第二章 第1話:玻璃(はり)の王座
王太子府の一角にある、小さな茶室。
市場で誘われてから数日後、縫季は心臓の騒ぎを「これは単なる任務への緊張だ」と自分に言い聞かせ、帝辛の前に座っていた。
畳に似た敷物の上は、足裏が少しだけ沈む。静けさが、音より先に肌へ触れてくる。
外の喧噪は壁に吸われ、残るのは湯の立つ気配と、器が冷えを抱えている匂いだけだった。
帝辛は手慣れた所作で湯を沸かしている。
湯気に指先をさっとくぐらせ、その温度を確かめた。熱すぎず、かといって冷めてもいない。茶の香りが最も美しく立ち上がる、針の穴を通すような頃合い。
それから彼は、いったん湯を茶碗へ回し入れた。碗の内側を温めるだけ温め、すぐに捨てる。
捨て湯が器に触れる音さえ、ほとんど立たない。
布が、碗の底をひと撫でする。湿り気を残さない。
注ぐ湯の量も、迷いがない。ひと息で、ちょうど同じ線で止まる。
茶碗を置くとき、帝辛は無意識にその"向き"を縫季の指がかけやすい角度へ揃えた。
――気遣いというより、癖だ。
人の手元を見て、その場で整える。政務のときと同じ。
「……そなた、あの場で驚いたはずだ」
不意の言葉に、縫季の肩が跳ねた。
帝辛は茶碗を温めながら、いたずらっぽく――けれど目だけは、笑っていない。
「驚いていたのに、呼吸が乱れなかった。……官吏というのは、皆そうなのか?」
喉が乾く。
縫季は茶室の静けさの中で、自分の息の音が途端に邪魔に思えた。乱れていないと指摘された瞬間から、乱れたくなる。そういうものだ、と腹の奥で誰かが言う。
「……習い性です」
帝辛はふっと目を細めた。
「習い性。なるほど。ではもう一つ。そなたの郷里の冬は、どんな匂いがする?」
縫季は、答えの形を探して、ほんの一拍遅れた。
地名を言う必要はない。匂いだ。匂いなら、どれだけでも誤魔化せるはずなのに――なぜか舌の先が鈍る。
帝辛はその沈黙を追い立てない。追い立てない代わりに、目を逸らさない。
湯の温度を確かめるときの指先みたいに、こちらの揺れを正確に測ってくる。
「……冷えた土と、薪の煙。そういう匂いです」
「ふむ」
それだけで帝辛は満足したような顔をした。
満足した、というより――確かめた。そんなふうに見えた。
帝辛は温めた碗を縫季の前に置いた。
茶碗の縁が、指の腹に触れた瞬間だけ、あたたかい。熱いのではなく、ほどけるような温度だった。
「……そなた、私の笑みを見ていただろう」
不意の言葉に、縫季の肩がわずかに跳ねた。
帝辛は茶碗を温める湯を捨て、布で底をひと撫でする。音を立てない。
それから顔を上げた。
湯気の向こうの視線が、縫季の呼吸だけを選んで絡め取る。
「否定は要らぬ。見ていた」
――来た。
縫季は心臓のうるささに腹が立った。
何を動揺している。相手は年下だ。王太子だとしても、年下は年下だ。
そのはずなのに、言葉ひとつでこちらの足元を揺らしてくる。
帝辛は茶葉を量り、湯を注ぐ。湯の線が一定の高さで止まる。
その正確さが、余計に腹立たしい。
「官吏は皆、礼儀正しく私を見る。正しい距離で、正しい顔で」
帝辛は淡々と言った。
「だが、そなたは違った。……顔が変わった」
「殿下、私は――」
「"殿下"で逃げるな」
優しい声なのに、逃げ方だけを先回りして塞がれる。
そして帝辛は、すぐに続けた。
「……年上ぶる癖があるな、そなた」
縫季の喉が、ひゅっと鳴る。
それを見た帝辛は、わずかに目を細めた。
その目が、分かっていてやっている目だった。
「私が年下だと思って、落ち着こうとしていた」
そう言いながら、帝辛は縫季の碗に茶を少し継いだ。
「今も。そうしている」
――年下のくせに。
思った瞬間、胸の奥が熱を持つ。
