第二章 第2話:友の横顔
王太子府の長い回廊。
茶室の静寂から放り出された縫季の耳には、自分の足音さえもやけに大きく響いていた。
(……忘れるな、ね。言い方よ。生意気め)
赦しの言葉を振り払おうとした、その瞬間だった。
回廊の影が、ふっと薄くなる。
天井も壁も変わらないのに、空気だけが「白く」なる。
潮でも霧でもない、香の海のひかり――灯台の光が、縫季の輪郭をそっと撫でて包み込んだ。
冷たい指で後頭をなぞられたみたいな感覚が、奥から広がる。
音はない。
耳ではなく、脳の内側に直接、何かが落ちてくる。
『おい、縫香官』
縫季は思わず、胸の奥で舌打ちした。
(……出た。うるさいのが来た)
『縫香官?なんだその呼び方。俺、昇進した?』
光の内側へ、言葉を返す。
口に出せば響くから、呼吸と一緒に――胸の底で整えて流し返した。
『していない。』
『即答かよ』
『ふざけてないで状況を吐け。任務中だ』
声ではないのに、声だとわかる。
命令みたいな言い方のくせに、いつも"圧"だけは丁寧に差し入れてくるのが、なんか癪だ。
『配給線、異常なし。倉と工房の動線も良好。民の士気も――まあ、安定』
『言い方が雑だな』
『雑じゃない。短いだけだ』
ひかりが一瞬だけ、濃くなる。
返答を受け取った合図のように、肩の上を撫でていく。
『王太子は』
『接触、継続中。俺への警戒は薄い。……ただし、観察が鋭い。いや、鋭すぎる』
返した途端、包む光が重くなる。
まるで言葉の隙間に指を差し入れて、体温を測ってくるみたいに。
『ほう。乱れている』
『……乱れてねえけど?』
『いま、呼吸が一拍遅れた』
『それは……歩いてるからだろ』
『言い訳の形が雑だな』
『雑じゃない。短いだけだ』
灯台が沈黙した。
その間が、呆れた息に似ているのがまた腹立たしい。
『私情は縫うな。線が歪む』
『……分かってるから言うなって』
『――その歪みは、いつも縫う者の方から先に裂ける』
『縁起でもない言い方すんなよ。……縫うの、俺だぞ』
言い返した瞬間、光がすっと引いた。
引き際だけが、赦しに似ているのが腹立たしい。
胸の奥の熱まで嗅ぎ取られそうで、縫季はそれを息の奥へ押し込めた。
縫季は歩幅を戻す。
冷えた空気が、ようやく回廊の匂いに戻ってくる。
そのとき――角の向こうから、軽い声が飛んできた。
「おーい、新入り! 顔が赤いぞ。茶が熱すぎたか? それとも殿下に絞られたか?」
回廊の曲がり角から、ひょっこりと顔を出したのは清朗だ。
脇に大量の竹簡を抱え、いつものように人懐っこい笑みを浮かべて、彼は縫季の隣に並んだ。
「……清朗殿。仕事中にふざけないでください。私はただ、報告を終えてきただけです」
「はいはい、報告ね。殿下の『お気に入り』は大変だなあ。俺なんてさっき、走り回らされすぎて足が棒だぜ。殿下、仕事に関しては本当に容赦ないだろ?」
清朗はわざとらしく溜息をつき、空いている手で自分の足を叩いてみせた。
その気さくな振る舞いに、縫季の肩からわずかに力が抜ける。帝辛と二人きりの時に張り詰めていた「何か」を、清朗の明るさが強引に中和していく。
「……殿下は、厳しい方ですね。でも、それ以上に……」
「優しい、だろ?」
清朗は笑った。いつもの軽さで――けれど、その軽さが、言葉を痛くする。
「あの人、優しいって言われるの嫌がるんだよ。甘いって意味に聞こえるって。
だから、表では絶対に"正しい顔"しか出さねえ」
清朗は縫季の横顔を盗み見て、わざとらしく口角を上げた。
