婚約者に『俺との思い出をひとつも覚えていないのか』と嘆かれました。はい、全部売りました――家を守るために
「リゼット。……きみは本当に、何も覚えていないのか」
婚約者のその声が、怒りではなく悲しみでできていることが、いちばんつらかった。
アルノー・フェルゼン侯爵子息。三年前に婚約して以来、私が――たぶん、愛してきた、ひと。
たぶん、というのは。
私が彼との思い出を、ほとんど覚えていないからだ。
「星見の丘の約束は」
「……ごめんなさい」
「初めて渡した手袋の、ボタンの色は」
「……ごめんなさい」
「なら、せめて――僕がきみに、なんと言って求婚したかは」
私は、黙って首を振ることしかできなかった。
かわりに答えた声があった。
「『星が全部落ちても、僕が拾って回ります』――でしょう? アルノー様」
義姉のロゼが、扇の陰で微笑んでいた。
「まあ。わたくし、聞いていただけなのに覚えてしまった」
アルノー様が、ゆっくりと義姉を見た。迷子の子供のような目だった。
「……そう、だ。そのとおりだ。どうして」
「大切な言葉ですもの」
応接間の隅で、継母が満足そうに頷くのが見えた。
◇
弁解を、させてほしい。
三年前、父が死んで、フェルゼン家との婚約だけを残して、うちは傾いた。畑は抵当に、屋敷は借財の紙で包まれた。使用人に暇を出す銭すらなかった。
そういう家の娘に、街の古質屋は、こう囁くのだ。
――お嬢様。思い出は、質草になりますよ。
幸せな記憶ほど、高く売れる。
最初に売ったのは、母と作った菫の砂糖漬けの記憶だった。使用人ふたりの給金になった。
次は、十五の誕生日。次は、初めての夜会。
蔵の帳場で頭巾の男が針を構えるたび、私は目を閉じて、家の帳簿を思い浮かべた。
針が触れると、まず温度が消える。菫の砂糖漬けの記憶は、抜かれる寸前に一度だけ、鮮やかに香った――それきり、緑いろの何かがあった気配だけが残った。
売り物を、最後に一度だけ味見させる。それが、あの蔵の流儀だった。
彼との思い出だけは、最後まで残した。
残した、つもりだった。
でも冬が来て、屋根が落ちて、弟の薬代が要って――私は、星見の丘を売った。手袋のボタンを売った。求婚の言葉を、売った。
売った記憶は、売ったという記憶ごと薄れる。だから私に残っているのは、質札の枚数と、胸の奥の妙な確信だけだ。
私はこの人を、愛していたはずだ。
根拠は、もう一枚も持っていないけれど。
◇
それでも、身体は覚えているのだ。
アルノー様の茶は、濃いめに淹れて、砂糖は入れない。訊かれる前に手が動く。
歩くときは、彼の左側に立つ。右耳が、戦の稽古で遠いから。
雨の匂いがすると、彼が屋根のある道を選ぶ前に、私の足が先にそちらを向く。
「……きみは、覚えていないと言うのに」
いつだったか、彼は私の淹れた茶を見つめて、ひどく静かに言った。
「どうして、手だけが覚えているんだ」
答えられなかった。
そして先週から、義姉が彼の左側を歩くようになった。星見の丘を語り、手袋のボタンの色を言い当て、求婚の言葉を諳んじる義姉が。
今夜、両家の顔合わせの席で、婚約の「差し替え」が諮られる。
覚えている娘と、覚えていない娘。どちらが妻にふさわしいか――答えの出ている問いだった。
◇
その夜半、部屋の窓辺に、黒衣の女が立っていた。
悲鳴を上げなかったのは、諦めていたからだと思う。もう何が来ても、驚くだけの持ち合わせがなかった。
女は胸に手を当て、東の礼をした。袖の奥で、ちりん、と真鍮の音がした。
「夜分に、御免」
「……どちらさま」
「灯の検死官です。質流れの検分に、参りました」
女は私の胸の前に指をかざし、糸を手繰る仕草をした。
「……ああ。ひどい質蔵だ」
低い声だった。
「あなたの灯、質札だらけです。三年で、二十六枚。よくもまあ、ここまで」
「……家が、あったので」
「存じています。帳簿は検めました。あなたの質草は、一枚残らず、同じ買い手に流れている」
女は、窓の外の月を見た。
「買い手の名は、申し上げるまでもないでしょう」
義姉は、覚えていたのではない。
私の思い出を、買って、着ていた。
「……返して、もらえるの」
「質流れの記憶は動産です。盗品と判れば、教会が差し押さえ、持ち主に返す」女はそこで、初めて私を正面から見た。「ただし、問いがひとつ。買い付けの初日は三年前――あなたが最初の質入れをする、ひと月前です」
