第二章 第3話:重なる残響
その日も、内庫司の執務室には、報告を終えたばかりの書類の束が積み上がっていた。
一介の官吏である縫季が、王太子の執務机のすぐ隣に席を与えられ、直接意見を求められる。
その光景は、周囲の役人たちには
「抜擢された有能な若手」と映っているようだったが、縫季にとっては、一刻一秒が心臓を削る試練だった。
「……縫季。この新道の補修計画だが、資材の運び込みをあと三日早められるか」
「可能です。ただし、周辺農村の労役時間を一割減らす調整が必要です。無理をさせれば、後の収穫期に響きます」
「――ふむ。そなたは、やはり鋭いな。効率よりも、その先にある『生活』を先に見る」
帝辛が顔を上げ、満足げに筆を置く。
ただの褒め言葉だ。仕事上の評価に過ぎない――縫季はそう整え、「恐縮です」と礼を返した。
だが、返した瞬間に気づく。
帝辛の褒めは『終わり』ではない。
いつもそこから、もう一段、何かを確かめに来る。
帝辛の瞳は、温いのに、剣のように澄んでいた。
打算がないのではない。打算を、もっと奥の層に沈めた目だ。
王太子の目は、国のために人を計る――その当然の機能を、隠しもしない。
「……そなた、今の答え。迷いがないな」
「迷い、ですか」
「普通は、農村の負担に触れると声が揺れる。上官の顔色を見て、言葉を選ぶ。――そなたは、選ばぬ」
帝辛の声は淡い。
責めてもいない。
だが淡いまま、逃げ道だけを狭める。
「誰かに教わったのか。それとも、最初からそういう『癖』か」
癖。
その語が、縫季の背骨を冷やした。
癖は、外から覗かれるとまずい。
「……たまたま、そう見えただけです」
「たまたま、か」
帝辛はほんの少しだけ口元を緩めた。
笑みではない。
確認の合図に近い。
縫季は思う。
――この男は、『信頼』の顔で近づいて、『警戒』の刃で触れてくる。
ふと、視界の端を清朗が横切った。
相変わらず忙しそうに走り回っているが、その腰の香袋は以前よりも甘い香を放っている。
縫季の脳裏に、あの時の言葉が蘇る。
『あの黙り方が一番怖い。
……あれ、多分、泣くのを止めてる顔なんだ』
目の前の帝辛は、今、静かに地図を見つめている。
整った横顔。完璧な王太子としての佇まい。
けれど、その輪郭に、あの日見た「茶室の青い顔」が重なる。
父を失うことを恐れ、孤独な王座に怯えていた一人の若者。
――と、そこまで考えかけて、縫季は自分の内側に歯止めをかけた。
今のは同情だ。
推測だ。
縫う必要のない線に、針を差しかけた。
その瞬間から、縫う者が『自分の形』を失う――灯台の声が、胸の底で冷えた。
「縫季?」
不意に帝辛がこちらを見た。
覗き込むような距離。縫季が視線を外そうとするより先に、帝辛の声が落ちる。
「……いま、そなたの目が逸れた。私からではない。地図からでもない。――別のところだ」
「いえ、ただ……」
「『ただ』は、便利だな」
からかうようでいて、刃の置き方が正確すぎる。
帝辛は筆を置いたまま、指先だけで机上の木札を裏返した。音は立たない。
立たないのに、縫季の呼吸だけが乱れる。
「そなたは、不思議だ」
帝辛は淡々と言う。
「抜擢されて浮かれもしない。
恐れも、媚も薄い。……なのに、こちらが気を抜くと、そなたは一歩引く」
縫季の喉が詰まる。
『気を抜く』。
それを、王太子が自分に向けて言う。
警戒すべきなのに警戒できない――その兆しを、帝辛自身が一番嫌うはずなのに。
