宮廷でいちばん目立たない令嬢が去った日、王宮の花がすべて枯れました
「エーベルハルト嬢。この5年間の尽力には感謝している」
殿下は窓の外を見たまま、そうおっしゃった。
——私の名前を正しく呼んだのは、5年間で今日が初めてだった。
先月の晩餐会では「エーデルハルト嬢」と呼ばれた。先々月は「エーベルハイム嬢」。3年目の園遊会では、隣国の大使の前で侍従に「あの者の名は?」と確認されて、大使だけが「リーナ嬢ですよ、殿下」と正してくださった。
訂正する気力は、2年目の終わりに尽きている。
「隣国との同盟のため、フリーデリケ嬢を新たな王太子妃に迎えることになった。よって、そなたとの婚約は本日をもって解消とする」
「かしこまりました」
即答だった。いつか来るこの日のために、頭の中で何度も繰り返した台詞は、思ったよりもすらすらと出てきた。
殿下は少し驚いたようだったけれど、すぐに窓の外に視線を戻された。
「……引き継ぎは」
「必要ございません。私が担当していた業務は特にございませんので」
これは嘘ではなかった。
5年間、王太子の婚約者という立場にいたけれど、私に与えられた公式の仕事はひとつもない。
議事録を取るのは書記官。来賓の対応は侍従長。式典の手配は典礼官。
私がしていたのは、どの役職にも割り振られていない、名前のない仕事ばかりだった。
◇
控室でマルテが待っていた。
「終わりましたか」
「終わりました」
「——殿下は、最後に何かおっしゃいましたか」
「名前を正しく呼んでくださいました」
マルテの目がぱちりと見開かれた。
「初めて?」
「初めて」
「5年間で初めてですか」
「3年目からは数えるのをやめました。正確にはあの時点で0回でしたから、数えるも何も、表に変動がなくて」
「統計を取っていらしたのですか」
「取ろうとして諦めました。0のまま更新されない表は、もはや表ではなく壁紙です」
マルテは何か言いかけた。口を開いて、閉じて、もう一度開いた。
「——5年間です。5年間、毎朝花を活けて、窓を直して、ランプを整えて。それで、名前を一度も」
声が震えていた。
「マルテ」
「——すみません。お荷物をまとめますね」
奥へ消えていく背中の肩が震えている。怒っているのだ。私の代わりに。
◇
私が宮廷でしていたことを、改めて並べるとこうなる。
来客用の小部屋の花を、3日ごとに活け替える。
書庫の窓が固くなっていたら、修繕係に匿名で連絡する。
外交使節が通る回廊のランプの灯りが偏っていたら、均等に直す。
会議のあとのテーブルに誰かが忘れた書類を、持ち主の執務室の前にそっと置いておく。
大雨の日は、来客用の玄関に予備の傘を並べておく。
外交使節のお茶の席で、各国の好みに合わせて砂糖と蜂蜜の位置を変える。
どれも「やらなくても困らない」類のことだ。
誰にも頼まれていない。報告書もない。感謝もない。そもそも、やっていること自体を誰にも知られていない。
ただ、宮廷という大きな建物がほんの少し滑らかに回るための——潤滑油。
地味で、透明で、ちゃんと機能しているときは誰も存在に気づかない。なくなって初めて軋む。
ぴったりだ。
5年間の婚約者生活を一言で表す比喩が「潤滑油」というのは、もう少しなんとかならなかったのだろうか。
——いや。これが私だ。華やかさも、目立つ才能も、殿下の記憶に残る何かもない。ただ、気になったことを放っておけない性分だっただけ。
荷物をまとめなければ。
◇
荷造りを始めて2時間ほど経った頃だった。
扉の向こうに、宮廷の侍従の足音ではない音が聞こえた。もっと速く、もっと切迫している。
ノックの音。マルテが応対に出て、すぐに戻ってきた。顔色が変わっている。
「ニクラス様が——いらしています」
「……え?」
「急遽、ご本人が来られたそうです。——お嬢様が婚約解消されたとお聞きになって」
心臓が跳ねた。
ニクラス・ヴァイデン。隣国の宰相の息子で、外交実務を取り仕切る若い高官。この3年間、外交会議のたびに宮廷を訪れていた人。
——花に気づいてくれた、たった一人の人。
——あのとき私の名前を正してくださった大使は、彼の国の方だった。
「今月は代理の方がいらしているはずでは」
「外交官は情報収集が仕事ですから——と仰っていましたが、馬を飛ばして3時間だそうです」
「3時間の距離を何時間で?」