図星を突かれた怒りと、図星を突かれた恥が、一緒に湧く。
「安心したいなら、別に構わぬ」
帝辛は涼しい顔で言った。
「だが、安心するふりをして、目だけは私を追う。……不器用だな」
縫季は茶碗に触れかけて、止めた。
指先が自分のものじゃないみたいに鈍い。
「あのとき、そなたは怒っていた」
「……怒ってなど」
帝辛は首を僅かに傾ける。
「怒っていた。だが――」
一拍。湯気が白く膨らむ。
「……怒り方が、綺麗だった」
綺麗。顔。自分の。
それを、年下が、言う。
「……今、何と」
「聞き返すな」
帝辛は即座に切った。
一拍。
それから堪えきれなかったように、帝辛は喉の奥で笑った。
くす、と。湯気に紛れるほどの、年相応の笑いだ。
「……そなたが困るのが、面白くてな」
言い終える前に口元がまた緩み、短い息が漏れる。
縫季の胸が、変に跳ねた。
「……っ、笑うな」
思ったより低い声が出て、縫季は自分で自分に驚く。
頬に熱が走った。――しまった、と思うより先に、咳払いが喉を突いた。
「……失礼」
何事もなかった顔を作り直す。作り直せているかは、知らない。
「……悪い。だが、目が逸れぬ」
帝辛はそう言って、茶碗の縁へ指を添えた。
逃げ道を一本、残すみたいに。
「そなたの目は、私を値踏みしていた。あるいは……ひどく危ういものを見るように案じていた」
帝辛は、笑うでもなく、けれどもう刺しきらない声で言った。
「なぜだ?」
縫季は、胸の奥のざらつきを言葉にするのが嫌だった。
調整員として彼を見ていた。未来の悲劇、黒い影、そしてこの清らかな「善」がいかに脆いかを知っているから。
だから睨みつけるような目になっていたのだ、と説明すれば早い。けれどその説明は、あまりにも手軽で、薄い。
「……殿下のあのお顔が、あまりに無防備に見えたからです」
絞り出した答えに、帝辛は一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。
そして、今度は声を立てて低く笑った。
「無防備、か。……父上以外に、そんなことを言う者はそなたが初めてだ」
その言葉をきっかけに、帝辛の纏う空気がわずかに緩んだ。
緩んだのに、軽くならない。むしろ、重いものが静かに露出する。
「――昨夜、父上の寝所へ行った」
ふいに落ちた、静かな声音。
帝辛は自らの茶碗を両手で包み込み、その熱を確かめるように俯いた。
「父上は、もう長くはないだろう。お会いするたび、お体から力が抜けていくのがわかる。だが、あの御方は……民のことばかりを気になさるのだ。『お前は自分を顧みない、少しは休め』とな。呆れたものだ。鏡を見ろ、と言い返したくなったよ」
帝辛は自嘲気味に笑ったが、その瞳には隠しきれない孤独が揺れていた。
縫季は、配給の倉で聞いた「名君」の姿と、帝辛が語る「老いた父」の姿を重ねる。そこに矛盾はない。矛盾がないからこそ胸が痛む。
「……陛下は、それほどまでに殿下を信じておられるのですね」
「信じているのか、あるいは、急かされているのか」
帝辛の指先が、茶碗の縁をなぞる。
爪が触れないように。器を欠かせないように。そういう触り方だった。
「昨夜、父上は仰った。『黒闢のことだが、あの男をどう扱うかは、お前が決めろ。私は、もう……』と。……そこで、言葉を濁された」
「黒闢」という名が落ちた瞬間、茶室の空気がわずかに重くなる。
縫季の脳裏に、灯台の記録が浮かんだ。
乾いた頁。そこにだけ、黒い滲みがあった。墨ではない。指で擦っても広がらない、落ちない染み。
その滲みの周辺だけ、文字が読めない。
記録が、欠けている。
(……何が、記されていたんだ)
縫季は思わず茶碗の縁を強く押さえ、すぐに手を離した。