「殿下、私は官吏として――」
「官吏は皆、同じ匂いをしている」
帝辛は遮る。
静かな声で、静かなまま。
「正しい距離で、正しい顔で。……そなたは、その匂いが薄い」
縫季の背中を、冷たい汗が滑った。
匂い――その言葉は、この世界では言い逃れが利かない。
まして相手は、王太子だ。国のために『異質』を刈る側にいる。
帝辛は、ほんの少しだけ首を傾けた。
試すように。確かめるように。
縫季の喉の奥が、冷えた。
このまま言葉を重ねれば、次に剥がされるのは癖ではなく、もっと深い層だ――そう悟った瞬間、縫季は”官吏の手札”を引く。
正しい提案。
正しい気遣い。
正しい距離。
「……殿下。少し、手を休められては」
逃げ道として差し出したはずの言葉なのに、帝辛の瞳は逃がさない。
むしろ、その”整え方”そのものを味わうみたいに、薄く間を置いた。
「ほう。いま、私に休めと言ったな」
淡い声。だが、確認の刃が正確に骨へ届く。
「……はい。執務が続いておりますので」
「続いているのは、私の執務だけか?」
一歩も動かず、距離だけを詰めてくる問い。縫季は、息の置き場を失う。
「……茶でも煎じてみろ」
「え?」
「そなたが提案したのだろう。休めと。――なら、そなたの手で休ませてみせろ」
命令ではない、と言える形。
だが拒めない。拒めば、余計に怪しくなる。
「……承知いたしました。すぐに、お持ちいたします」
縫季は官吏の声を作り、席を立った。
背中に視線が刺さる。
刺さるのに、痛みがない。
痛みがないことが、いちばん怖い。
執務室を出る直前、帝辛の低い声が追いかけてくる。
「――縫季。そなたの『匂い』を、私はまだ決めかねている」
縫季は返事をしなかった。できなかった。
官吏の顔のまま一礼し、執務室を出る。
扉が閉まった瞬間、肺の奥に溜めていた息が、遅れて落ちた。
◆
(……危ねぇ)
指先が、ほんの少し震えている。自分で自分が可笑しい。
たった数言で、癖の奥まで触ってくる。
あの目。
あの間。
あの”休めと言ったな”の言質の取り方。
(王太子ってのは、そんなに暇なのか……? いや、暇なわけがない。国を背負ってるからこそ、ああいう刃なんだろう)
分かっている。
分かっているが、腹が立つ。
こちらが距離を取ろうとした瞬間だけ、きっちり追い縋ってくる――まるで、逃げ道の位置を確認してから遊ぶみたいに。
(そもそも、あれだ。お前のそういうところだ)
完璧な王太子の顔で、こちらの癖を見抜いて、匂いを測って、逃げ道を全部塞いでくる。
それだけなら、まだ王太子だからと割り切れた。
しかし――
茶室では、父を失う不安を隠しきれない青い顔をして、
市場では、子供に独楽を渡して眩しいほど笑って、
清朗の前では、「走り書吏」とか言いながら心底楽しそうにして――
(不意打ちで弱いとこ見せるな。笑顔を見せるな。……ずるいだろ)
そのたびに、心が勝手に揺れる。
追い詰められてるはずなのに、気づいたら「守りたい」とか――そんな余計な縫い目を作りそうになる。
(生意気な若造め……)
吐き捨てて、ようやく足に力が戻った。
怒りは便利だ。動揺を形にして、熱だけを外へ逃がしてくれる。
縫季は歩調を整え、湯の間へ向かう。
手を動かせ。
火を整えろ。
香気を待て。
――そうやって”官吏”に戻れば、あの男の刃にも、まだ言い訳が立つ。
(……いや、立たせる。絶対に)
袖を払って、縫季は眉間の熱を押し込めた。
茶を煎じるだけだ。
