水の雫(1)
あたしは信じていた人間に裏切られた。
一ヵ月後に結婚するはずだった彼に。
ほんの少し前まで、確かにあたしは幸せの絶頂だったのに。
彼と初めて出会った場所は、あたしが新入社員として配属された職場だった。
右も左も分からない、社会人一日目の朝。
あたしは無機質なスチールデスクの端っこで、緊張しながら椅子に腰かけていた。
その隣で、自分の目の前の電話が鳴り響く音にビビッている男性新入社員。
それが、彼だった。
初めて交わした会話の内容はもう覚えてないけど、やたら堅苦しい「ですます」調だったのだけは記憶してる。
あたし達は同期としてお互い励まし合い、ミスし合い、努力し合い、時には喧嘩し合って成長していった。
そして運命のように自然に惹かれ合い、恋人同士に。
丁寧に愛を育む歳月が順調に過ぎ、とても自然な流れで彼からのプロポーズ。
ついに正式に婚約をして、あたしの未来はバラ色に輝いていた。
披露宴の招待状も発送して、友達や職場の皆に祝福されて、目の回る忙しさにストレス性のニキビまで出来ちゃったけど。
それすらもあたしにとっては幸福な勲章に思えた。でも……。
不穏の影は、あった。
それは、新入社員のあの子の指導係に彼が任命された時。
あっという間に意気投合していく二人の姿を見るにつけ、簡単には否定できない疑心が心の中にぞわぞわと湧き起っていた。
でもあたしは、そんな自分を恥じたの。
彼は自分の職務をこなそうとしているだけだ。
そのための良好な関係作りに努力しているだけなんだ。それを疑うなんて狭量すぎる。
そう自分に言い聞かせて納得していたのに。
『許してくれ雫。もう俺は自分の心に嘘をつけない。彼女を本気で愛してしまったんだ』
こんな言葉で、あたしの幸福は脆くも崩れ去った。
何度も何度も彼とふたりで話し合った。考え直してくれと、恥も外聞も無く泣いて縋り付いた。
招待状も配っているのに、あたし達の会社内での立場はどうなるの?
婚約不履行で訴えるわよ、と脅し文句まで使った。
でも…そこまでしても彼の決意は変わらなかった。
たとえ会社内での立場が悪くなっても
たとえその結果、会社を辞める事になっても
たとえ親兄弟、友人知人達から責め立てられようとも…
『俺の彼女への愛は変わらない』
面と向かってそうキッパリ断言されて、あたしは狂ったように泣き叫んだ。
絶望のどん底に突き落とされ、ショックのあまり寝込んでしまって、会社を何日も休んだ。
とてもじゃないけど、職場で彼の顔なんて見られない。
あの子に至っては飛び掛って殴りつけて、本気で首を絞めてしまいそうだった。
でも同僚達に仕事でもうこれ以上の負担をかけられない。
責任感を奮い立たせ、自分の心に鞭打って必死に出社した日。
あたし達の婚約破棄の一件が、社内中で一番の面白可笑しい話題になってしまっている事を知った。
「知ってる!? 新人の子の方が積極的だったって話だよね!」
「知ってる知ってる! 突然彼の前でさ、思わせぶりに泣き出したんだって!」
「で、『この涙の理由は絶対に秘密なの』ってさぁ~」
「そりゃまー言いにくいでしょうよ、さぞかし」
「そんで『だって好きになっちゃダメな人なのに』って、涙ウルウルの瞳で彼を凝視」
「絶対秘密なわりに簡単にバラしてんじゃん。自分から」
「『ほんとバカだなぁ、あたしって。テヘ』って、泣き笑いしながら手の平で自分の頭をぺちん」
「…同意。ほんとにバカだわ、その演出…」
「そのバカ演出にコロッと引っかかった彼の方が、よっぽどバカだと思うけどね」
「彼は確かにただのバカだけど、相原さんは気の毒よね~」
「ほんとよね~。あんなに幸せそうだったのに」
「これはもう相当なショックよ。当分立ち直れないんじゃない?」
「本当にお気の毒にねぇ」
「可哀想よねぇ」
「ほんと、可哀想に」
……死のう。そう思った。
もういい。もうたくさんだ。
障害のある恋に燃え上がって、盲目になってしまった彼も。
表向きは謝罪しながら、自分が勝者である事を勝ち誇るあの子の手紙も。
そっとして欲しいのに、やれ弁護士だの慰謝料だのと騒ぎ立てる父親も。
「お母さんは最初からあの男は気に入らなかった」と今さら言い出す母親も。
同情する振りをして、人の不幸を楽しげに噂する同僚も。
再三再四、メールや電話で状況を聞きたがる友人達も。
最低だ。誰一人、あたしの事を心から心配してなんかない。
あたしの傷も苦しみも、全然深刻に思ってくれてなんかいないんだ。
人の不幸は美味しいエサでしかないんだ。
だから死んで復讐してやる。
特に許す事のできない、あの二人に。
あたしの死という現実を目の前に突きつけてやる。
自分達のせいで、人がひとり死んだという苦悩を刻み込んでやる。
一生消えない傷を背負わせてやる。絶対に幸せになんかさせない。
自分達は人を死に追い詰めるほど傷つけた、最低のクズなんだと思い知るがいい。
そのために、あたしの命がここで消滅してしまってもかまうものか。
この復讐劇が人生最後にして、あたしの最大の華となるんだ。