「……2時間半とのことです」
「馬が気の毒です」
「お嬢様、感想がそれですか」
「だって、馬には何の罪もないのに」
「お嬢様にも何の罪もありません」
……マルテにはかなわない。
◇
応接間に通されたニクラス様は、旅装のまま立っていた。
髪が風で乱れ、外套に砂埃がついている。穏やかな灰色の目が、今日は少し——険しい。
「リーナ嬢。——回廊の花のことでお話があるのですが」
——花の話。この人はいつも花から始める。
「今朝、回廊を歩いたのですが」
「はい」
「花がありませんでした」
声の温度がいつもと違った。穏やかなのは同じなのに、底のほうに何かが燃えている。
「……昨日から荷造りをしておりましたので、今朝は活けに行けませんでした」
「それだけではありません」
一歩、近づいた。
「来客用小部屋の花も枯れかけていました。書庫の窓が軋んでいました。会議室のランプが2本切れていました」
「…………」
「外交使節用の廊下の換気が止まっていました。忘れ物の書類がテーブルに3冊。来客用の玄関に傘が1本もない」
「——それは」
「あれも全て、リーナ嬢がやっていたことですか」
「……はい」
「たった1日で——宮廷中がほころんでいました」
穏やかな人だと思っていた。3年間、いつも静かに花を褒めてくれる、温かい人だと。
でも今、この人の声が揺れている。怒っているのではない。——必死なのだ。
「大袈裟です」
「大袈裟ではありません」
彼は真剣な顔で私を見た。3年間で、こんなにまっすぐ見られたのは初めてだった。
「3年前、初めてこの宮廷を訪れたとき——回廊の窓辺にスミレが一輪だけ活けてありました」
——覚えている。あの朝のことを、私も忘れていない。
水を入れたグラスに茎を挿しただけの粗末なもの。振り向いたら、焦げ茶の髪を後ろで束ねた長身の男性が立っていた。
「——同じことを考えた方がいたのですね」
あのとき彼はそう言った。そして名前を聞いて、1回で覚えてくれた。5年間で、私の名前を1回目で正しく呼んだ人間が、隣国から来た。
「誰が活けたのかと使用人に聞いて回りました」
「それは、マルテから聞きました」
「書記官は『自然に咲いているのでは』と答えました。私が『花瓶は自然に窓辺に移動するものでしょうか』と返したら——」
「——『風の強い日なら』」
同時に言ってしまった。顔を見合わせて、少し笑った。
「風で花瓶が移動する宮廷は、それはそれで問題だと思いますが」
「同感です」
彼の口元から笑みが消えた。声が変わった。
「翌朝5時に回廊で待ちました。——そこに花を持って現れたのが、あなたでした」
「張り込みですか、外交官が」
「否定はしません」
少しだけ声が和らいだ。
「でも——待った甲斐はありました。あなたが花を持って角を曲がってきたとき、朝の光が後ろから差していて」
言葉を切った。灰色の目が、少し遠くを見ている。
「あの光景が、3年経ってもまだ消えないのです」
「…………」
「それから3年間、会議のたびにこの宮廷を訪れて、ずっと見ていました」
「——花を?」
「花だけではありません」
声が低くなった。
「リーナ嬢が活けるスミレは、この3年間、いつも東の窓に置かれていました」
心臓が止まりそうになった。
——知っていたのか。
3年前。ニクラス様が初めてスミレに気づいてくれた日から、私は花を活ける場所を少しだけ変えた。どの窓にも均等に、ではなく。彼が必ず通る東の回廊に。彼が会議の前に目を留めてくれる窓辺に。
言葉にできない気持ちを、スミレの一輪に託すくらいは——許されると思っていた。
でも。見つかっていた。
「あの窓は、私が会議室に向かうときに必ず通る場所です」
「——それは、偶然です」
「偶然を3年間続けることを、私の国では『偶然』とは呼びません」
きっぱりと。穏やかに。でも一切の逃げ道を残さずに。
「……呼ばないのですか」
「ええ。『想い』と呼びます」
目が熱くなった。でも——好意ではなく、職業的な観察力だ。そう思いたかった。そう思わなければ、期待してしまう。期待して裏切られるのは、名前を呼ばれないよりずっと辛い。
「——でも、あなたは外交官で。窓やランプに気づく方なら、花にも気づく。それは観察力であって——」
「では、なぜ私は3年間、あの花弁を持っているのですか」
——花弁?
