75 アァ~ン♡トネーチャン
アオを屠った魔王は振り返れなかった。
ハゲチャウシカナイオンはヒューマンがなせる技ではない。
まさに魔王・ミスティゾーマだからこそ唱え得る呪文だ。
すなわち、身バレ。
通常のヒューマンに比べてズレたマインドを持つ結菜とマミりんとはいえ、相手を消滅させた魔王を、これまでどおりに受け入れるはずがない。
しかも、だ。
腹から溢れ出す血が止まらない。
魔王とはいえ、そろそろ限界だ。おそらくはこのまま……。
と――、血が、止まった。
「へ?」
何故に? 魔王は腹をさすろうと手をやる、その寸前、傷がみるみると塞がった。
「へ? へ?」
強い橙色の光に包まれていた。
魔王どころか、アオと戦った現場がまるっと原状回復されていく。
それほどの強力な回復呪文。
普通の僧侶が唱えられるレベルではない。
そう。魔王と同等か、超えるほどのレベル……って、まさか、
「間に合った?」
耳朶をさらりと撫でたのは、聞き心地の良いハスキーヴォイス。
パブロフの犬越えの反応の速さで、魔王は振り返る。
涙でぼやける視界に、美神、いや、処女魔王・ザキラスティアの立ち姿(女教師ver.)があった。
どうして……? 死んだはず……?
「仮死呪文・アァ~ン♡トネーチャンよ」
(!)
アァ~ン♡トネーチャン。
それは、限られた者だけが知りうる伝説の呪文。
自らに死を与え、身体の細胞の働きを一時的にシャットダウンする。
数分の後、今度は自らに生を吹き込む。
呼び覚まされた細胞が一気に発毛を促進し、爆発的なパワーを産みだす。
だが、その呪文を唱えられる者は途絶えたはず。
千年以上も確認された形跡のない魔秘呪文。
一説によると古の魔王や他レイヤーの魔王だけが唱えられた、とも。
魔王は改めて美神を視認する。
赤くルビー色に輝く美神の髪は、艶がハンパない。ヘアサロンでもここまではできないだろう。
美神がアンニュイに微笑んだ。結菜とマミりんの目を塞いでいた。
「あ、ああ、あのぉ……まだ、み、見ちゃダメですかぁ?」
ツンツンツンツン……。
「碧人が何をしていたか何も見てないわよね」
「は、ははは、はい」
ツンツン。
「じゃ、いいわ」
美神が二人の目を覆っていた掌をどけた。
結菜がにはっと表情を崩し、魔王に歩み寄った。
「あ、ああ、な、泣いちゃだめですよぉ」
優しい手つきで魔王の頭を撫でた。
マミりんは、
「ふへ?」
キョロキョロと辺りを見回した。ツンツンしていない。期待していたスプラッター現場がないため、がっかりしている様子だ。
「おっ、忘れてたわ」
美神が慌ててマミりんの胸を手で隠した。ピンクブラが見えるほどに破けていたブラウスが元に戻っていく。
「ス××野郎」
蔑んだ目で美神が魔王を睨んだ。
「ちょ、待っ、吾輩は別に――」
「ひは?」
マミりんが魔王の顔を指さした。
「ん?」
魔王、美神、結菜の三人が同時に反応する。
「……ほくろ、無くなってる」
「え、マジ?」と魔王。
「ほ、ほほホントです。ほ、ほら」と結菜がスマホをミラーにして魔王に向けた。
「うわ、……無いよ」
碧人と魔王を結びつける目もとのほくろが消えていた。美容整形で消そうとまで考えていたやつ。
「え、じゃあひょっとして」
魔王は側頭部に手をやる。
「……」
期待虚しく、そこには十円ハゲがあった。昨日よりも大きくなった気がする。
がっくりうな垂れる魔王。
「ぷっ」
さっきまでの修羅場が嘘のよう。
朗らかな笑い声が闇空に溶けた。
月の光を受けた十円ハゲは、誇らしげに、かつ、格好よく照り輝いていた。




