第一章 第1話:馴染まぬ朝
縫季が王太子府に配属されて、三日目の朝だった。
香の海から人界へ落ちる感覚は、何度経験しても慣れない。
任務のたびに組み上げられる肉体は、毎回ほんの少しずつ癖が違う。
肺に空気を吸い込むと、喉の奥がまだ擦れる。
息を吸うたびに、肺が「新しい」ことを思い出させてくる。
足が地を踏む。靴底の感触は、まだどこか遠い。
指先で帳簿の端を触れば、紙の質感が薄い膜を一枚挟んだみたいにぼやける。
世界に馴染むには、もう少し時間がかかる。
いつものことだ――けれど、いつも、この違和感は消えきらない。
縫季は旅装を整え、倉の壁に映る自分の影を一瞬だけ見た。
三十前後に見える男。
几帳面で、清潔で、どこか余白がない。
灯台が組み上げる肉体は、いつもこうだ。
「大人」に見える代わりに、若さが削られている。
真面目そうな佇まいだが、目の下に薄い隈がある。
寝不足というより、何かを抱えて生きている――そんな疲れ方だ。
(……こういうのが、あいつの趣味なのか?)
――けれど、その疲れが妙に色を持つ。
目を伏せた時の影、指先の落ち着き、声の低さ。
余裕がないはずなのに、なぜか人は安心する。
(……まあ、悪くはない)
倉の管理役人たちは、こういう「真面目すぎる新人」を信用する。
余計な詮索もされない。
縫季は影から目を離し、周囲を見回した。
――殷の朝は早い。
王都の市場に活気が満ちるのと同時刻、縫季は「配給監査吏」としての巡回を始めた。
内庫司の末端官吏という立場は、この国の毛細血管を覗き見るには最適だった。
「――はい、次の者。米一升と塩一袋、確かに」
朝霧が漂う巨大な穀倉地帯。
石造りの堅牢な倉の前に、整然と並ぶ民たちの列があった。
縫季は手元の帳簿を突き合わせながら、運び出される物資の質と量を鋭い目で見極める。
(……まだ、指先の感覚が薄いな)
帳簿を繰る指が、わずかにぎこちない。
けれど、それも時間が解決する。いつものことだ。
「立派な倉ですね、ここは」
ふと、隣で作業を仕切る老吏に声をかけた。
老吏は誇らしげに白眉を揺らし、倉の壁を愛おしそうに撫でた。
「ああ、これは陛下が、即位されてすぐに整えられたものだ。
それまでは雨が降ればすぐに米が湿けちまっていたが、陛下が自ら設計に口を出されてな。
『民の腹を空かせるのは、王の不徳だ』と仰って、風通しのよいこの構造に作り替えられたんだよ」
「……王御自らが、ですか」
「そうさ。今でこそお体が優れず奥にお休みになられているが、陛下はいつでも民の声を直接聞こうとなさる方だ。
この配給の仕組みだって、陛下が礎を築かれた。
この方がおられるから、今の殷の安寧がある。我ら役人も民も、皆そう思っているよ」
老吏の言葉には、お仕着せの忠誠心ではない、確かな熱量があった。
縫季は改めて、巨大な倉を見上げる。
灯台の記録では、殷は「狂気と支配の帝国」へと堕ちる運命にある。
――黒い香。玉座の影で震える目。涙を一筋だけ流しながら、『民を、犠牲にせよ』と命じる帝辛の姿。
だが今ここにあるのは、一人の王が民を想い、数十年をかけて積み上げてきた誠実な政治の結晶だ。
(この国を、ちゃんと愛しているんだな……。王も、この民たちも)
胸の奥に、小さな疼きが走る。
縫季は帳簿を閉じ、倉の周りをもう一度だけ歩いた。
壁の継ぎ目は滑らかで、石に触れた指先に、夜露の冷たさが薄く残る。
倉の裏手には排水溝が走り、落ち葉が詰まらないよう木の枠が渡してある。
誰かが、毎朝そこを覗き、棒で掻き出しているのだろう。
王の言葉が礎になり、名も知らぬ誰かの手が、それを毎日支えている。
そこが、妙に胸に刺さった。
次の工房へ向かおうと足を踏み出した瞬間、視界がわずかに揺れた。
――足が、まだ自分のものじゃない。
縫季は柱に手をついた。さりげなく。
「おい、新入り」
背後から声がかかる。
振り返ると、倉の管理を手伝っていた中年の役人が、心配そうな顔で縫季を見ていた。
「顔色が悪いぞ。昨夜ちゃんと寝たのか?」
縫季は帳簿を抱え直し、何でもない顔を作った。
「……大丈夫です。ただの寝不足で」
「地方から来たばかりで慣れないんだろう。無理するなよ。倒れたら元も子もないからな」
役人は善意で肩を叩き、去っていった。
その瞬間、縫季の肩がわずかに強張った。
布地越しに伝わる掌の重み。
温かく、ざらついた感触。親しげな一撃は、ただ軽く叩かれただけだ。
なのに、肌の下で何かが一瞬だけざわついた。
――まだ、この体は自分のものじゃない。
(ったく、もっと扱いやすい体にしてくれよな……)
感覚が過敏で、ちょっとした接触が妙に鮮明に残る。
指先で紙を触るだけで質感がぼやけるように、人の手が触れると、熱が内側に染み込む。
縫季は小さく息を吐き、肩をさりげなくさすった。
帳簿の端を強く握り、指の感覚を仕事の感触で上書きする。
(……馴染むまで、もう少し)
役人の足音が遠ざかる。倉の影が、朝の光に薄く伸びる。
縫季は柱から手を離し、歩き出した。
ここでは、ただの「真面目すぎる新入り」だ。
穀倉を出ると、配給の袋を縫う工房がある。
麻の匂いと、湿った土の匂いが混ざり合い、針が布を割く音が一定の速さで続いていた。
「破れが出やすいところは、二重に縫え。配給は途中でこぼしたら終わりだ」
年若い職人が、隣の手元を覗き込みながら言う。
叱るというより、守るための言い方だった。
縫季は帳簿に印をつけ、糸の太さと針の摩耗を目で追う。
誰も誇らしげに語らない。
けれど、皆が当たり前みたいに“足りるように”手を動かしている。
市井へ回ると、配給を受け取ったばかりの母親が、子の掌に塩をひとつまみ落として舐めさせていた。
子は顔をしかめ、すぐ笑う。
その笑い声が、朝の空気に軽く混じる。
縫季は一瞬だけ立ち止まり、その光景を記録するように目に収めた。
塩の白さが、別の白さを呼び出す。
灯台の記録にあった、骨の輪郭が浮いた小さな頬。
泣いているのに声が出ない子供の顔。
あの記録では、子供たちはただ泣くだけじゃなかった。
笑おうとして、笑えなくて、喉を震わせていた。
今ここにいる子供は、まだ笑える。
まだ、塩の味を知って、顔をしかめて、すぐに笑える。
灯台の記録にある“殷”と、いま目の前の殷が、うまく重ならない。
重ならないからこそ、怖い。
そして、守りたいと思ってしまう。
――任務は歪みを正すことだ。
それ以上でも、それ以下でもないはずなのに。