「最初の日。東の窓のスミレから、一枚だけいただきました」
胸元から手帳を出して、開いた。薄茶色に変色した、小さなスミレの花弁が、ページの間に挟まっていた。
「——3年間も」
「観察力で花弁を持ち歩く人間がいるなら、お目にかかりたい」
もう、言い訳ができなかった。
「蜂蜜のことも覚えていますか」
「…………覚えて、います」
覚えている。2回目の秋の外交会議のとき。使節団がお茶の席に着いて、ニクラス様がふと手を止めた。
「——リーナ嬢。この湯呑みの配置、変わりましたか」
「え?」
「私の席にだけ蜂蜜があるのですが。他の席には砂糖だけで」
前回の会議で砂糖を使わなかったのを見ていた。たったそれだけの理由で、蜂蜜を近くに置いた。
「なぜそう思ったのですか」
「前回、砂糖をお使いにならなかったので」
「1回見ただけで」
「……1回で十分です」
あのとき、ニクラス様は蜂蜜をひとさじ、お茶に落とした。そして「美味しい」と静かに笑った。
——その笑顔が。あの日からずっと、胸の奥に残っている。
「あのとき——」
目の前のニクラス様の声が、少しだけ震えた。
「この方は、観察力ではなく、心でこの宮廷を見ている人だ、と。はっきりそう思いました」
「…………」
「リーナ嬢」
「はい」
「私はあなたの花に気づいていました。窓に。ランプに。書庫に。忘れ物に。傘に。蜂蜜に。そしてあなた自身に。——3年間、ずっと」
涙が頬を伝った。
「正式に申し上げます」
彼は旅装の胸元から、皺の寄った封書を取り出した。馬で飛ばしてきたせいだろう。封を開くと、正式な招聘状が入っていた。
「うちの宮廷の回廊にも、光の入り方が美しい窓がいくつかあるのですが——花瓶がひとつもないのです」
泣きながら笑ってしまった。
「それは——プロポーズですか」
「外交的に申し上げれば、人材の招聘です」
「外交的でないほうは」
「——あなたの名前を、毎朝呼びたいのです。これからずっと」
——名前。
5年間、誰にも正しく呼ばれなかった名前。覚えてもらえなかった名前。訂正する気力すら失った名前。3年目からは統計すら取れなくなった名前。
殿下は「あの者の名は?」と侍従に聞いた。
ニクラスは「あなたのお名前は?」と私に聞いた。
同じ「名前」を問う言葉なのに、重さが全く違った。
この人は、その名前を——毎朝呼びたい、と言った。
涙が止まらなかった。
「……お受けします」
「本当ですか」
「ただし、条件がひとつ」
「何でも」
「花瓶の水替えは3日に1回で結構ですから、忘れないでくださいね」
「忘れません」
彼はきっぱりと言った。その灰色の目が、少し潤んでいた。
「あなたの花を忘れた日は、私の宮廷が曇る日です」
——ああ。
5年間、殿下はこの宮廷の花を見ても何も思わなかった。
3年間、この人は花の名前も、花を活けた人の名前も、蜂蜜の位置も、花瓶の高さも、全部覚えていた。
同じ花を見ていたのに、見えていたものが全く違った。
控室の扉の向こうで、マルテが盛大に鼻をすすっていた。
——壁が薄い。
「マルテ、入っていいですよ」
扉がすぐに開いた。目が真っ赤だった。
「おめでとうございます、お嬢様」
「ありがとう、マルテ」
「……ニクラス様」
「はい」
「この方は、お茶に砂糖を入れません。蜂蜜は左に。花瓶の水は3日ごと。スミレは東の窓。カモミールは落ち着かせたいとき。ラベンダーは気分を変えたいとき」
「はい」
「——それから」
マルテは私を見た。それからニクラス様を見た。
「名前だけは、どうか一生、間違えないでください」
ニクラスは深く頷いた。
「誓います」
◇
後日。
