(15)
「イフリート」
その時、イフリートの肩に座っているノームが、小さな声で彼の耳元に囁いていた。
「なにか? ノームよ」
「わたし、しずくさんといっしょに行きます」
あたしは思わず目を見張った。
ノーム? 何言ってるの? どういう事?
「このまましずくさんと別れたくないんです。そんなことしたら、わたしぜったい後悔しますから」
「……そうか」
「だから決めました。わたし、行きます」
「承知」
モネグロスを抱きかかえたイフリートが近づいてきて、あたしの真正面に立つ。
ノームがあたしに向かって両手を伸ばした。
「しずくさん」
「あ……」
あたしはオロオロと、ノームとイフリートの顔を見比べる。
ノームに再び促され、言われるまま手を伸ばしてノームを受け取った。
手の平の上で、じっとイフリートを見つめるノーム。
ふたりはしっかりと見つめ合っていた。
「ノームよ、我は知っている。自分自身に言い訳は通用せぬ事を」
「はい」
「我は心情を理解する。だから進むべし。己の望む道を。お前は真に誇り高き土の精霊なり」
イフリートの微笑みは温かかった。
火の精霊に相応しい温もりがノームを包み込んでいる。
そしてそれがあたしにも向けられた。
「雫よ、ノームを頼む」
「イフリート、でも」
ふたり共、本当にそれでいいの?
せっかく再会できたのに、また別れ別れになってしまっていいの?
このまま人間の世界に留まったらノームだってどうなるか分からない。
「我はあの時、精霊の長に反する道を選んだ。そして今、我は砂漠に戻る道を選ぶ。ならばここでの別れは受け入れるべき」
「イフリート……」
「よって雫、我はノームの心も、お前達の心も良く理解する」
あたしはイフリートを見上げた。
精悍な、でもすごく優しげで温かな姿を。
勇気付けようとしてくれている、力強い微笑を。
「良く、とても良く心情を理解する。我が友である雫よ」
結ばれたあたしの唇が震えた。
うっと詰まった声が漏れて、涙がぶわりと両目に盛り上がる。
我が友。そう言ってくれるの? イフリート。
その言葉の嬉しさに耐え切れず、啜り泣きの声が溢れ出た。
「雫」
イフリートに抱えられているモネグロスが、かすれた声を出した。
「雫、雫」
何かをしゃべろうとするけれど口がうまく回らない。
やっと開かれた目が、あたしに向かって懸命に訴えている。
それは心配とか、気遣いとか。
言葉にならない、たくさんの思いのこもった視線を見返し、頼りなく動くモネグロスの指先をあたしは強く握った。
モネグロスありがとう。ありがとう。
あたし、あなたと出会えて本当に良かった。
感謝してるよ。でもなんの力にもなれなくてごめんなさい。
無事に砂漠へ帰れますように。
せめてあなたの静かな眠りと、その後の無事な再生を願っているよ。
「お別れね。モネグロス」
モネグロスは小刻みに首を横に振った。
行くな、と言っている。一緒に砂漠へ戻ろうと言ってくれている。
「ありがとう。でもダメなのよ」
あたしの言葉に、モネグロスは諦めたように目を閉じた。
両目から透明な涙がハラハラと零れ落ちる。
相変わらず泣き虫ね。そしてどこまでも純粋で優しい。
人間にこんな目に遭わされながら、その人間の元へ行こうとしているあたしの為に涙を流す。
あなたはまさしく本物の神よ。
あたしはモネグロスの頬に落ちる涙を指で拭った。
ツルリと指を伝って滑り、手の中にコロンと落ちる。
そしてそのまま、クリスタルのように涙型の粒に固まった。
モネグロスの心のままに、澄み切った純粋な涙の雫。
なんて美しいモネグロス。
あたしは手の中にしっかりとそれを握り締める。
イフリートがモネグロスを改めて抱きかかえ、ジンの方へと向かって歩き出した。
ずっとこちらに背を向けたままのジンの元へ。
ジン。
あたしに見えるのはもう、その背中と銀色の髪だけ。
あなたは二度とこちらを見ない。振り返らない。
それでも、分かる。感じる。あなたはあたしの事を見つめている。
風が、あたしを包んでいるから。
風が髪を撫で頬を撫でる。指先に触れる。覚えのある感触。
星空の下、焚き火の側であたし達は、もどかしげに指を絡め見詰め合ったわ。
あの限りなく愛しい情景。身を包む切ない風を思い出す。
次々と流れる涙に濡れる頬を、乾かすように風が吹く。
シフリートがジンの横に並び、揃って前に歩き出した。
どんどん離れていく。
あたしから遠ざかっていく背中。
やはりあなたは振り返らない。でも、風が。
あたしを抱く風が、むせび泣いている。
ノームがあたしの服の胸元に飛び込んだ。
小さく丸まってしゃくり上げる泣き声が聞こえる。
「イフリート、イフリートぉ」
聞こえぬように声を殺して、恋しい名を呼ぶ泣き声が。
肩を震わせて泣きながら、あたしは自分の体を抱きしめる。
風を、ジンを抱きしめる思いで。
懸命に瞬きを繰り返し、涙で曇る視界を凝らした。
見たい。見ていたい。最後まで。
たとえ背中だけでもいい。
あたしから遠ざかっていく銀の精霊の姿を、最後まで見続けたい。
ジン、ジン、ジン。
迷わず小さくなっていく背中が、あたしの心を乱す。
追い縋りたい。好きよ。愛してる。
とめどない涙の熱さで目が焼けるようだ。
苦しくて苦しくてノドが締め付けられるように痛む。
でも、できない。追いかける事はできない。それでも。
「それでも、あたしはあなたを愛してる」
蚊の泣くような声を振り絞った。
瞬間、迷いの無かったジンの歩みがピタリと止まる。