊りはどんどんこちらに近づいてくる。

 あたしは思わず数歩、後ろに下がって逃げた。

 薄暗い室内で、近寄ってくるにつれ少しずつ塊りの姿がはっきりしてくる。


 ドロドロした黒と灰色。

 ぬらりとした質感の緑色や赤色が混じった、泥。

 移動するたび、べしゃりべしゃりと汚れた液体が床に落ちる。

 ズルズルのヘドロにまみれた、縦長の物体。


 き、汚い。臭い。気持ち悪い! なにこの汚れた塊りは!?

 汚染されきった川の底から、ヘドロを掬い上げて塊りにしたみたい!

 く、臭いぃ! 嫌あ! こっち来ないでよ!


「さあ、ここへ来るがよい」

 番人がヘドロの塊りに向かって手を差し伸べた。

 あたしは驚いて目を剥く。

 ちょっと!? そんなもんに手招きしないでよ!

 余計なことしないで! シッポ振って駆け寄ってきたりしたらどうすんのよ!?


「それってあんたのペットなの!? そうじゃないなら、いや、そうであっても呼ばないで!」

「お前達の方がこれとは親しかろう」

 番人はそう言って、さらに手を差し伸べた。


「さあ、来るが良い。アグアよ」


 ……!?


 いま、いま何て言った!?

 この塊りを何て呼んだ!?


「これが異世界の人間、雫だ。アグアよ」


 あたしの心の中の問いに答えるように、番人は再びその名を口にした。


 アグア。アグア?


 あたしの目は塊りに吸い寄せられる。

 激烈な悪臭を漂わせ、汚れきったヘドロに覆われた物体を凝視する。

 ただの汚い塊りにしか見えない。なんとなく、縦長の形が人体っぽい形を成しているように感じるけど。

 とてもじゃないけど、これがまともな生き物とは思えない。


 とてもじゃないけど、まさかこれが。

 これが。


「これが、アグアさん、なの?」

「いかにも。これぞまさしく砂漠の神に愛された水の精霊、アグアである」


 なにをどう言えばいいのか、分からない。

 どういう風に認識すればいいのか分からない。水の精霊、アグア。これが? 『これ』が?


「うそですっ!」

 あたしの胸元から叫び声が聞こえた。ノームが必死の形相で番人に向かって反論する。


「これはアグアじゃありません! アグアの気配が、あの気高く、すみ切った清涼な気配が、まるで無い!」


 ノームがブンブン首を振り何度もそう叫ぶ。


「土の精霊がどう思おうが、事実は変わらぬ。これは水の精霊アグアである」

「うそです! そんなのうそです!」

「事実だ。土の精霊よ、本当はお前も分かっているのであろう?」

「う、うそです! そんな!」

「これが間違いなくアグアである事を、お前も気付いたのであろう?」

「うそ! そ、んな」


 それを肯定するように、ノームの叫び声が小さくなり、やがて掻き消えた。

 あたしの目は張り付いたように塊りから離れない。これがアグア。アグアさん?


 全ての精霊の中で最も美しいと讃えられた、輝く存在。

 砂漠を潤し、命を支え育てる偉大な精霊。

 オアシスや神の船に心から慕われ、崇められ、モネグロスから永遠の愛を誓われたアグア。


 この世で初めて、神からの愛と名を捧げられた唯一の精霊。

 美しいアグア。

 気高きアグア。

 穢れ無き清廉なる水の精霊アグアが。


「穢れたのだ。心の底まで」


 番人の静かな声。


「もはやアグアに、かつての輝きは片鱗も残ってはおらぬ」

「どうして!?」

「なぜこんな姿になったのですか!?」

 あたしとノームが、ノドから搾り出すような声を出した。


 その声に反応するかのように塊りが、アグアさんがピクリと動いた。

 そして顔が、おそらく顔に該当する部分が、ゆっくりと上を向く。

 汚いヘドロに完全に覆われた顔が。


「なぜ、と問うか? その答えは単純だ」


 番人の指が、スッと上がった。その指先があたしに向けられる。


「異世界の人間よ。お前の存在によってアグアは穢れたのだ」


 ……!!?

 あたし!!? あたしが原因!!?


 汚れきった顔の中で、ギロリと何かが蠢いた。

 濁った水色の目玉があたしを刺す様に鋭く睨みつけている。

 その凄まじさにあたしは怯えた。


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