リーナが去った宮廷では、ちょっとした騒ぎが起きていた。
「——リーナ? 誰だ、それは」
新しい婚約者のフリーデリケ嬢が「エーベルハルト嬢の引き継ぎ事項を確認したい」と言ったとき、殿下は心底不思議そうに首を傾げたのだ。
「殿下の前婚約者でございます」
「ああ、あの……地味な」
「はい。その『地味な』方について、いくつか確認させてください」
フリーデリケ嬢は引き継ぎ事項の一覧を広げた。
「まず、この宮廷の回廊の花を5年間活け替えていたのはどなたですか」
「装花係だろう」
「装花係に確認しましたが、『私どもの管轄外です。あの花瓶は一体どこから来たのですか?』と逆に尋ねられました」
「…………」
「書庫の窓の修繕依頼。修繕係に確認したところ、依頼元はいつも匿名。ランプの調整も。忘れ物の回収も。大雨の日の傘も。外交使節の茶席の個別配慮も。——すべて、記録のどこにも名前がありません」
フリーデリケ嬢は一覧から目を上げた。聡明で、冷静で、だからこそ容赦がなかった。
「殿下。この一覧にある業務のすべてを、お一人で、5年間、無報酬で行っていた方がいらっしゃいます」
「…………」
「その方のフルネームを——覚えていらっしゃいますか」
殿下は口を開いた。閉じた。もう一度開いた。
「——リーナ・エーベル……」
「エーベルハルトです」
「…………」
「殿下が5年間で一度も正しく呼べなかった名前です」
殿下は答えなかった。
翌週から、宮廷の花は枯れた。窓は軋み、ランプの灯りは偏り、忘れ物はテーブルに放置された。
3日目に、花瓶の水が腐った。
5日目に、来客用の廊下で客人が暗いランプに躓いた。
7日目に、大雨の日に傘がなく、隣国の使節が正装のまま濡れた。
侍従長が慌てて原因を調べたが、誰にもわからなかった。施設は同じ。人員も同じ。予算も削られていない。何が変わったのかがわからない。
装花係は「もともと回廊の花は私どもの管轄外です」と首を横に振った。
修繕係は「匿名の依頼が来なくなったので作業が減りました」と報告した。
茶席の担当者は「蜂蜜? 砂糖しか置いていませんが」と言った。
傘の管理は——そもそも担当者が存在しなかった。
隣国の使節団は帰国の際、こう伝えた。
「以前ほど快適な宮廷ではなくなりましたね。——前任のリーナ嬢は、お元気ですか」
殿下は「リーナ嬢」が誰なのかわからず、侍従に確認した。
——隣国の使節は名前を覚えていた。5年間一緒にいた殿下は覚えていなかった。
3年前の園遊会で「リーナ嬢ですよ、殿下」と正してくださったあの大使が、帰国後に宰相の息子に何を伝えたのか。私にはわからない。でも、ニクラスが馬を飛ばしてきたのは、きっと偶然ではない。
フリーデリケ嬢だけが、静かに言った。
「変わったのではありません。元に戻っただけです。——あの方がいらした頃が、異常に良かっただけです」
ある日、殿下は使節用の廊下で、グラスに挿されたスミレの枯れ枝を見つけた。水はとうに干上がっていた。誰も替えなかったのだ。
「——あの花は」
「リーナ・エーベルハルト嬢が活けていらっしゃったものです」
フリーデリケ嬢は2回目のフルネームも、穏やかに、しかし正確に訂正した。
殿下は窓辺に立って、何かを思い出そうとしていた。でも思い出せなかった。花の名前も。花を活けていた方の顔も。
知っていたのに気づかなかった、のではない。気づくことすらしなかった。
——それは、取り返しのつかない種類の後悔だ。
◇
隣国の宮廷の回廊は、この国よりも天井が高く、窓が大きかった。
光がたっぷり入る。
「どの窓がいいですか?」
ニクラスが隣を歩きながら聞いた。
