(9)
あぁそうか。そういう事なら。
「はじめまして。相原 雫です」
「……なぜそういう発想になるのだ?」
「え? だって近視なんでしょう?」
「お前という女は、まったく」
ヴァニスは何ともいえない複雑な表情になって、肩を震わせながらクツクツと声を忍ばせて笑った。
何だかものすごく楽しそうな、今まで見た事も無いような笑顔だった。
国王としての威厳と自信に満ちた顔でもなく、マティルダちゃんに向ける頼れる兄としての顔でもない。
ただの普通の青年のような、そんな顔をして笑っている。
「お前を、雫の事をもっと良く知りたいと思う」
「あたしを、知りたい?」
「お前は初めて会った時から特別、かつ強烈であった」
強烈……。果たして褒め言葉の意味なんだろうか。それは。
まぁでも、確かに強烈としか表現のしようが無いのかも。
初めての出会いは剣を挟んでの一騎打ち(と、あたしは思ってる)
その時から一貫してタメ口全開、無礼千万。
王家の象徴である高貴な馬には悲鳴を上げて逃げ回り、料理ひとつに目を丸くして興奮しながら食らい尽くす。
あげく血だらけになって運ばれるし。見ていて飽きないのは確かだろう。
楽しいかどうかは別として。
そう言うとヴァニスは声を上げて愉快そうに笑った。
白い歯が印象的に見えた。
「いちいちもっともだな。お前の言う通りなのだが、その全ての理由でもあり、そのどれも理由では無い」
「え?」
「説明が出来ないのだ。自分でも。なぜこんなにもお前の事が気になるのか」
静まっていたあたしの鼓動が、再びトクンと鳴り始める。
「なぜなのか答えられない。なのにどうしても気になってしまう。お前が、お前だけが特別なのだ。余にとって」
その言葉を聞いた瞬間、あたしの胸に強い衝撃が走った。
思わず見開く両目が、ヴァニスを通して別の存在を見ていた。
『雫、オレにとってお前だけが特別な人間なんだ。失いたくない』
鮮明に記憶が甦る。
あぁ、ジン。あたしの想う銀の精霊。
あたしを救う為にヴァニスに戦いを挑み、打ちのめされてしまった。
あたしを幸せにしてくれたあなたと同じ言葉を、そのヴァニスの口から聞くことになるなんて。
なんて皮肉なんだろう。
「こんな気持ちは初めてだ。これが惹かれるという気持ちなのか、分からない。初めての事で判断がつかない」
どこか思い詰めたような真剣な表情が、さらに近づいた。
「だから、知りたい。お前を。自分の心を」
黒い瞳の芯に、あたしの顔が映るほどにふたりの距離は近い。
あたしの心臓は苦しいほど激しく鳴り続ける。
この展開に戸惑っている? 困惑している? 恥ずかしがっている? それとも嫌悪している?
嫌悪? 何に対して? ヴァニスに? それとも。
ジンという想い人がいながら、胸を激しく鳴らせて頬を染める自分自身に?
「知るために、余に捧げよ。お前の唇を」
あたしの心臓が跳ね上がった。
「ヴァ、ヴァニスだめ。待って」
さらに接近しようとしてくるヴァニスの両肩を、とっさに掴んで押さえる。
「待たぬ」
「待って。だめよ」
話す吐息の熱がお互いの唇をくすぐる。
ヴァニスの広く硬い感触の肩を押し止めても、無駄な抵抗だとは分かっていた。
逃げられない。どうにもできない。
ヴァニスの熱を感じながらただ心臓を跳ね上がらせて、拒否の言葉を繰り返すだけ。
「余はずっと不安だった。このまま二度とお前が目覚めなかったらと。だから余はもう待たぬ」
「ヴァニス、だ……」
黒く熱い瞳が閉ざされ、ヴァニスとあたしの距離がゼロになる。
彼の唇があたしの拒否を封じ込めた。
重なり合う唇。
強く押し付けられて、あたしの手がびくんと震える。
ヴァニスの香りに包まれ、ふたつの柔らかい体温が混じり合った。
広い胸に覆われ、体重を感じて、あたしは呼吸すらままなら無い。
顔を振って拒絶しようとしたけれど、ヴァニスはそれを許さない。
より強く重ねてくる唇。しっとりとなめらかな皮膚の感触。
彼は確かめている。そして求めている。
そっと唇が離れ、あたしは深く息を吸った。
大きく胸が上下する。激しい呼吸が苦しい。
泣きそうな顔でヴァニスを見上げた。
ヴァニスは熱に浮かされたような目であたしを見下ろしている。
「説明がつくような答えが欲しかった。だがもはや説明など不要だ」
「ヴァニス……」
「お前は余のものだ」
そう言って再びあたしにキスをする。
あたしの唇を味わう様に啄ばむ、彼の唇。
両腕を掴まれ、体を押さえつけられて身動きできない。
篭もった声を口の端から漏らしながら、あたしは困惑し、翻弄され続けた。
やっと離してくれたヴァニスはとても幸福そうな表情だった。
切ない溜め息をつき、優しげな目であたしを見つめている。
「お前は余のものだ。雫」
その言葉を繰り返した。
あたしがあなたのもの? いえ、それは。
「だめよ。だめなの」
「何がだめなのだ?」
穏やかで幸せそうなヴァニスの声に、今までとは別の意味で心臓が激しく鳴る。
罪悪感が込み上げて、ヴァニスの顔をまともに見られない。
でも、ちゃんと言わなければ。
「あたし、好きな人がいるの」
ごめんなさい。あたしはジンのことが好きなの。
気付いたばかりの気持ちだけれど、だからこそ大事にしたい気持ち。
あなたがこんな風にあたしを想ってくれるなんて思わなかった。あなたはとても素晴らしい立派な人だけれど。
でもあたしの気持ちは、あなたには無いの。