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宮廷でいちばん目立たない令嬢が去った日、王宮の花がすべて枯れました

作者: 夢見叶
掲載日:2026/03/28

「エーベルハルト嬢。この5年間の尽力には感謝している」


 殿下は窓の外を見たまま、そうおっしゃった。


 ——私の名前を正しく呼んだのは、5年間で今日が初めてだった。


 先月の晩餐会では「エーデルハルト嬢」と呼ばれた。先々月は「エーベルハイム嬢」。3年目の園遊会では、隣国の大使の前で侍従に「あの者の名は?」と確認されて、大使だけが「リーナ嬢ですよ、殿下」と正してくださった。


 訂正する気力は、2年目の終わりに尽きている。


「隣国との同盟のため、フリーデリケ嬢を新たな王太子妃に迎えることになった。よって、そなたとの婚約は本日をもって解消とする」


「かしこまりました」


 即答だった。いつか来るこの日のために、頭の中で何度も繰り返した台詞は、思ったよりもすらすらと出てきた。


 殿下は少し驚いたようだったけれど、すぐに窓の外に視線を戻された。


「……引き継ぎは」


「必要ございません。私が担当していた業務は特にございませんので」


 これは嘘ではなかった。

 5年間、王太子の婚約者という立場にいたけれど、私に与えられた公式の仕事はひとつもない。


 議事録を取るのは書記官。来賓の対応は侍従長。式典の手配は典礼官。


 私がしていたのは、どの役職にも割り振られていない、名前のない仕事ばかりだった。





 控室でマルテが待っていた。


「終わりましたか」


「終わりました」


「——殿下は、最後に何かおっしゃいましたか」


「名前を正しく呼んでくださいました」


 マルテの目がぱちりと見開かれた。


「初めて?」


「初めて」


「5年間で初めてですか」


「3年目からは数えるのをやめました。正確にはあの時点で0回でしたから、数えるも何も、表に変動がなくて」


「統計を取っていらしたのですか」


「取ろうとして諦めました。0のまま更新されない表は、もはや表ではなく壁紙です」


 マルテは何か言いかけた。口を開いて、閉じて、もう一度開いた。


「——5年間です。5年間、毎朝花を活けて、窓を直して、ランプを整えて。それで、名前を一度も」


 声が震えていた。


「マルテ」


「——すみません。お荷物をまとめますね」


 奥へ消えていく背中の肩が震えている。怒っているのだ。私の代わりに。





 私が宮廷でしていたことを、改めて並べるとこうなる。


 来客用の小部屋の花を、3日ごとに活け替える。

 書庫の窓が固くなっていたら、修繕係に匿名で連絡する。

 外交使節が通る回廊のランプの灯りが偏っていたら、均等に直す。

 会議のあとのテーブルに誰かが忘れた書類を、持ち主の執務室の前にそっと置いておく。

 大雨の日は、来客用の玄関に予備の傘を並べておく。

 外交使節のお茶の席で、各国の好みに合わせて砂糖と蜂蜜の位置を変える。


 どれも「やらなくても困らない」類のことだ。

 誰にも頼まれていない。報告書もない。感謝もない。そもそも、やっていること自体を誰にも知られていない。


 ただ、宮廷という大きな建物がほんの少し滑らかに回るための——潤滑油。


 地味で、透明で、ちゃんと機能しているときは誰も存在に気づかない。なくなって初めて軋む。


 ぴったりだ。


 5年間の婚約者生活を一言で表す比喩が「潤滑油」というのは、もう少しなんとかならなかったのだろうか。


 ——いや。これが私だ。華やかさも、目立つ才能も、殿下の記憶に残る何かもない。ただ、気になったことを放っておけない性分だっただけ。


 荷物をまとめなければ。





 荷造りを始めて2時間ほど経った頃だった。


 扉の向こうに、宮廷の侍従の足音ではない音が聞こえた。もっと速く、もっと切迫している。


 ノックの音。マルテが応対に出て、すぐに戻ってきた。顔色が変わっている。


「ニクラス様が——いらしています」


「……え?」


「急遽、ご本人が来られたそうです。——お嬢様が婚約解消されたとお聞きになって」


