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灯の検死官

婚約者に『俺との思い出をひとつも覚えていないのか』と嘆かれました。はい、全部売りました――家を守るために

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/07/17


「リゼット。……きみは本当に、何も覚えていないのか」


婚約者のその声が、怒りではなく悲しみでできていることが、いちばんつらかった。


アルノー・フェルゼン侯爵子息。三年前に婚約して以来、私が――たぶん、愛してきた、ひと。

たぶん、というのは。

私が彼との思い出を、ほとんど覚えていないからだ。


「星見の丘の約束は」

「……ごめんなさい」

「初めて渡した手袋の、ボタンの色は」

「……ごめんなさい」

「なら、せめて――僕がきみに、なんと言って求婚したかは」

私は、黙って首を振ることしかできなかった。


かわりに答えた声があった。

「『星が全部落ちても、僕が拾って回ります』――でしょう? アルノー様」

義姉のロゼが、扇の陰で微笑んでいた。

「まあ。わたくし、聞いていただけなのに覚えてしまった」

アルノー様が、ゆっくりと義姉を見た。迷子の子供のような目だった。

「……そう、だ。そのとおりだ。どうして」

「大切な言葉ですもの」


応接間の隅で、継母が満足そうに頷くのが見えた。



弁解を、させてほしい。


三年前、父が死んで、フェルゼン家との婚約だけを残して、うちは傾いた。畑は抵当に、屋敷は借財の紙で包まれた。使用人に暇を出す銭すらなかった。

そういう家の娘に、街の古質屋は、こう囁くのだ。


――お嬢様。思い出は、質草になりますよ。


幸せな記憶ほど、高く売れる。

最初に売ったのは、母と作った菫の砂糖漬けの記憶だった。使用人ふたりの給金になった。

次は、十五の誕生日。次は、初めての夜会。

蔵の帳場で頭巾の男が針を構えるたび、私は目を閉じて、家の帳簿を思い浮かべた。

針が触れると、まず温度が消える。菫の砂糖漬けの記憶は、抜かれる寸前に一度だけ、鮮やかに香った――それきり、緑いろの何かがあった気配だけが残った。

売り物を、最後に一度だけ味見させる。それが、あの蔵の流儀だった。


彼との思い出だけは、最後まで残した。

残した、つもりだった。

でも冬が来て、屋根が落ちて、弟の薬代が要って――私は、星見の丘を売った。手袋のボタンを売った。求婚の言葉を、売った。

売った記憶は、売ったという記憶ごと薄れる。だから私に残っているのは、質札の枚数と、胸の奥の妙な確信だけだ。


私はこの人を、愛していたはずだ。

根拠は、もう一枚も持っていないけれど。



それでも、身体は覚えているのだ。


アルノー様の茶は、濃いめに淹れて、砂糖は入れない。訊かれる前に手が動く。

歩くときは、彼の左側に立つ。右耳が、戦の稽古で遠いから。

雨の匂いがすると、彼が屋根のある道を選ぶ前に、私の足が先にそちらを向く。


「……きみは、覚えていないと言うのに」

いつだったか、彼は私の淹れた茶を見つめて、ひどく静かに言った。

「どうして、手だけが覚えているんだ」


答えられなかった。

そして先週から、義姉が彼の左側を歩くようになった。星見の丘を語り、手袋のボタンの色を言い当て、求婚の言葉を諳んじる義姉が。

今夜、両家の顔合わせの席で、婚約の「差し替え」が諮られる。

覚えている娘と、覚えていない娘。どちらが妻にふさわしいか――答えの出ている問いだった。



その夜半、部屋の窓辺に、黒衣の女が立っていた。


悲鳴を上げなかったのは、諦めていたからだと思う。もう何が来ても、驚くだけの持ち合わせがなかった。

女は胸に手を当て、東の礼をした。袖の奥で、ちりん、と真鍮の音がした。

「夜分に、御免」

「……どちらさま」

「灯の検死官です。質流れの検分に、参りました」


女は私の胸の前に指をかざし、糸を手繰る仕草をした。

「……ああ。ひどい質蔵だ」

低い声だった。

「あなたの灯、質札だらけです。三年で、二十六枚。よくもまあ、ここまで」

「……家が、あったので」

「存じています。帳簿は検めました。あなたの質草は、一枚残らず、同じ買い手に流れている」

女は、窓の外の月を見た。

「買い手の名は、申し上げるまでもないでしょう」


義姉は、覚えていたのではない。

私の思い出を、買って、着ていた。


「……返して、もらえるの」

「質流れの記憶は動産です。盗品と判れば、教会が差し押さえ、持ち主に返す」女はそこで、初めて私を正面から見た。「ただし、問いがひとつ。買い付けの初日は三年前――あなたが最初の質入れをする、ひと月前です」

