第一章 第2話:ほどける笑み
この「良き時代」を守ろうとしているのは、病床にある陛下だけではない。
「おい、殿下がお見えだぞ!」
列の端から、さざなみのように歓声が上がった。
視線を向ければ、護衛も連れず、軽やかな平服姿で歩いてくる帝辛の姿があった。
政務机に向かい「完璧な解決者」として振る舞っていた時の張り詰めた空気はない。今の彼は、どこか朝の陽光に溶け込むような、柔らかな雰囲気を纏っていた。
(……殿下?)
縫季が呟く間もなく、帝辛は民の列に歩み寄り、気さくに声をかけ始めた。
ある老人には収穫の具合を問い、ある婦人には子供の成長を祝う。その姿は、先ほどの老吏が語った「国王」の面影をなぞっているようにも見えた。
「王太子殿下も、陛下のお心をそのまま継いでおられる。本当に、この国は安泰だ」
周囲の役人たちが安堵の混じった笑みを交わす。
縫季は帳簿を抱えたまま、少し離れた場所から帝辛の様子を観察していた。
帝辛は列の先頭に立つ農夫に声をかける。
「……それで、配給が届かなかったと?」
最前列の農夫が、恐縮した様子で頷く。
「はい、殿下。先月の末から、我が村には種籾の配給が……」
「どの村だ」
帝辛の声は穏やかだが、鋭い。
「東の、柳渓村でございます」
「柳渓か」
帝辛は少し考え、傍らに控える書吏に目を向けた。
「帳を」
書吏がすぐに帳簿を差し出す。
その手が、ほんの一瞬だけ震えた。
(……?)
縫季は目を細めた。
だが帝辛はそれを気にする様子もなく、帳簿を受け取る。
帝辛はそれを受け取ると、指先で項目を追い始めた。
その動作は速い。だが雑ではない。帝辛の目は数字の羅列を一瞬で読み取り、問題の箇所を特定していく。
「……ここだな」
帝辛は帳簿の一行を指差した。
「柳渓への配給は、三日前に倉を出ている。だが、途中の渡し場で滞っている」
「渡し場……?」
農夫が目を丸くする。
「川が増水したのだろう。渡し守が渡航を止めている。無理はない」
帝辛は帳簿を閉じ、書吏に返した。
「配給は明日、別経路で届けさせる。川が落ち着くまで、北の街道を使え」
「はっ」
書吏が頭を下げる。
縫季は帝辛の手元を見ながら、その"香"を探った。
(……揺れてない)
普通、民の前に立てば香は跳ねる。緊張でも、苛立ちでも、虚勢でも。
だが帝辛の香は、落ち着いている。
整いすぎている。
帝辛は農夫に向き直り、静かに微笑んだ。
「心配するな。種は届く。植える時期には、間に合わせる」
農夫の顔が、ぱっと明るくなった。
「殿下……!ありがとうございます!」
「礼はいらん。そなたたちが安心して畑を耕せるよう整えるのが、私の仕事だ」
帝辛の笑顔は柔らかい。しかし、その目は真剣だった。
農夫は深く頭を下げ、列を離れていく。その背中は、先ほどよりも軽く見えた。
次の民が前に出る。職人だった。手には、木彫りの小さな人形を持っている。
「殿下、これを……」
「ああ、見せてくれ」
帝辛は人形を受け取り、手の中で丁寧に眺めた。子供が喜びそうな、愛らしい動物の形だ。
「よくできている。この細工、どこで学んだ?」
「は、はい……祖父から、受け継ぎました」
「そうか」
帝辛は人形を返し、微笑んだ。
「技を絶やすな。そなたの手は、子供たちの笑顔を作る」
職人の目が潤む。男は何度も頭を下げ、列を離れた。
帝辛は一人ひとりの訴えを聞き、解決していく。どんな小さな訴えも、軽んじなかった。
問題を解決するだけでなく、民に安堵も与える。
(……有能だな)
縫季は帝辛の様子をじっと観察していた。
判断は速く的確で、問題の本質を一瞬で見抜き、解決策を即座に示す。それでいて民を見下す気配は一切ない。むしろ民の目線に立ち、寄り添っている。
(完成度が高い……いや、高すぎるのか?)