器は何も言わない。だが、触れ方ひとつで割れるものがあることを、指が覚えている。
帝辛は視線を上げ、窓の外の遠い空を見つめた。
「私は、咄嗟に言葉を飲み込んでしまった。『まだ、父上が必要です』と、子供のような泣き言が喉まで出かかった。……私は、情けないな」
振り向いた帝辛の顔は、あまりにも「青かった」。
完成された王太子としての仮面の裏側に潜む、二十歳の若者の剥き出しの素顔。父を失うことを恐れ、巨大な国の重責に震え、それでも背筋を伸ばそうとする一人の息子。
「父上は……『お前はもう、次の王だ』と仰った。息子ではなく、殷の主として立て、と」
縫季は、胸の奥で小さく舌打ちした。
さっきまでの帝辛は、こちらの呼吸の乱れだけを選んで絡め取って、年上をからかうことを遊びのようにやってのけた。――なのに今は、茶碗の熱に縋るみたいに両手を重ね、言葉の端で躓いている。
整いすぎた所作の奥に、まだ整いきらないものが残っている。
完璧に見せる癖があって、そのくせ、弱いところもある。
生意気な――若君だ。
そう名付けてしまえば楽なのに、名付けた瞬間から目が離せなくなる気がして、縫季はその続きの言葉を飲み込んだ。
帝辛は茶を一口啜り、深く息を吐いた。
そして、どこか縋るような、あるいは確かめるような目で、縫季を見つめた。
「縫季。そなたには、この国がどう見える。……私は、父上のようになれると思うか?」
まっすぐな問い。
縫季は、自分の手がわずかに震えているのに気づいた。調整員としてなら「予定された崩壊」を答えればいい。
けれど、この熱い茶を淹れ、脆い素顔を見せた青年に対して、そんな無機質な言葉は出せなかった。
「……陛下が守りたかったものを、今、誰よりも大切に抱えておられるのは、殿下です」
縫季は帝辛の瞳を逃げずに見据えた。
「殿下が殿下である限り……この国の温かさは、消えません」
それは、未来を知る者としての、そしてこの「青さ」に心動かされた一人の人間としての、切実な願いだった。
帝辛は一瞬、呆然としたように縫季を見つめていたが、やがて今日一番の、そして少しだけ照れくさそうな笑みを浮かべた。
市場で見せた"形"ではない。けれど、同じ無防備が、今度は茶室の静けさに守られている。
縫季はその笑みを、視線で追ってしまった。
追った、と気づいた瞬間に、遅れて心拍が跳ねる。
帝辛は茶碗を置き、僅かに身を乗り出した。
湯気の向こうで、瞳だけが冴える。さっきまでの脆さを、器用に畳んでしまう目だった。
「――今の顔、忘れるな。私が許す」
命令でもないのに、赦しの形だけが落ちた。
縫季の喉が一瞬、鳴る。
――年下のくせに。
腹が立つ。はずなのに、胸の奥が妙に熱い。
縫季は帳尻を合わせるように、官吏の顔を作った。
「……恐れ入ります」
そう言ってから、しまったと思う。
丁寧すぎる。距離が、逆に露骨だ。
帝辛は、笑った。
「……そういう返しをするから、そなたは厄介だ」
からかう笑みではない。けれど主導権だけは、確かに握ったままの口元だった。
「……手強い男だ。官吏の分際で、私の心の中に土足で入り込んでくる」
そう言いながら、帝辛は自分の碗に茶を注いだ。
注ぐ量は、やはり一定だった。湯の線が、迷わず止まる。
「だが……悪くない。その無作法に、少し救われた」
温かい茶の香りが、二人の間に満ちる。
しかし、その安らぎを塗りつぶすように、縫季の脳裏には「黒闢」という不気味な影が、消えない滲みとなって残り続けていた。
帝辛は茶碗を置き、ふと、縫季の指先を見た。
見ているのは指ではなく――そこに残る、さっきの"押さえ方"だと縫季は思った。
「……不思議だ」
帝辛が小さく言う。
「そなたの言葉は、どこか……ここではない場所の匂いがする」




