表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君の笑みへと紡ぐ  作者: Hp2


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/8

序章



挿絵(By みてみん)



香の海が、揺れていた。


無数の世界線の記憶が白い雲霞となって重なる、波音のない夜。

その純白の中に――黒い滲みが混じっていた。


「……まずいな」


灯台は目を細めた。

声は低く、淡々と。叱るでもなく、嘆くでもなく。

ただ不具合の箇所を特定する、技術者の響き。


本来、世界線の揺れは自然に均されるものだ。

だが今回の黒い滲みは、意志を持っているかのように混ざり方が早く、鋭い。


灯台は静かに足を揃え、両手を胸の前で重ねた。

深く、長く、一度だけ息を吐く。


次の瞬間、彼が両腕を左右に広げると――

周囲の空気が、一斉に灯った。


香が燃えるわけではない。

熱も、煙もない。


ただ、白い香気が光を孕み、掌の間へと収束していく。

薄い灯りが渦を巻き、胎動するように脈を打つ。


光の層が重なるたび、虚空に確かな輪郭が組み上げられていった。


肩の線。背の影。

そして最後に、瞳の奥へと小さな灯芯が点った。


光の粒子は人の形を成し、床へ足を下ろす。

そこに立っていたのは、一人の若い男だった。


生まれたての肺で深く息を吸い込むと、彼はすぐにその緩やかな口元を、任務に臨む者のそれへと引き締めた。



挿絵(By みてみん)



「呼んだ?……休憩の邪魔をするくらいだから、相当なんだろうけど」


軽口を叩く癖は、この「調整員」がかつて人であった頃からの名残だ。

だが灯台の、氷のように静かな眼差しを正面から受ければ、これ以上の冗談は続かなかった。


「殷だ。王太子の線が、ありえない角度で揺れている」


男の瞳が、わずかに揺れた。


「……帝辛か」


名を口にした瞬間、縫季の脳裏に別の光景が走った。


――黒い香の海。

 喉に絡む、甘くて苦い匂い。

 玉座の影で、同じ目が震えていた。


笑おうとして、できずに、唇だけが歪む。

泣く声すら出せず、ただ"命令"を飲み込んでいた。


『……民を、犠牲にせよ』


涙が、一筋だけ頬を伝う。

その涙を、黒い影が嗤っている――


「――っ」


縫季は首を振った。

遠くの海に見える黒い滲みが、毒々しく色を濃くした気がした。


「黒い鎖が、あの国に"早く"染まり始めている」

灯台は目を逸らさず、残酷なほどの事実を告げる。

「予定された崩壊ではない。何者かが無理やり時間を手繰り寄せ、歪みを生ませた」

調整員は、己の掌を握り、そして解いた。

灯りから生まれたばかりの指先が、妙に人間くさく、熱を持っている。


「俺にやれってことは……俺がよく知ってる、近い場所なんだな」


灯台は頷いた。

そして、この場所に配属された者たちが魂に刻み込むべき、唯一の戒律を授ける。


「名は隠せ。未来は渡すな。選択は奪うな。――だが、歪みだけは折ってこい」


調整員は、短く笑った。

「注文が多い。……まあ、いつものことか」


灯台は一歩だけ彼に近づくと、その手に一片の玉牌を差し出した。

それは無機質で冷たいはずの石なのに、調整員の手に落ちた瞬間、生きている人間の肌のように、切ないほどの温かさを帯びた。


「行け」

「了解。……行ってくる」


調整員は玉牌を強く握りしめ、迷いなく踵を返す。


次の瞬間、彼の輪郭は再び眩い灯りにほどけ、真っ白な香の海へと、吸い込まれるように落ちていった。


灯台はその光の余韻が完全に消えるまで見送ってから、誰もいない空間に、祈りにも似た一言を落とした。


「……間に合え」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