 心臓が跳ねた。


 ニクラス・ヴァイデン。隣国の宰相の息子で、外交実務を取り仕切る若い高官。この3年間、外交会議のたびに宮廷を訪れていた人。


 ——花に気づいてくれた、たった一人の人。


 ——あのとき私の名前を正してくださった大使は、彼の国の方だった。


「今月は代理の方がいらしているはずでは」


「外交官は情報収集が仕事ですから——と仰っていましたが、馬を飛ばして3時間だそうです」


「3時間の距離を何時間で?」


「……2時間半とのことです」


「馬が気の毒です」


「お嬢様、感想がそれですか」


「だって、馬には何の罪もないのに」


「お嬢様にも何の罪もありません」


 ……マルテにはかなわない。





 応接間に通されたニクラス様は、旅装のまま立っていた。

 髪が風で乱れ、外套に砂埃がついている。穏やかな灰色の目が、今日は少し——険しい。


「リーナ嬢。——回廊の花のことでお話があるのですが」


 ——花の話。この人はいつも花から始める。


「今朝、回廊を歩いたのですが」


「はい」


「花がありませんでした」


 声の温度がいつもと違った。穏やかなのは同じなのに、底のほうに何かが燃えている。


「……昨日から荷造りをしておりましたので、今朝は活けに行けませんでした」


「それだけではありません」


 一歩、近づいた。


「来客用小部屋の花も枯れかけていました。書庫の窓が軋んでいました。会議室のランプが2本切れていました」


「…………」


「外交使節用の廊下の換気が止まっていました。忘れ物の書類がテーブルに3冊。来客用の玄関に傘が1本もない」


「——それは」


「あれも全て、リーナ嬢がやっていたことですか」


「……はい」


「たった1日で——宮廷中がほころんでいました」


 穏やかな人だと思っていた。3年間、いつも静かに花を褒めてくれる、温かい人だと。


 でも今、この人の声が揺れている。怒っているのではない。——必死なのだ。


「大袈裟です」


「大袈裟ではありません」


 彼は真剣な顔で私を見た。3年間で、こんなにまっすぐ見られたのは初めてだった。


「3年前、初めてこの宮廷を訪れたとき——回廊の窓辺にスミレが一輪だけ活けてありました」


 ——覚えている。あの朝のことを、私も忘れていない。


 水を入れたグラスに茎を挿しただけの粗末なもの。振り向いたら、焦げ茶の髪を後ろで束ねた長身の男性が立っていた。


「——同じことを考えた方がいたのですね」


 あのとき彼はそう言った。そして名前を聞いて、1回で覚えてくれた。5年間で、私の名前を1回目で正しく呼んだ人間が、隣国から来た。


「誰が活けたのかと使用人に聞いて回りました」


「それは、マルテから聞きました」


「書記官は『自然に咲いているのでは』と答えました。私が『花瓶は自然に窓辺に移動するものでしょうか』と返したら——」


「——『風の強い日なら』」


 同時に言ってしまった。顔を見合わせて、少し笑った。


「風で花瓶が移動する宮廷は、それはそれで問題だと思いますが」


「同感です」


 彼の口元から笑みが消えた。声が変わった。


「翌朝5時に回廊で待ちました。——そこに花を持って現れたのが、あなたでした」


「張り込みですか、外交官が」


「否定はしません」


 少しだけ声が和らいだ。


「でも——待った甲斐はありました。あなたが花を持って角を曲がってきたとき、朝の光が後ろから差していて」


 言葉を切った。灰色の目が、少し遠くを見ている。


「あの光景が、3年経ってもまだ消えないのです」


「…………」


「それから3年間、会議のたびにこの宮廷を訪れて、ずっと見ていました」


「——花を?」


「花だけではありません」


 声が低くなった。


「リーナ嬢が活けるスミレは、この3年間、いつも東の窓に置かれていました」


 心臓が止まりそうになった。


 ——知っていたのか。


 3年前。ニクラス様が初めてスミレに気づいてくれた日から、私は花を活ける場所を少しだけ変えた。どの窓にも均等に、ではなく。彼が必ず通る東の回廊に。彼が会議の前に目を留めてくれる窓辺に。