意味が、すぐには分からなかった。
分かった瞬間、膝から力が抜けた。
私が売る前から、買う約束ができていた。
つまり、誰かが、うちの借財を組み上げたのだ。娘が思い出を売らねばならぬところまで、正確に。
「――明日の顔合わせ、同席しても?」
女が言った。
「検分には、買い手と、仕立て屋が揃っている場がいい」
◇
顔合わせの晩餐は、義姉の独壇場だった。
「アルノー様が落馬なさった秋も、わたくし、祈っておりましたのよ」
私の記憶で、義姉が笑う。私の三年が、燭台の向こうで幸せそうに喋っている。
アルノー様だけが、ほとんど手をつけずに、時々、給仕の並べ替えた茶器を見ていた。義姉の淹れさせた茶は、薄くて、砂糖が入っていた。
食堂の扉が、開いた。
黒衣の女が、敷居の上で背を伸ばした。
「なっ……どなた!?」継母が立ち上がる。
女は答えず、広間の中央へ歩を進めた。
「――偽りの灯は夜に灯り、まことの灯は胸に灯る」
燭台の火が、いっせいに低くなった。
「魂の贋作、天が赦しても――私が、赦さない。
聖務第九局、執行官。
皆さまの灯、検めさせていただきます」
黒衣の袖が、鳴った。
女の首筋から頬へ、朱の紋様が這い上がる。
女の背後で――夜が、立ち上がった。
「まずは、そちらのお嬢様から」
女の指が、義姉を差した。
義姉の胸元から、白く光る糸が――一本ではなく、束になって、ずるずると引き出された。糸の一本一本に、小さな札が下がっていた。
「質札です。来歴を読みます」
女は事務的に言った。袖から真鍮の小鳥が覗き、囀った。
『いち。菫の砂糖漬け、質入れ主リゼット。かいぬし、ロゼ』
『に。十五の誕生日、質入れ主リゼット。かいぬし、ロゼ』
『さん。星見の丘――』
「もう、いい! やめて!」
義姉が耳を塞いだ。塞いだ手の隙間から、小鳥は淡々と数え続けた。二十六枚。私の三年が、一枚ずつ、持ち主の名前を読み上げられていく。
「……ロゼ。おまえ、これは」
アルノー様の声に、義姉は答えなかった。かわりに、蒼白になった継母が口を開いた。
「ち、違うのです、これは、その子が勝手に売ったものを、娘が哀れんで」
「買い付けの契約日は、質入れの一月前です」
女が、静かに遮った。
「フェルゼン家との縁組を娘に付け替えるには、先方の想い出ごと移すのが早い。……借財の組み上げから質蔵の手配まで、見事な仕立てでした。奥様」
晩餐の席が、凍りついた。
沙汰は速かった。質蔵の頭巾の商人は今夜のうちに教会預かり。継母と義姉には、司教区から呼び出しの紙が来る。フェルゼン侯が無言で立ち上がり、息子に短く言った。「……縁組の話は、白紙だ。どちらの娘とも、とは言わん。おまえが決めよ」
◇
「質流れの返還を」
女がそう言って、私の前に、光る糸の束を置いた。
「痛みますよ。三年分を、一晩で」
「……ええ」
私はもう、その台詞の続きを知っている気がした。
糸が、胸に還ってくる。
菫の砂糖漬けの、緑の匂い。十五の蝋燭。初めての夜会の、床の冷たさ。
そして――星見の丘。
流れ星がひとつも流れなかった夜。がっかりする私に、あの人は生真面目な顔で言ったのだ。
『星が全部落ちても、僕が拾って回ります』
ほんとうに、つまらない求婚の言葉。なのに私は、笑いすぎて泣いたのだった。
顔を上げると、アルノー様がいた。
「……リゼット。ぜんぶは、訊かない」
彼は、私の手を見ていた。三年間、彼の茶を濃いめに淹れ続けた手を。
「きみは忘れても、きみの手は、一度も僕を忘れなかった。……僕が信じるべきだったのは、言葉の答え合わせじゃなかった」
「アルノー様」
「思い出は、また作ればいい」彼は言った。「今度は――売らせない。売らずに済む家に、僕がする」
◇
門の外で、女は夜空を見上げていた。
「……お礼の言葉が、見つからないの」
「仕事ですから」
女は懐から、小さな糸くずのようなものを摘まみ出した。二十六枚の質草に、一本だけ紛れていた、値札のない糸。
とても古い言葉で、祈りのかたちに、撚ってあった。
『さんぼんめ』
小鳥が、囀った。
「ええ。……蔵にも、あった」
女は糸を袖に納め、東の礼をひとつ残して、夜に溶けた。
今夜も、霊網は静かに脈打っている。
【了】
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関連作はタイトル上のシリーズにありますので、そちらもどうぞ。




