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アンリは再び、華のところを訪れた。二日後、アンリが言った「明後日」に。
深夜の屋敷は、まるで人の気配がない。死神のアンリなら、人間の気配を感じることなどは造作もないことなのに、それでも何も感じない。
「ここには人がいないのか?」
廊下に姿を現した美しい死神は、その整った顔に不思議そうな色を見せて首を傾げた。片側に、大きな窓がいくつも並び、うっすらと月明かりを注いでいるそこは、幻想的な空気さえ感じる。
屋敷の中はどこも綺麗に片付けられていて、床の全てが、質のいい絨毯で埋め尽くされている、一切足音のしないそこを、アンリはのんびり歩きながらフラフラといろんな扉を開けてみる。
二階建ての広い屋敷内、和風の部屋が設けられていたり、いかにも高級そうな大きな天蓋付きのベッドが置いてある部屋があったり、美術品の置き場となっているだけの部屋だったりと、様々だ。
しかしアンリは、なぜか腑に落ちない顔で一人ごちる。
「なんでこんなに寝室が多いんだろう?」
今まで見てきた部屋には、寝室が多すぎる位に多い。それぞれが違う雰囲気で作られているが、どう考えても多いのだ。
「しかも本当に人の気配がないし…変なところ」
見飽きてきたのか、アンリはただ一人の気配を頼りに廊下を進んだ。二階の一番端の部屋にその気配を感じる。
重厚なドアは、まるで誰も開けるなと言っているようにしっかりと閉じられている。しかしアンリは特に気にした様子もなく、それを開けようとした。が、開かない。
「何?これ」
内側から鍵がかかっているのか、びくともしない大きなドアを、ふむ、と眺めて、そっと手をかざして何かを呟いた。
カチャ、と、中で何かが外れる音がして、アンリはニコッと微笑んでドアを開けた。
ドアの間からひょこっと顔を覗かせて、中を見る。照明の一切ない中は、カーテンの開けられた窓から差し込む月明かりだけが、調度品や家具の輪郭を縁取っていた。
ふわふわとした絨毯の上を、アンリはのんびりと歩いて気配のするベッドへと歩いていく。
一目で高価な物だと分かるレースが何層にも重ねられた大きな天蓋付のベッドは、誰かが寝ているのが分かるように、ふっくらと盛り上がっていた。
「僕が来るって言ってたのになぁ」
アンリは小さく溜息をついて、その柔らかなベッドに腰を下ろした。微かな軋みをみせて沈んだアンリは、枕元を覗き込んで華の顔を確かめる。長い睫毛が頬に優しい影を落としているが、その頬には、いくつもの涙の跡があった。
泣いてたの?
アンリが驚いてじっと顔を覗き込んでいると、その長い睫毛が持ち上がり、青い瞳がぼんやりと空を見つめた。そのまま、視線がアンリに固定されると、華は思い切り眼を見開いて、弾かれたように上体を起こした。
「あれ、起きた」
「な…何!?」
華は何が起きているのか理解で来ていない様子でアンリを見る。アンリはクスッと笑って答えてやる。
「僕が来ること忘れてた?昨日か今日には来るって行ってたじゃな…」
アンリの言葉が途中で消えた。そのまま、青紫の瞳を見張って華の体を見つめた。
薄い滑らかな、程よく透ける生地に包まれた華の白い体には、数え切れないほどの傷、痣が付いていて、それは古いものから新しいものまで様々だった。中には縄か何かの紐状のような跡も付いている。
決して、服から見えないようにしているのが見て取れるその傷たちに、アンリはしばらく言葉も出なかった。華はそれを見られたことに対して、慌てて布団を手繰り寄せて、大きな目でアンリを睨む。
「なんで来たの?」
「なんでって…来るって言ってたよ?」
アンリはまだ華の体が気になって、気の抜けた返事をする。それを感じてか、華の顔がますます険しくなっていった。
「私の体、見えた?」
「ん…僕はこれでも目が良い方だから、はっきりと」
「誰にも言わないでっ」
感情が昂ぶったのか、華の声に力がこもる。アンリはふと笑って首を横に振った。
「言うわけないでしょ。でも、聞いて良い?」
「な、何を…?」
「その傷の理由」
じっと、アンリにしては珍しく真面目な眼差しで華を見た。華はしばらく黙り込んでいたけれど、大きな溜息を吐いた後、ポツリと言葉を零した。
「私は、道具なの」
俯いて、声が震えるのを必死で我慢している華。アンリは黙って先を促す。
「本当はこんな所で生まれたんじゃないの。もっと遠くの、海のそば。一昨年…ここに連れてこられた。それからは、ずっとこのお屋敷で過ごしてる。一歩も外に出た事がなくて…いつも道具みたいに扱われて」
そこで声が詰まってしまった華は、ぽたぽたと肌触りの良い寝具に涙を落とした。
アンリは、華の言う『道具』と言う意味を理解した。暴力には色々な意味があるが、身体的にも精神的にも、性的にも、華は暴力を受けているのだと。アンリが疑問に思った、華の服装は、こんな傷だらけの体を晒せないし、肌が白いのは監禁されているからだ。
「なんでこんなことになったの?」
「分からない。いきなりお母さんが殺されて、そのまま気づいたら連れてこられた」
「殺された?」
「うん。お母さんの知り合いだった人に」
「その人が、華をここに閉じ込めたの?」
アンリの言葉に、華は黙って頷いた。長い髪がその動作に合わせて、さらりと華の輪郭を隠す。
「…だから、仕返し?」
「だって、こんなの嫌だもん。ここで一生過ごすなんて嫌っ。あいつを殺してでも外に出たい!お母さんと同じように何回も何回も、体に刃物で傷をつけて、じわじわと殺してやるんだからっ!!」
最後は泣き叫ぶように言葉を放った華の体を、アンリはその腕で抱きしめた。長くて大きな漆黒のローブが、華を隠すように広がり、すっぽりとアンリの腕の中にその細い体を収めた。
「せっかく可愛い顔してるんだから、あんまり物騒なこと言っちゃだめでしょ」
幼子を慰めるように、アンリは優しく華の髪の毛を撫でた。華は死神の思いもよらぬ優しさに、眼をギュッと瞑って泣くのを堪えた。ここに来てから、誰かにこんな風に体を触られたことなんてない。
いつも、大人たちの欲望のままに傷つけられ、陵辱されて、気を失うまで華は泣き叫ばなければならない。死なないように最低限の食事と水、それから、見栄えだけは良く見えるようにと、毎日お風呂に入れられ、髪の毛も体も洗われる。高価な衣装は、大人たちが来たらすぐに脱がされてしまう。それでもしょっちゅう、華のために新しい物が用意される。この屋敷は華の監禁のために作られたものだった。
昔、母親と一緒に暮らしていた頃に、外国の魔術の話を聞いた。それを思い出した華が、一昨日、アンリを間違って呼び出したのだった。
二年我慢した。でも最近は、本当に殺されてしまうのではないかと思うほどの仕打ちを受けていて、華の心は限界だった。本当に、何かに縋りたくて仕方なくて、ふと頭をよぎった方法を試した。
「泣いてもいいよぉ。今日の僕は優しいから」
アンリが俯いたまま自分の腕の中にいる華に、のんびりと声をかけた。それに華の体がびくっと震えて、その後、すすり泣く声が聞こえた。
「そうやって素直だと可愛いのに…」
窓から差し込む月明かりを眺めて、アンリはその整った顔にふんわりと笑顔を浮かべて呟いた。