 言葉にできない気持ちを、スミレの一輪に託すくらいは——許されると思っていた。


 でも。見つかっていた。


「あの窓は、私が会議室に向かうときに必ず通る場所です」


「——それは、偶然です」


「偶然を3年間続けることを、私の国では『偶然』とは呼びません」


 きっぱりと。穏やかに。でも一切の逃げ道を残さずに。


「……呼ばないのですか」


「ええ。『想い』と呼びます」


 目が熱くなった。でも——好意ではなく、職業的な観察力だ。そう思いたかった。そう思わなければ、期待してしまう。期待して裏切られるのは、名前を呼ばれないよりずっと辛い。


「——でも、あなたは外交官で。窓やランプに気づく方なら、花にも気づく。それは観察力であって——」


「では、なぜ私は3年間、あの花弁を持っているのですか」


 ——花弁?


「最初の日。東の窓のスミレから、一枚だけいただきました」


 胸元から手帳を出して、開いた。薄茶色に変色した、小さなスミレの花弁が、ページの間に挟まっていた。


「——3年間も」


「観察力で花弁を持ち歩く人間がいるなら、お目にかかりたい」


 もう、言い訳ができなかった。


「蜂蜜のことも覚えていますか」


「…………覚えて、います」


 覚えている。2回目の秋の外交会議のとき。使節団がお茶の席に着いて、ニクラス様がふと手を止めた。


「——リーナ嬢。この湯呑みの配置、変わりましたか」


「え?」


「私の席にだけ蜂蜜があるのですが。他の席には砂糖だけで」


 前回の会議で砂糖を使わなかったのを見ていた。たったそれだけの理由で、蜂蜜を近くに置いた。


「なぜそう思ったのですか」


「前回、砂糖をお使いにならなかったので」


「1回見ただけで」


「……1回で十分です」


 あのとき、ニクラス様は蜂蜜をひとさじ、お茶に落とした。そして「美味しい」と静かに笑った。


 ——その笑顔が。あの日からずっと、胸の奥に残っている。


「あのとき——」


 目の前のニクラス様の声が、少しだけ震えた。


「この方は、観察力ではなく、心でこの宮廷を見ている人だ、と。はっきりそう思いました」


「…………」


「リーナ嬢」


「はい」


「私はあなたの花に気づいていました。窓に。ランプに。書庫に。忘れ物に。傘に。蜂蜜に。そしてあなた自身に。——3年間、ずっと」


 涙が頬を伝った。


「正式に申し上げます」


 彼は旅装の胸元から、皺の寄った封書を取り出した。馬で飛ばしてきたせいだろう。封を開くと、正式な招聘状が入っていた。


「うちの宮廷の回廊にも、光の入り方が美しい窓がいくつかあるのですが——花瓶がひとつもないのです」


 泣きながら笑ってしまった。


「それは——プロポーズですか」


「外交的に申し上げれば、人材の招聘です」


「外交的でないほうは」


「——あなたの名前を、毎朝呼びたいのです。これからずっと」


 ——名前。


 5年間、誰にも正しく呼ばれなかった名前。覚えてもらえなかった名前。訂正する気力すら失った名前。3年目からは統計すら取れなくなった名前。


 殿下は「あの者の名は?」と侍従に聞いた。

 ニクラスは「あなたのお名前は?」と私に聞いた。


 同じ「名前」を問う言葉なのに、重さが全く違った。


 この人は、その名前を——毎朝呼びたい、と言った。


 涙が止まらなかった。


「……お受けします」


「本当ですか」


「ただし、条件がひとつ」


「何でも」


「花瓶の水替えは3日に1回で結構ですから、忘れないでくださいね」


「忘れません」


 彼はきっぱりと言った。その灰色の目が、少し潤んでいた。


「あなたの花を忘れた日は、私の宮廷が曇る日です」


 ——ああ。