「でもさ。あの独楽のときみたいに、一回でも"素"を見せると……戻すのに時間かかる。
自分で自分を叱るみたいに、急に黙って、急に強くなる」
少しだけ声が落ちる。
「俺は、あの黙り方が一番怖い。……あれ、多分、泣くのを止めてる顔なんだ」
清朗が言葉を継いだ。
歩きながら、彼は少しだけ声を落とし、慈しむような目で中庭の方を見た。
「あの人は、昔からそうだ。自分が傷つくより、誰かが困ってるのを見るのが一番嫌いなんだよ。あ、もちろん官吏としての『完璧な殿下』も本物だけどさ。……あのお節介な独楽回しの顔が、本当の帝辛なんだよな」
清朗はそれ以上を言わず、ただ中庭の方へ目をやった。
あの独楽のときの無防備が、"本当"だと縫季にも分かってしまう。
「帝辛」と呼び捨てにした言葉に、二人の長い年月が滲む。
縫季は、その絆が羨ましく、そして眩しかった。清朗が語る帝辛の話を聞くたびに、自分の知らない「王太子の欠片」が埋まっていく。
(茶室で見せた、あの青い顔も――)
(「まだ、父上が必要です」と言った、あの声も――)
清朗の語る「本当の帝辛」と、縫季が見た帝辛が、重なっていく。
ただ確かめたいだけだ。あの人の輪郭を、手の届く範囲に置いておきたいだけだ――そう自分に言い聞かせる。
だが、その時だった。
清朗がふざけて縫季の肩を叩こうと、ぐっと距離を詰めてきた。
「――っ」
鼻先をかすめた匂いに、縫季の身体が本能的に拒絶反応を示した。
(……何だ、今の匂い?)
清朗の腰に下げられた香袋。
そこから漏れ出しているのは、本来、清朗が好んでいた爽やかな草木の香りではなかった。
それは、喉の奥にこびりつくような、不自然に甘く、重い香り。
熟れすぎた果実が腐り始める直前のような、あるいは、思考を泥の中に沈めさせるような、逃げ場のない甘美さ。
「清朗殿、その香袋……」
「ん? ああ、これ? 最近もらったんだよ。良い匂いだろ? 疲れが取れるっていうか、これをつけてるとさ、嫌なことも全部『どうでもいいか』って思えてくるんだ」
清朗はケラケラと笑う。
だが、その瞳。
いつもなら表情豊かに動く彼の目が、笑い声のわりに、どこか平坦で、焦点が合っていない気がした。
まるで、薄い膜の向こう側から世界を見ているような、そんな違和感。
「……どこでもらったのですか?」
「えーっと、どこだったかな。確か、兵舎のほうの知り合いに……。あ、やべ、次の伝令の時間だ! じゃあな縫季、あんまり殿下に見惚れすぎるなよ!」
清朗は手を振り、再び回廊を走っていった。
縫季はその背中を、すぐには追えなかった。
鼻の奥に残る、あの甘い残響。
灯台で学んだ「香」の知識が、警告を鳴らしている。
善意の顔をした違和感が、喉に引っかかった。
本人が「幸せ」だと言っている以上、それは目に見える事件ではない。だが、あの明るい清朗の笑顔が、どこか機械仕掛けの人形のように見えたのは、気のせいだろうか。
(……黒闢、という名前が出たあとに、これか)
偶然だと言い聞かせるには、匂いが近すぎる。
甘さの奥に、糸のように冷たいものが混じっている。――誰かが"効かせ方"を知っている香だ。
帝辛の優しさは、いまは陽だまりみたいに見える。
けれど陽だまりは、毒を乾かす。
縫季は、清朗の背中から目を離せなかった。
あの香袋の紐の結び目が、妙に綺麗すぎた。
(黒闢は――どこまで、この国の"匂い"を歪ませている)
さっきの白い光の言葉が、遅れて胸を刺した――裂けるのは、いつも縫う者の方から先に。