だが、そのあまりに澄んだものを、縫季はただ喜べなかった。
そんなことを考えながら観察を続けていた、その時だった。
「う、うわぁぁぁん!」
配給の列の傍らで、一人の小さな少年が泣きじゃくっていた。母親が慌ててなだめるが、一度火がついた泣き声は止まらない。
帝辛はその声に気づくと、迷わず歩みを向けた。
「殿下、お手を煩わせるまでも――」
母親が恐縮して頭を下げようとするのを、帝辛は制した。
そして、流れるような所作で、その場に片膝をついた。
豪華な衣の裾が土に汚れるのも厭わず、彼は子供と同じ目線の高さまで腰を落とす。
「どうした? 転んだのか、それともお腹が空いたか?」
帝辛の声は、驚くほど優しかった。
泣きじゃくっていた少年が、涙に濡れた睫毛を震わせて顔を上げる。
帝辛は、まるで宝物を扱うような手つきで、懐から小さな木彫りの独楽を取り出した。
「これを見ろ。父上が、私がまだ小さかったころに作ってくれたものだ。……今でも、時々こうして回して見せると喜ばれる」
指先で独楽を回してみせると、少年はピタリと泣き止み、その動きを凝視した。
帝辛の顔に、飾りのない、純粋な笑みが浮かぶ。
縫季はそこで、ほんの一瞬だけ呼吸を忘れた。
――無防備すぎる。
その感情が、驚きより先に胸を刺した。
ここは配給の場だ。役人もいる。視線はいくらでも集まる。
王太子が、そんな顔を晒していい場所じゃない。
何に腹が立っているのか、縫季自身が分からない。
分からないまま、苛立ちだけが熱を持つ。
あの笑みは、守るためのものなのに。守られる側みたいに、脆い。
「……あげるよ。お前が泣き止んだお祝いだ」
独楽を少年の小さな掌に乗せ、帝辛はその柔らかな髪を一度だけ撫でて立ち上がった。
少年は、今度は満面の笑みを浮かべて、母親の袖を引いた。
その光景を、縫季は息を呑んで見つめていた。
(ああ、この人は……本当に、民を愛してるんだな)
単なる政治的な義務感ではない。
父から受け取った独楽を大切に持ち歩き、それを子供に分け与える。その心の連鎖こそが、帝辛の原動力なのだ。
――と、そこへ。
「殿下ー!」
明るい声が響いた。
縫季が視線を向けると、息を切らせた青年が駆け寄ってくる。
年は帝辛より少し下に見える。書吏の衣を纏い、袖口には乾きかけた泥が跳ね、踵も濡れている。走ってきた証拠が、あちこちに残っていた。
(……見覚えがある)
内庫司で会った、あの走り書吏だ。
「殿下、また勝手に抜け出して! 護衛もつけずに市場なんて、危ないじゃないですか」
青年は帝辛の前で立ち止まり、大げさに肩を竦めた。
帝辛は呆れたように笑う。
「清朗、護衛がいると、民が緊張する」
「それはそうですけど……せめて一声かけてくださいよ。探しましたよ」
「すまぬ。だが、そなたはすぐに見つけるだろう」
「当たり前です。殿下が民のところへ行くのは、いつものことですから」
清朗はそう言って、にっと笑った。
帝辛も笑う。
その笑顔は、先ほどの「民への微笑」ではない。
友を前にした、年相応の、無邪気な笑みだった。
「そなた、相変わらず口が悪いな」
「殿下には、俺くらい口が悪い奴が必要なんです。でないと、真面目すぎて倒れますから」
「……まったく、敵わないな」
帝辛は困ったように、だが柔らかく口元を緩める。
公の場では決して見せない、素の笑みだった。
縫季は、その瞬間を見逃さなかった。
――その笑顔が、視界を歪ませた。
縫季の脳裏に、別の光景が重なる。
――黒い香の海。
喉に絡む、甘くて苦い匂い。
玉座の影で、同じ目が震えていた。
笑おうとして、できずに、唇だけが歪む。
泣く声すら出せず、ただ"命令"を飲み込んでいた。
『……民を、犠牲にせよ』
涙が、一筋だけ頬を伝う。
その涙を、黒い影が嗤っている――
「……こんな風に、笑うのか」
縫季の喉が、小さく鳴った。
過去に見た帝辛は、涙を流していた。黒い影に操られ、民を苦しめる決定を強いられ、表情を失っていた。
だが今、目の前の帝辛は、明るい。
縫季は視線を外した。指先が、帳簿の端を強く押さえる。
――違う。これは任務だ。歪みを修正するために来た。
それだけのはずだった。
だが――
(……この人を、救えないのか)
その想いが、縫季の胸に芽を出し始めていた。
そんな縫季の動揺を知ってか知らずか、帝辛はふと、柱の影に立つ縫季の姿に気づいた。
視線が交差する。
縫季は息を呑んだ。
帝辛の眼差しに敵意はない。
だが、どこか測るような静けさがある。
まるで、こう問いかけているかのように。
《お前は、何者だ》
《何を見に来た》
帝辛は縫季に向かって軽く頷き、それから清朗の肩を軽く叩いた。
「行くぞ。まだ仕事がある」
「はいはい。じゃあ俺、先に戻って茶の準備しときますね」
清朗は手を振り、軽やかに駆けていった。
帝辛はもう一度だけ、縫季を見た。
そして、静かに言った。
「そこの官吏。後で少し、茶でも飲まないか?」
縫季の心拍が、跳ねた。
(……俺を、呼んでいるのか?)
周囲を見回すが、帝辛の視線は確かに縫季を捉えている。
「……承知いたしました」
帝辛は満足げに頷き、それから清朗に向き直った。
「清朗、茶の用意を頼む。客が一人増える」
「え、誰ですか?」
清朗が周囲を見回すと、帝辛は柱の影を顎で示した。
「あそこの新入りだ。……名は、後で聞く」
清朗が縫季を見て、ぱっと顔を明るくした。
「ああ、縫季さん! 分かりました、準備しときます!」
そう言って清朗は手を振り、軽やかに駆けていった。
帝辛はその背中を見送り、それからもう一度、縫季を見た。
視線が交差する。
帝辛の目は、何かを確かめるように、縫季を測っていた。
そして何も言わず、王太子府の奥へと歩いていった。
その背中は揺るぎない。だが、縫季を試すような余韻を残していた。
縫季はその背を見送り、小さく息を吐いた。
(……何を、確かめようとしている)
胸に残ったのは、敬意と、畏怖。
帝辛はただの若き王太子ではない。"人を見る力"を持っている。そしてその力は、縫季の想定を超えていた。
縫季は柱の影から離れ、配給の場を後にした。
任務は、まだ始まったばかりだ。歪みの正体を掴むまで、観察を続ける。
だが――
(あの眼差し……)
縫季の脳裏に、帝辛の姿が焼き付いていた。鋭く、だが優しい。民を想い、国を信じる、若き王太子。
(涙を流していた、あの帝辛の姿とはまるで違う)
縫季は視線を落とした。
今は感傷に浸っている場合ではない。任務を遂行する。それだけだ。
――胸に残った薄い違和感には、気づかないふりをした。