 5年間、殿下はこの宮廷の花を見ても何も思わなかった。

 3年間、この人は花の名前も、花を活けた人の名前も、蜂蜜の位置も、花瓶の高さも、全部覚えていた。


 同じ花を見ていたのに、見えていたものが全く違った。


 控室の扉の向こうで、マルテが盛大に鼻をすすっていた。


 ——壁が薄い。


「マルテ、入っていいですよ」


 扉がすぐに開いた。目が真っ赤だった。


「おめでとうございます、お嬢様」


「ありがとう、マルテ」


「……ニクラス様」


「はい」


「この方は、お茶に砂糖を入れません。蜂蜜は左に。花瓶の水は3日ごと。スミレは東の窓。カモミールは落ち着かせたいとき。ラベンダーは気分を変えたいとき」


「はい」


「——それから」


 マルテは私を見た。それからニクラス様を見た。


「名前だけは、どうか一生、間違えないでください」


 ニクラスは深く頷いた。


「誓います」





 後日。


 リーナが去った宮廷では、ちょっとした騒ぎが起きていた。


「——リーナ? 誰だ、それは」


 新しい婚約者のフリーデリケ嬢が「エーベルハルト嬢の引き継ぎ事項を確認したい」と言ったとき、殿下は心底不思議そうに首を傾げたのだ。


「殿下の前婚約者でございます」


「ああ、あの……地味な」


「はい。その『地味な』方について、いくつか確認させてください」


 フリーデリケ嬢は引き継ぎ事項の一覧を広げた。


「まず、この宮廷の回廊の花を5年間活け替えていたのはどなたですか」


「装花係だろう」


「装花係に確認しましたが、『私どもの管轄外です。あの花瓶は一体どこから来たのですか?』と逆に尋ねられました」


「…………」


「書庫の窓の修繕依頼。修繕係に確認したところ、依頼元はいつも匿名。ランプの調整も。忘れ物の回収も。大雨の日の傘も。外交使節の茶席の個別配慮も。——すべて、記録のどこにも名前がありません」


 フリーデリケ嬢は一覧から目を上げた。聡明で、冷静で、だからこそ容赦がなかった。


「殿下。この一覧にある業務のすべてを、お一人で、5年間、無報酬で行っていた方がいらっしゃいます」


「…………」


「その方のフルネームを——覚えていらっしゃいますか」


 殿下は口を開いた。閉じた。もう一度開いた。


「——リーナ・エーベル……」


「エーベルハルトです」


「…………」


「殿下が5年間で一度も正しく呼べなかった名前です」


 殿下は答えなかった。


 翌週から、宮廷の花は枯れた。窓は軋み、ランプの灯りは偏り、忘れ物はテーブルに放置された。


 3日目に、花瓶の水が腐った。

 5日目に、来客用の廊下で客人が暗いランプに躓いた。

 7日目に、大雨の日に傘がなく、隣国の使節が正装のまま濡れた。


 侍従長が慌てて原因を調べたが、誰にもわからなかった。施設は同じ。人員も同じ。予算も削られていない。何が変わったのかがわからない。


 装花係は「もともと回廊の花は私どもの管轄外です」と首を横に振った。

 修繕係は「匿名の依頼が来なくなったので作業が減りました」と報告した。

 茶席の担当者は「蜂蜜? 砂糖しか置いていませんが」と言った。

 傘の管理は——そもそも担当者が存在しなかった。


 隣国の使節団は帰国の際、こう伝えた。

「以前ほど快適な宮廷ではなくなりましたね。——前任のリーナ嬢は、お元気ですか」


 殿下は「リーナ嬢」が誰なのかわからず、侍従に確認した。


 ——隣国の使節は名前を覚えていた。5年間一緒にいた殿下は覚えていなかった。


 3年前の園遊会で「リーナ嬢ですよ、殿下」と正してくださったあの大使が、帰国後に宰相の息子に何を伝えたのか。私にはわからない。でも、ニクラスが馬を飛ばしてきたのは、きっと偶然ではない。


