第一章 第4話:帳簿の端の違和感
内庫司へ戻ると、先ほどまでの静寂が嘘のように、役人たちが慌ただしく動き回っていた。
「柳渓村への追加配給、急ぎで手配を!」
「倉の印、まだ揃ってないぞ!」
縫季は机に戻り、帳簿を広げた。配給の記録、倉の印、輸送路の調整――すべて整っている。
だが、やはり何かが引っかかる。
匂いが薄い。不自然なまでに澄んだ空気。
(……この違和感は、何だ)
「監査吏」
不意に声をかけられ、縫季は顔を上げた。
上役の老官――先ほど摘要を届けろと命じた男だ。年齢は六十を過ぎているだろうか。髪は白く、背中は少し丸まっているが、目はまだ鋭い。
「はい」
「殿下は、何か仰っていたか?」
「『よく見ている』と。……それだけです」
老官は満足げに頷いた。
「それは良かった。殿下は、細かいところまでよくご覧になる」
老官は縫季の隣に腰を下ろし、帳簿を覗き込んだ。
「柳渓村への配給、無事に届いたようだな」
「はい。運び筋を北の街道へ切り替えたことで、遅れは解消されたようです」
「そうか」
老官は目を細めた。
「殿下は、陛下の血を引いておられる。民を想い、国を信じる。その心は、陛下と同じだ」
縫季は黙って頷いた。
老官は少しの間、帳簿を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……ただ、陛下は最近、少しお疲れのようだ」
縫季の手が、一瞬止まった。
「お疲れ、ですか?」
「ああ。……病ではない、と信じたいがな」
老官の声が、わずかに沈む。
「先月から、咳が増えた。謁見の間でも、時折、お体を支えられる。医官は『疲労』と仰るが……」
老官は言葉を切った。
縫季は静かに問うた。
「……陛下のご容態は、殿下もご存知なのですか?」
「もちろんだ。殿下は、陛下のお側で、ずっとお支えになっている」
老官は帳簿から目を離し、縫季を見た。
「殿下は、まだお若い。だが、もう王太子としての責を負っておられる。陛下が倒れれば、すべてが殿下の肩にかかる」
縫季の胸に、冷たいものが刺さった。
(……帝辛が、すべてを背負う)
灯台の記録に残っていた、あの未来。
玉座に座り、涙を流す帝辛。黒い影に操られ、民を苦しめる決定を強いられる姿。
あれは、いつから始まるのか。
「監査吏」
老官の声が、縫季を現実へ引き戻した。
「殿下をお支えするのは、我ら臣下の務めだ。そなたも、その一人となる覚悟はあるか?」
「……はい」
縫季は頷いた。
老官は満足げに頷き、立ち上がった。
「ならば良い。……ただ、一つだけ、気をつけることがある」
老官は声を落とした。
「殿下は、誰も疑わない。それが、殿下の美徳であり、同時に弱点でもある」
「……」
「昨夜、殿下が陛下の寝所から戻られた後、少しお話を伺いました」
老官はさらに声を落とした。
「陛下が『黒闢のことだが、あの男をどう扱うかは、お前が決めろ』と仰ったそうです」
縫季の手が、帳簿の端を強く押さえた。
黒闢――
その名前が、ついに現れた。
灯台の記録に残る、殷を狂気へ導く男。帝辛を操り、国を支配する、黒い影の正体。
だが今、この時代では、まだ「将軍の一人」に過ぎないはずだ。
老官は続けた。
「黒闢は、長く殷軍を支えてきた。武勇に優れ、兵を統べる力も持つ。だが……」
老官は眉を寄せた。
「あの男は、制御が難しい。力を信じすぎている。陛下は、それを危惧されている」
「……殿下は、どうお考えなのですか?」
「分からぬ。殿下は、まだ黒闢と深く接しておられない。だが、いずれ決断を迫られる日が来る」
老官は縫季を見た。
「その時、殿下を支えられるのは、そなたのような、冷静な目を持つ者だ」
縫季は何も言えなかった。
老官は軽く頷き、去っていった。
縫季は一人、帳簿の前に座ったまま、動けなかった。
黒闢――
その名前が、脳裏に焼き付いて離れない。
灯台の記録では、黒闢は帝辛を玉誓で縛り、支配する。帝辛は涙を流し、民を苦しめる決定を強いられる。
だが今、まだ黒闢は「将軍の一人」に過ぎない。
陛下が生きている限り、黒闢は動けない。
だが――
(陛下が、倒れたら)
縫季の指先が震えた。
すぐに手を離す。器は何も言わない。だが、触れ方ひとつで割れるものがある。
窓の外では、依然として殷の明るい朝日が降り注いでいる。
だが縫季の目には、その光が、崩壊へ向かう刻を告げる灯火に見えていた。
(……間に合うのか)
縫季は帳簿を閉じた。
違和感の正体を、確かめなければならない。
この国の「明るさ」の裏に、何が隠れているのか。
そして――
(……消したくない)
胸の奥で、何かが芽を出し始めていた。
それは任務でも、義務でもない。
もっと個人的な、もっと曖昧で、もっと危険な感情だ。
さっき見たもの。
独楽が回って、泣き声が止んで、子供が笑った。
清朗の声に、帝辛が年相応に笑った。
あの笑顔が、くるりと回って、当たり前みたいにこの場へ落ちてくる。
その光景が――灯台の記録の中の、痩せた頬と泣き声に、塗り潰されてほしくない。
(……この「明るさ」を、折りたくない)
縫季は立ち上がり、窓の外を見た。
王太子府の屋根が、朝日に照らされている。
あの中に、帝辛がいる。
民を想い、国を信じ、誰も疑わない、若き王太子。
だが今の縫季が守りたいのは、まだ――人ではない。
(……笑える世界線を、残せないのか)
答えは、まだ見えない。
縫季は帳簿を抱え、内庫司の奥へと戻った。
まずは、この違和感の正体を暴く。
それが、縫季にできる最初の一歩だった。




