序章
香の海が、揺れていた。
無数の世界線の記憶が白い雲霞となって重なる、波音のない夜。
その純白の中に――黒い滲みが混じっていた。
「……まずいな」
灯台は目を細めた。
声は低く、淡々と。叱るでもなく、嘆くでもなく。
ただ不具合の箇所を特定する、技術者の響き。
本来、世界線の揺れは自然に均されるものだ。
だが今回の黒い滲みは、意志を持っているかのように混ざり方が早く、鋭い。
灯台は静かに足を揃え、両手を胸の前で重ねた。
深く、長く、一度だけ息を吐く。
次の瞬間、彼が両腕を左右に広げると――
周囲の空気が、一斉に灯った。
香が燃えるわけではない。
熱も、煙もない。
ただ、白い香気が光を孕み、掌の間へと収束していく。
薄い灯りが渦を巻き、胎動するように脈を打つ。
光の層が重なるたび、虚空に確かな輪郭が組み上げられていった。
肩の線。背の影。
そして最後に、瞳の奥へと小さな灯芯が点った。
光の粒子は人の形を成し、床へ足を下ろす。
そこに立っていたのは、一人の若い男だった。
生まれたての肺で深く息を吸い込むと、彼はすぐにその緩やかな口元を、任務に臨む者のそれへと引き締めた。
「呼んだ?……休憩の邪魔をするくらいだから、相当なんだろうけど」
軽口を叩く癖は、この「調整員」がかつて人であった頃からの名残だ。
だが灯台の、氷のように静かな眼差しを正面から受ければ、これ以上の冗談は続かなかった。
「殷だ。王太子の線が、ありえない角度で揺れている」
男の瞳が、わずかに揺れた。
「……帝辛か」
名を口にした瞬間、縫季の脳裏に別の光景が走った。
――黒い香の海。
喉に絡む、甘くて苦い匂い。
玉座の影で、同じ目が震えていた。
笑おうとして、できずに、唇だけが歪む。
泣く声すら出せず、ただ"命令"を飲み込んでいた。
『……民を、犠牲にせよ』
涙が、一筋だけ頬を伝う。
その涙を、黒い影が嗤っている――
「――っ」
縫季は首を振った。
遠くの海に見える黒い滲みが、毒々しく色を濃くした気がした。
「黒い鎖が、あの国に"早く"染まり始めている」
灯台は目を逸らさず、残酷なほどの事実を告げる。
「予定された崩壊ではない。何者かが無理やり時間を手繰り寄せ、歪みを生ませた」
調整員は、己の掌を握り、そして解いた。
灯りから生まれたばかりの指先が、妙に人間くさく、熱を持っている。
「俺にやれってことは……俺がよく知ってる、近い場所なんだな」
灯台は頷いた。
そして、この場所に配属された者たちが魂に刻み込むべき、唯一の戒律を授ける。
「名は隠せ。未来は渡すな。選択は奪うな。――だが、歪みだけは折ってこい」
調整員は、短く笑った。
「注文が多い。……まあ、いつものことか」
灯台は一歩だけ彼に近づくと、その手に一片の玉牌を差し出した。
それは無機質で冷たいはずの石なのに、調整員の手に落ちた瞬間、生きている人間の肌のように、切ないほどの温かさを帯びた。
「行け」
「了解。……行ってくる」
調整員は玉牌を強く握りしめ、迷いなく踵を返す。
次の瞬間、彼の輪郭は再び眩い灯りにほどけ、真っ白な香の海へと、吸い込まれるように落ちていった。
灯台はその光の余韻が完全に消えるまで見送ってから、誰もいない空間に、祈りにも似た一言を落とした。
「……間に合え」




