(12)
戻れ、る? 何も無かった時間に?
あたしを裏切った彼への愛も、あの娘への憎しみも、何も無かった時間に。
戻れるんだわ。あの幸せな時間に。
あたしはジンに向かって、ゆっくりと右手を出した。
そしてその手はピクリと動きを止める。
そして。
世界の人間は死に絶える。
ヴァニスもマティルダちゃんも侍女のみんなも、国民も全て。
全部全部死んでいく。
あたしひとりがその事実を知りながら、誰にも告げることなく生き延びる。
あたしは右手をギュッと握り締め、引っ込めた。
「最後の……」
「なんだ?」
「最後のチャンスを、ちょうだい」
せめて、せめて告げさせて。人間にこの事実を。
告げさせてくれるだけでいいの。
理解させようとまではしない。理解してくれなかったら、それ以上は何もしないから。
でもせめて選択肢だけは与えて。
そして滅びるか生き延びるかを自分で選ばせて。
お願いよジン。告げたらすぐにここへ戻ってくるから。
気高い国王ヴァニス。可愛いマティルダちゃん。気の良い侍女達。明るい国民。
ひとりひとりの笑顔が浮かんで泣きそうになる。
この国で触れ合った、ここに生きている人間達は確かに今ここで生きているのに、いずれ間も無く失ってしまう。
大好きなあの人達に、せめて最後に。
「最後に、みんなに感謝と別れの言葉を」
「だめだ」
ジンはあたしの言葉を遮って、あたしの願いを拒否した。
「のこのこ敵の手の内に舞い戻ってどうする。狂王が素直にお前を送り出すと思うか?」
それは、確かに難しいかもしれない。
ヴァニスのあたしへの感情を考えればなおさらだわ。
「ここは敵の陣中なんだ。おそらく精霊の長にもとっくに気付かれている。急いでここを離れるぞ」
急いたジンに促され、あたしはようやく歩き出した。
ジンがあたしの手を掴んで前を向いて歩き出す。
イフリートがモネグロスを抱きかかえて後に続いた。
土と草を踏む鈍い音だけが耳に聞こえる。
足取りが重い。
まるで足首と心に重い鉛の足枷をはめられているようだ。
庭の景色が涙で潤んでいく。
お別れさえできないなんて。
仲良くなれたのに。あんなに世話にもなったのに。
それなのにあたしは今、見捨てて逃げる。
自分だけが生き延びるために。
そしてあたしが無事な場所まで逃げ果せた後で、全員死ぬんだわ。
一人残らず。あたしの遥か手の届かない場所で。
涙が盛り上がり、鼻の奥がジリジリと焼けるように痛んだ。
罪悪感が一歩進むごとに大きく膨れあがる。
それが、あたしの歩みを遅らせた。
いいの? これで。
本当にこれでいいの? 後悔しない? あたしはまた後になってから
「どうしてあの時あたしは」そうやって悩み苦しむ事にならない?
本当に、本当に今回ばかりは取り返しがつかないのよ?
みんな死んでしまったら、終わってしまったら、後戻りなんてできないのよ?
あたしの足が止まり、手を引いていたジンが気付いて訝しそうに振り返る。
「どうした雫。急げ」
「あたし、城に戻る」
「はああ!? 何言ってるんだよお前!」
「分かってる!」
今度はあたしがジンの言葉を遮った。
分かってるわよ! でも、でも!
「このまま何もしないで自分だけ逃げたら、あたし一生後悔する!」
完全に鼻声になりながら訴えた。
死ぬまで後悔し続ける。
ここで逃げても、罪悪感からは逃げられない。
何もせずに皆を見捨てて、自分だけが安全な場所へ逃げた罪悪感から。
一生背負い続けるんだ。途方も無い数の命を見殺しにした現実と共に。
そんな人生、地獄だわ。
人間が滅亡した世界で、とてもまともな神経では生きていけない。
「そんなのあいつらの自業自得だろう!? 人間は犯した罪をあがなうんだ!」
「でもあたしは自分で自分を許せない!」
「これはしかたのない事だろう!?」
「しかたないからって言い訳は通用しないのよ!」
みんなが言う。しかたないって。
そうよ。実際にしかたないって思うわよ。しかたないんだもの。
でもそれは人間が自分で滅亡の道を選んだなら、の話よ!
もう一方の道の存在を知りつつも、滅亡の道をあえて進むのなら!
でも違うでしょ!? そうじゃないでしょ!?
あたし達はそれを知りながら、見て見ぬ振りをしようとしてるのよ!
それをしかたないでは済まされない!
やるだけやって、それでダメならまだ納得もできる。
本当に「あの時はしかたなかった」と自分に言い聞かせもできる。
だからあたしは城に戻るわ。
そして自分にできる事をやってみる。そう決めたの。
これはあたし自身の為でもあるんだから。
ジンは無言であたしの言い分を聞いていた。
聞き終えて、あたしの手を強く握って引っ張る。
そして何も言わずにどんどん前へ進み始めた。
「ちょ、ジン! 待ってよちょっと!」
「ダメだ」
こっちの歩幅おかまいなしの勢いに、いまにも転びそうになる。
「待ってったら! 痛いよ離して!」
「ダメだ。許さない」
「ジン! あたし必ず帰ってくるから!」
「そう約束して、お前は今までずっと城に囚われていたんだぞ!」
「……!」
「お前だけじゃない! ノームもアグアも! この城はオレ達の大切なものを飲み込んでしまう!」
ジンの叫びは悲痛だった。真実なだけに何も言い返せない。
あたしは下を向いて言葉に詰まってしまう。
沈黙してしまったあたしを見て、ジンは低い声で厳かに宣言した。
「お前を城へは絶対に戻さない! いいな!? そんな事はオレが許さないからな!」
ぴくんと、あたしの眉がわずかに反応した。
『オレが』許さない?
……なんで?
なんであたしの意思決定を、ジンに『許していただく』必要があるの?
あたしは下を向いていた顔を上げた。そしてその怒った顔を正面から見据える。
父親に外泊許可を願い出る高校生じゃないのよ?
人類の滅亡と、あたしの人生がかかった話なのよ?
その決断なのよ? なのにオレが許さないって、なによ?