私はゆっくり回廊を歩いて——3番目の窓の前で、足が止まった。
窓辺に、花瓶が置いてあった。
背の高い、美しいガラスの花瓶。透明で、午前の光を通すと虹色に輝く。水が入っている。花はまだ、ない。
4番目の窓にも。5番目の窓にも。——回廊のすべての窓に、同じ花瓶が並んでいた。どの窓にも、正確に光が入る位置に。
窓の幅に合わせて、花瓶の高さが1本ずつ違う。
「……ニクラス」
「はい」
「花瓶がひとつもない、とおっしゃいませんでしたか」
「…………」
「この花瓶。窓ごとに高さが違いますね」
「……ええ」
「いつから用意していたのですか」
ニクラスは少し目を逸らした。——この人が目を逸らすのを、初めて見た。
「……2年前からです」
「2年」
「あなたが来てくれることを前提に、窓辺を全部採寸して、花瓶を特注しました」
「——2年前は、まだ私は殿下の婚約者でしたが」
「外交官は、2年先の情勢を読むのが仕事です」
「情勢ではなく、人の婚約を読んでいたのでは」
「……否定はしません」
この人は、いつも最後にそう言う。そしてそのたびに、少しだけ耳が赤くなる。
——2年前から。花瓶を。この窓のために。私のために。
泣きながら笑ってしまった。
「この窓。午前の光がまっすぐ入ります」
「では——ここに」
「カモミールがいいと思います」
「カモミール」
彼は少し笑った。
「リーナがカモミールを選ぶときは、相手に落ち着いてほしいときだと——3年かけて学びました」
「……ばれていますか」
「全部」
それからニクラスは、少し照れたように付け足した。
「蜂蜜も、置いてくれますか。私の席に」
「もちろん」
「ありがとう」
彼の声が、とても柔らかかった。
「この国の宮廷は、今日から居心地が良くなります」
「それは私のおかげですか」
「——この宮廷の心臓のおかげです」
——心臓。
潤滑油ではなく。
「マルテ嬢が教えてくれました。あなたが自分のことを潤滑油だと呼んでいると」
「——マルテ!」
振り向くと、3歩後ろを歩いていたマルテが、何食わぬ顔で天井を見上げていた。
「呼びましたか、奥様」
「奥様はやめなさい」
「ではリーナ様」
「……それでいいです」
ニクラスが小さく笑って、私の手をそっと取った。
温かかった。——でも少しだけ震えていた。
「……手が震えていますよ」
「外交官にも、緊張することはあります」
「何に緊張しているのですか」
「——あなたの手に触れることに、2年間の準備期間では足りなかったようです」
穏やかで、冷静で、朝5時に回廊で張り込むような人だ。花瓶を2年前から特注するような人だ。スミレの花弁を手帳に挟んで3年間持ち歩くような人だ。
それなのに、手が震えている。
——ああ。この人は全部、本気だったのだ。
握り返した。今度は私から。
「リーナ」
「はい」
「いい名前だ」
5年間、正しく呼ばれなかった名前が、いまこの人の声でまっすぐ届く。
——潤滑油でもいい。心臓でもいい。呼び方なんて何でもいい。
この人が名前を呼んでくれるなら、それだけで。
「ニクラス」
今度は私から呼んだ。
「はい」
「——いい名前ですね」
彼が一瞬だけ目を見開いて、それから——3年間で一番幸せそうに笑った。
この宮廷の窓辺には、明日から花が咲く。
【作者から読者様へお願いがあります】
少しでも、
「面白い!」
「続きが気になる!」
と思っていただけましたら、
広告の下↓にある【☆☆☆☆☆】をタップして、
【★★★★★】にしてくださると嬉しいです!
皆様の応援が、作品を書く最高の原動力になります!
なにとぞ、ご協力よろしくお願いします!