 フリーデリケ嬢だけが、静かに言った。


「変わったのではありません。元に戻っただけです。——あの方がいらした頃が、異常に良かっただけです」


 ある日、殿下は使節用の廊下で、グラスに挿されたスミレの枯れ枝を見つけた。水はとうに干上がっていた。誰も替えなかったのだ。


「——あの花は」


「リーナ・エーベルハルト嬢が活けていらっしゃったものです」


 フリーデリケ嬢は2回目のフルネームも、穏やかに、しかし正確に訂正した。


 殿下は窓辺に立って、何かを思い出そうとしていた。でも思い出せなかった。花の名前も。花を活けていた方の顔も。


 知っていたのに気づかなかった、のではない。気づくことすらしなかった。


 ——それは、取り返しのつかない種類の後悔だ。





 隣国の宮廷の回廊は、この国よりも天井が高く、窓が大きかった。


 光がたっぷり入る。


「どの窓がいいですか?」


 ニクラスが隣を歩きながら聞いた。


 私はゆっくり回廊を歩いて——3番目の窓の前で、足が止まった。


 窓辺に、花瓶が置いてあった。


 背の高い、美しいガラスの花瓶。透明で、午前の光を通すと虹色に輝く。水が入っている。花はまだ、ない。


 4番目の窓にも。5番目の窓にも。——回廊のすべての窓に、同じ花瓶が並んでいた。どの窓にも、正確に光が入る位置に。


 窓の幅に合わせて、花瓶の高さが1本ずつ違う。


「……ニクラス」


「はい」


「花瓶がひとつもない、とおっしゃいませんでしたか」


「…………」


「この花瓶。窓ごとに高さが違いますね」


「……ええ」


「いつから用意していたのですか」


 ニクラスは少し目を逸らした。——この人が目を逸らすのを、初めて見た。


「……2年前からです」


「2年」


「あなたが来てくれることを前提に、窓辺を全部採寸して、花瓶を特注しました」


「——2年前は、まだ私は殿下の婚約者でしたが」


「外交官は、2年先の情勢を読むのが仕事です」


「情勢ではなく、人の婚約を読んでいたのでは」


「……否定はしません」


 この人は、いつも最後にそう言う。そしてそのたびに、少しだけ耳が赤くなる。


 ——2年前から。花瓶を。この窓のために。私のために。


 泣きながら笑ってしまった。


「この窓。午前の光がまっすぐ入ります」


「では——ここに」


「カモミールがいいと思います」


「カモミール」


 彼は少し笑った。


「リーナがカモミールを選ぶときは、相手に落ち着いてほしいときだと——3年かけて学びました」


「……ばれていますか」


「全部」


 それからニクラスは、少し照れたように付け足した。


「蜂蜜も、置いてくれますか。私の席に」


「もちろん」


「ありがとう」


 彼の声が、とても柔らかかった。


「この国の宮廷は、今日から居心地が良くなります」


「それは私のおかげですか」


「——この宮廷の心臓のおかげです」


 ——心臓。


 潤滑油ではなく。


「マルテ嬢が教えてくれました。あなたが自分のことを潤滑油だと呼んでいると」


「——マルテ!」


 振り向くと、3歩後ろを歩いていたマルテが、何食わぬ顔で天井を見上げていた。


「呼びましたか、奥様」


「奥様はやめなさい」


「ではリーナ様」


「……それでいいです」


 ニクラスが小さく笑って、私の手をそっと取った。


 温かかった。——でも少しだけ震えていた。


「……手が震えていますよ」


「外交官にも、緊張することはあります」


「何に緊張しているのですか」


「——あなたの手に触れることに、2年間の準備期間では足りなかったようです」


 穏やかで、冷静で、朝5時に回廊で張り込むような人だ。花瓶を2年前から特注するような人だ。スミレの花弁を手帳に挟んで3年間持ち歩くような人だ。


 それなのに、手が震えている。


 ——ああ。この人は全部、本気だったのだ。


 握り返した。今度は私から。


「リーナ」


「はい」


「いい名前だ」


 5年間、正しく呼ばれなかった名前が、いまこの人の声でまっすぐ届く。


 ——潤滑油でもいい。心臓でもいい。呼び方なんて何でもいい。


 この人が名前を呼んでくれるなら、それだけで。


「ニクラス」


 今度は私から呼んだ。


「はい」


「——いい名前ですね」


 彼が一瞬だけ目を見開いて、それから——3年間で一番幸せそうに笑った。


 この宮廷の窓辺には、明日から花が咲く。


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