第一章 第3話:配給監査吏
内庫司の昼は、朝の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
窓から差し込む陽光は一段と強さを増し、空中に舞う微細な塵を白く照らし出している。役人たちは昼餉の後の微かな微睡みを押し殺し、ひたすら木札を繰り、筆を走らせる。その単調な音だけが、薄い壁に吸われていった。
その静寂の中で、縫季だけは、別のものに神経を尖らせていた。
机に積まれた帳簿。配給の記録、倉の印、輸送路の調整――すべて整っている。
だが、何かが引っかかる。
匂いが薄い。清めの香が残るような、不自然なまでに澄んだ空気。それが、執務棟へ近づくほど、微かに蜜のような"甘さ"へと傾いていく。
(……この違和感は、何だ)
縫季は帳簿の端に細い紙片を差し込んだ。後で、もう一度精査する。
「監査吏。王太子殿下へ、本日の摘要を届けろ」
不意に上役の老官が、顎で出口を指した。
「……余計なことは言うな。数字だけを、正しくだ」
「承知いたしました」
縫季は立ち上がり、差し出された紙片を受け取った。
『内庫司・配給監査摘要。王太子府・執務室へ持参』。
簡潔な命の裏側で、縫季の心臓が一度、強く脈打った。
――市場で声をかけられた、あの王太子と、ついに正式に会う。
帳の束を抱え、廊下へ出る。
内庫司特有の、古い紙と墨が混じった乾いた匂い。だが、やはりここも「匂い」が欠落している。清めの香が薄く残るような、不自然なまでに澄みきった空気。
それが、執務棟の奥へ進むほど、微かに、蜜のような"甘さ"へと傾いていくのを、調整員の鼻は逃さなかった。
執務室の前に控える二人の衛士が、無言で扉を開く。
中は、静謐という名の檻のようだった。整然と並べられた筆、墨、帳。その中心に、彼がいた。
帝辛。
白と薄紅の王衣は、朝よりもいっそ痛々しいほどに整えられている。だが、不思議と威圧感はない。背筋を真っ直ぐに伸ばしたその姿からは、むしろ客人を招き入れるような、静かな「迎え」の気配が漂っていた。
空気が、変わった。清澄で、どこか温かい。胸のざわめきが、静かに鎮まっていく。
(これが……暁玉香か)
「内庫司の者か」
ふと、帝辛と目が合った。
帝辛の声は、想像よりも低く、深く響いた。若さという輝きの裏に、巨大な版図を背負う者特有の重みが混じっている。
「配給監査吏、縫季と申します。本日の摘要をお届けに参りました」
縫季は膝を折り、深く頭を下げた。
調整員としての本能が、視線を伏せながらも周囲の情報を貪欲に拾い上げる。逃げ道、窓の位置、風の動き。そして、帝辛自身の匂い。
(この人の香は、民を安堵させる)
帝辛の傍らに漂うのは、朝の市場に似た透明な空気だ。だが、それはただ清いだけではない。冷たい玉を掌で温めたときのような、体温を宿した静かな熱。
これこそが、民の笑みを守るための香――『暁玉香』。……そう呼ばれている香だ。
「顔を上げよ」
命じられ、縫季はゆっくりと視線を上げた。
目が合う。
鋭い。だが、それは刺し貫く刃ではなく、相手の嘘や迷いを、薄紙を剥ぐように丁寧に見極めようとする、純粋な知性の鋭さだった。
縫季は無意識に、心の奥の「扉」を閉じた。調整員として培った、自己を消し去る術。
(この人が……俺が知っている、あの帝辛なのか)
灯台の海で見た、絶望の淵で涙を流していた姿とは、あまりにもかけ離れている。
今の彼の瞳に、破滅の影はない。あるのは、剥き出しの誠実さと、眩しいほどの責任感。
「摘要を」
帝辛が手を伸ばす。縫季が帳を差し出すと、彼は指先で紙の端を揃え、驚くべき速さで目を走らせた。
読み方は速いが、決して雑ではない。必要な核心だけを瞬時に拾い上げ、不要な箇所では決して足を止めない。その姿は、朝、市場で民を救っていた時と全く同じ、完璧な「解決者」のものだ。
「柳渓村。運び筋は北の街道へ切り替えたな。……倉の印も揃っている。よい」
帝辛は短く頷き、次の行を追う。
縫季は、ここで切り出すべきか迷った。執務棟へ近づくほど漂う蜜のような甘い香の違和感を。しかし、老官の「余計なことは言うな」という言葉が楔となって喉に刺さる。
今はまだ、観測者であるべきだ。踏み込みすぎれば、この鋭い王太子に警戒される。
帝辛が帳を置いた。視線が、再び縫季の顔へ戻る。
「縫季。……北の州の出だと言ったな」
「はい」
「北は、風が荒いと聞く」
唐突な問い。だが、それはただの世間話ではない。
帝辛は、目の前の人間を「ただの歯車」として見ていない。その者の背景、生活、その根底にあるものを知ろうとしている。
「冬の風は、骨まで冷えます。ですが、倉の火を守る者がいれば、米は守れます」
縫季が用意していた答えを返すと、帝辛の口元が、ふっと緩んだ。
それは朝の公的な笑みではなく、清朗と話していたときに見せた、年相応の柔らかな笑みに近かった。
――その瞬間。縫季の胸が、騒がしく跳ねた。
(……だめだ。思い出すな)
市場で見た、あの無防備な笑顔。
それが目の前の本物と重なり、縫季の視界を狂わせる。
だが、同時に。
(……完璧すぎる)
縫季の心の奥で、冷たい針がちくりと刺さった。
帝辛の笑みは、確かに温かい。しかし、そこには寸分の狂いもない「整い」があった。
民を安心させるため。相手の心をほどくため。彼が王太子として、自分に課してきた「正解の笑み」が、無意識の所作にまで染み付いている。
(この人……無理をしていないか?)
帝辛の眼差しは穏やかだが、その奥底に、本人さえ気づいていないほど深い疲労が沈殿しているように見えた。
誰かのために笑い、誰かのために正しくあり続けようとする。その献身が、彼自身の魂を摩耗させているのではないか。
「よく見ている。内庫司に、良い者が入った」
それは最上級の褒め言葉だったが、縫季には「王による鑑定」のようにも聞こえた。
この若き王太子は、慈悲深い聖者であると同時に、人を用い、守り、必要ならば切り捨てる器を持った、真の統治者なのだ。
「恐れ入ります」
「帳は、嘘をつかぬ。だが、人は嘘をつく」
帝辛の声が続く。
「何か気づいたことがあれば、内庫司の上にだけでなく、私にも直接伝えよ」
釘を刺されたのか、あるいは誘いか。
縫季は「承知いたしました」とだけ答え、深く頭を下げて退出した。
重い扉が閉まり、廊下の風が頬を打つ。
縫季はそこで初めて、自分が呼吸を忘れていたことに気づいた。肺に溜まった熱を吐き出し、代わりに廊下の冷えた空気を吸い込む。
(任務は歪の修正。それだけだ)
自分に言い聞かせるが、帝辛の最後の笑みが、網膜に焼き付いて離れない。
誰かに安心を与えるために、完璧に調律された、痛々しいほどに美しい笑み。
(……俺は、本当に、この笑顔を『歪み』として折るために来たのか?)
答えは決まっているはずなのに、喉の奥が苦い。
縫季は内庫司へと戻る足を早めた。
帳簿を精査する。この違和感の正体を、確かめる。
そう決めたはずなのに。
胸の奥では、あの「完璧すぎる笑み」が、救いを求める叫びのように脈打ち続けていた。