意味が、すぐには分からなかった。

分かった瞬間、膝から力が抜けた。

私が売る前から、買う約束ができていた。

つまり、誰かが、うちの借財を組み上げたのだ。娘が思い出を売らねばならぬところまで、正確に。


「――明日の顔合わせ、同席しても?」

女が言った。

「検分には、買い手と、仕立て屋が揃っている場がいい」



顔合わせの晩餐は、義姉の独壇場だった。


「アルノー様が落馬なさった秋も、わたくし、祈っておりましたのよ」

私の記憶で、義姉が笑う。私の三年が、燭台の向こうで幸せそうに喋っている。

アルノー様だけが、ほとんど手をつけずに、時々、給仕の並べ替えた茶器を見ていた。義姉の淹れさせた茶は、薄くて、砂糖が入っていた。


食堂の扉が、開いた。


黒衣の女が、敷居の上で背を伸ばした。

「なっ……どなた!?」継母が立ち上がる。

女は答えず、広間の中央へ歩を進めた。


「――偽りの灯は夜に灯り、まことの灯は胸に灯る」


燭台の火が、いっせいに低くなった。


「魂の贋作、天が赦しても――私が、赦さない。

 聖務第九局、執行官。

 皆さまの灯、検めさせていただきます」


黒衣の袖が、鳴った。

女の首筋から頬へ、朱の紋様が這い上がる。


女の背後で――夜が、立ち上がった。


「まずは、そちらのお嬢様から」

女の指が、義姉を差した。

義姉の胸元から、白く光る糸が――一本ではなく、束になって、ずるずると引き出された。糸の一本一本に、小さな札が下がっていた。

「質札です。来歴を読みます」

女は事務的に言った。袖から真鍮の小鳥が覗き、囀った。

『いち。菫の砂糖漬け、質入れ主リゼット。かいぬし、ロゼ』

『に。十五の誕生日、質入れ主リゼット。かいぬし、ロゼ』

『さん。星見の丘――』

「もう、いい! やめて!」

義姉が耳を塞いだ。塞いだ手の隙間から、小鳥は淡々と数え続けた。二十六枚。私の三年が、一枚ずつ、持ち主の名前を読み上げられていく。


「……ロゼ。おまえ、これは」

アルノー様の声に、義姉は答えなかった。かわりに、蒼白になった継母が口を開いた。

「ち、違うのです、これは、その子が勝手に売ったものを、娘が哀れんで」

「買い付けの契約日は、質入れの一月前です」

女が、静かに遮った。

「フェルゼン家との縁組を娘に付け替えるには、先方の想い出ごと移すのが早い。……借財の組み上げから質蔵の手配まで、見事な仕立てでした。奥様」


晩餐の席が、凍りついた。

沙汰は速かった。質蔵の頭巾の商人は今夜のうちに教会預かり。継母と義姉には、司教区から呼び出しの紙が来る。フェルゼン侯が無言で立ち上がり、息子に短く言った。「……縁組の話は、白紙だ。どちらの娘とも、とは言わん。おまえが決めよ」



「質流れの返還を」

女がそう言って、私の前に、光る糸の束を置いた。

「痛みますよ。三年分を、一晩で」

「……ええ」

私はもう、その台詞の続きを知っている気がした。


糸が、胸に還ってくる。


菫の砂糖漬けの、緑の匂い。十五の蝋燭。初めての夜会の、床の冷たさ。

そして――星見の丘。

流れ星がひとつも流れなかった夜。がっかりする私に、あの人は生真面目な顔で言ったのだ。

『星が全部落ちても、僕が拾って回ります』

ほんとうに、つまらない求婚の言葉。なのに私は、笑いすぎて泣いたのだった。


顔を上げると、アルノー様がいた。

「……リゼット。ぜんぶは、訊かない」

彼は、私の手を見ていた。三年間、彼の茶を濃いめに淹れ続けた手を。

「きみは忘れても、きみの手は、一度も僕を忘れなかった。……僕が信じるべきだったのは、言葉の答え合わせじゃなかった」

「アルノー様」

「思い出は、また作ればいい」彼は言った。「今度は――売らせない。売らずに済む家に、僕がする」



門の外で、女は夜空を見上げていた。

「……お礼の言葉が、見つからないの」

「仕事ですから」

女は懐から、小さな糸くずのようなものを摘まみ出した。二十六枚の質草に、一本だけ紛れていた、値札のない糸。

とても古い言葉で、祈りのかたちに、撚ってあった。

『さんぼんめ』

小鳥が、囀った。

「ええ。……蔵にも、あった」

女は糸を袖に納め、東の礼をひとつ残して、夜に溶けた。


今夜も、霊網は静かに脈打っている。


【了】


面白かったら評価、ブックマークいただけると嬉しいです。


関連作はタイトル上のシリーズにありますので、そちらもどうぞ。

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