たったそれだけのことに、なぜこんなに心が騒ぐのか
――考えるのは、後にする。
ほどなくして、縫季は茶を持って戻った。
陶壺から椀に注いだ茶を盆に乗せ、机の端に置く。
その瞬間、帝辛は筆先を止めただけで顔を上げ――椀ではなく、縫季の指先の運びを見てから、ゆっくりと筆を置き、椀を受け取った。
口元へ運び、ひと口。
すぐには言葉が落ちない。
湯気の向こうで、瞳だけがわずかに動く。
「悪くない」
その一言で、縫季の肩がほどけかけた。
だが帝辛は続ける。
声は淡いのに、逃げ道だけを先に塞ぐ調子だ。
「――ただ、火が早すぎた。香が飛んでいる」
縫季は息を呑んだ。
椀の色が、ほんの少し濃い。
煮立てすぎた茶葉の、微かな渋みが残っている。
味ではなく、手の急き方の問題だ。
帝辛は盆の上の道具を一つずつ見た。
陶壺、布巾、茶葉の小壺。
視線は物に向いているのに、拾い上げているのは縫季の『内側』だった。
「そなた、火を急かす。煎じる前に『終わらせる』手だ」
帝辛は腰を上げ、湯の間の竈の前へ歩いた。
小壺から茶葉をひとつまみ、陶壺へ落とす。
湯を加えてから、火の前に静かに立つ。
「見ていろ。――もう一度」
命令ではないのに、拒めない形で落ちる声。
縫季は小さく頷き、帝辛の隣へ寄った。炭火の前に立つと、顔に微かな熱が来る。
「火はここで絞る。沸き立てるのではなく、内側から温める」
帝辛は火箸で炭を少しだけ端へ寄せた。音がほとんど立たない。
炎が収まり、陶壺の底が柔らかく温められていく。
「……香が出始めるまで、待つ。急かせば飛ぶ」
縫季は息を止めた。
しばらくして、茶葉のやわらかい香気が、ふわりと立った。
「……わかるか」
帝辛が縫季へ向く。
確かめるように、でも強制はしない声音。
縫季は一度だけ頷いた。湯気が鼻先をかすめ、息が少しだけ浅くなる。
帝辛は今度は縫季へ火箸を渡した。
手が触れる寸前で止まる。
渡す、だけ。
「やってみろ」
縫季の手が、わずかに震えた。
炭を端へ寄せようとした瞬間、火箸の先がわずかに跳ねる。
帝辛の瞳が、その揺れを逃さない。逃さない上で、わざと静かに言う。
「茶に出る。……そなたの心が揺れている」
縫季の喉が詰まる。
王太子に『心』を言い当てられることが、まずいのではない。
まずいのは、この男が、揺れを見つけた瞬間に、少しだけ楽しそうに見えることだった。
「……殿下、私は――」
「言い訳は要らぬ。揺れている」
帝辛は笑わない。
けれど口元が、ほんの少しだけ上がる。
「なぜだ?」
問いは軽い。
だが、軽いまま刺す。
縫季は息を整え、ゆっくりと炭を動かした。
今度は音が少ない。
火が落ち着き、陶壺の中でじわりと香気が育ち始める。
帝辛は椀を取り上げ、縁に指を這わせた。温度を確かめるように、ゆっくりと。
湯気が彼の頬を撫で、髪の先を濡らす。
「……ああ、良くなった」
一言だけ。
帝辛は茶を口に運び、目を閉じた。
喉が小さく動く。
縫季は、その動きから目を逸らせなかった。
逸らした途端、何かが崩れそうで。
帝辛が椀を置く。音が、静かに響いた。
「妙だ」
小さな独り言。
けれど縫季には、逃げ道のない音に聞こえた。
「私は、そなたを警戒すべきだ。王太子として――国のために。なのに、私の側が緩む。
……不思議な男だ」
縫季は火箸を握ったまま固まる。
言葉を返せない。
警戒されないことが、こんなに怖いとは思わなかった。
疑われる方がまだ楽だ。疑いには、形がある。だがこれは、形のない引力だ。
「官吏は皆、言葉も、息も、正しく整える」
一拍。
「……だが、お前は、整えているのに外れている。そこが厄介で、面白い」
『そなた』から『お前』へ。
そこに意図がないはずがない。
「お前の茶は、どこか『外』の匂いがする」
帝辛は視線を上げ、縫季の目を正面から捉えた。
「火の焦りが、茶に出る。……それを隠そうとする癖も」
帝辛の声が、わずかに低くなる。
「――お前は、本当は、どこから来た?」
空気が止まる。
机上の紙が動かない。
湯気の流れさえ、一瞬、固まった気がした。
「……っ」
縫季の喉が、変に鳴った。
息を整える前に言葉を探してしまって、火箸の先がかすかに跳ねる。竈の炭が、ぱ、と小さく爆ぜた。
――やばい。
内心の舌打ちが、間に合わない。
その瞬間だった。
帝辛が、ほんの一拍だけ目を見開いて――次の瞬間、袖で口元を隠すように俯いた。
「……ふっ」
押し殺したはずの笑いが、零れる。
縫季は固まったまま、炭の爆ぜた跡を見つめた。
「……殿下?」
帝辛は咳払いをひとつして、平然を装う。
だが、目尻だけがまだ若い。
「すまぬ。……いまの、お前があまりに分かりやすかった」
「分かりやす――」
縫季の声が、わずかに裏返った。
帝辛はそこでもう一度、薄く笑いかける。
からかいの形なのに、年相応の無邪気が混じって、余計に厄介だ。
「嘘を整える前に、手が先に動く。……癖だな」
――次の瞬間、帝辛の視線がふっと逸れた。
縫季の目ではなく、竈の炭の小さな爆ぜ跡へ。
「……まあいい」
帝辛は陶壺を指先でくるりと回した。
まるで”今はそこを掘らない”と、決めてしまう仕草。
「その話は、いずれ聞く。――今日は茶だ」
帝辛は縫季へ椀を向ける。押し付けるでもなく、受け取らせるでもなく。
ただ、当たり前みたいに差し出す。
「なら、もう一服」
縫季の胸の奥で、白い光が遠く明滅する。
灯台の警告。
けれど今は遠すぎて、言葉にならない。
助かった――と思った瞬間に、腹が立つ。
逃げ道を作ってやった顔を、しない。
する必要もない顔をしている。
(……まただ。こいつ、年下だろ)
「……承知いたしました」
縫季は一拍を、呼吸で押し潰した。
わざと視線を火の前へ落とす。
火箸の角度を整え、茶葉の量を確かめる。
仕事の手つきに戻せば、言葉も『官吏のもの』になる。
香気が、静かに育つ。湯気が、二人を包む。
――だが、この体は、まだ馴染まない。
光から生まれたばかりの皮膚が、竈の熱に過敏に反応する。
炭火の温みが、指先を撫でるだけで、妙な熱が這い上がる。
人間の体は、こんなに重く、こんなに厄介なのか。
香の海では、ただの光の粒子だったものが、今は血と肉の殻に閉じ込められ、帝辛の視線一つでざわつく。
帝辛の目が、湯気の向こうからこちらを捉えた。穏やかなのに、逃がさない。
視線が肌に触れるような感覚。
息がわずかに浅くなり、縫季は火箸を握り直した。
柄の金属が掌に食い込む感触が、余計に現実を思い起こさせる。
「手つきもだ。整えきれていない」
帝辛の声が、低く響く。
からかいを含んだ響きが、耳朶をくすぐる。
鼓動が、一瞬だけ速くなる。
触れられてなどいないのに、胸の奥で疼きが芽吹いた。
帝辛は薄く笑いかける。
「もう一服、ゆっくりでいい」
縫季は頷き、火を見つめる。湯気の渦が、二人の間を埋めていく。
(……この感覚、任務の邪魔だ。なのに、消したくない)




