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49 そうだ、勇者(いい人)になろう

 欄干にもたれたまま、前の碧人像について考えを巡らす魔王。

 橋のたもとから小学生男児が二人、ランドセルを揺らしながら走ってきた。駆けっこをしているようだ。運動神経がよさそうな坊主頭が、メガネ男子を突き放す勢いで疾走している。


 メガネが魔王のすぐ近くで転んだ。

 坊主頭は振り返るも、メガネを助け起こさなかった。

「ヒャッハー、うおおおーうっ」

 奇声をあげ、弾丸のようにすっ飛んでいく。

 坊主頭には聞こえていない。メガネが漏らした「待って」とのかよわき声が。

 メガネは倒れ伏した姿勢で、目もとに指をやった。泣いている。


「掴まれ」

 魔王はメガネに手を差した。

 きょとんとしたメガネが魔王を見上げる。「いいの?」と問いているようだ。

 ゆっくりと魔王は頷き、メガネの警戒をやわらげるために微笑んだ。久しぶりに笑んだ気がした。無理矢理ではあるが。


 メガネが魔王の手をとった。

 繋がれた手が夕陽の光を浴び、眩く光る。メガネの手は少年らしく温かかった。

 坊主頭を追いかけるために駆けだしたメガネ。途中、不意に魔王を振り返った。

「お兄ちゃん、ありがとう」

 親からのしつけを思い出したのだろう。助けてもらったら感謝の言葉を返す、と。

 魔王は無理をして先ほどよりも笑顔を濃くする。会釈のつもりで腕を挙げ――


「お兄ちゃんカッコいい。勇者みたい」


(え!?)


 今度こそメガネは振り返らずに走っていった。

 挙げようとした腕を中途半端な高さで止めている魔王。

 メガネの言葉が頭の中で何度もリフレインしていた。

 ――カッコいい。勇者みたい。カッコいい。勇者みたい。カッコいい。勇者みたい。

 容貌がカッコよかったから、勇者みたいに思われたのだろうか。

 それとも、助け起こした行動がカッコよくて、勇者みたいに思われたのだろうか。

(……)


 川面を風が渡って来た。川沿いの樹々の息吹を纏い爽やかな風だった。

 伸び放題の長めの前髪がそよそよと風に揺れる。

 心地良かった。

 初めて感じる精神の穏やかさだった。


 ぽつりと魔王は漏らす。

「ひょっとしたら……勇者は正しかったのでは」

 口にした途端、勇者に惨殺された配下の顔が脳裏を過ぎった。その中には最後まで魔王に尽くした三傑の姿もある。ケロべロス、サイクロプス、タナトスドラゴン……。


 ふるふると頭を振る魔王。

 勇者が魔界にしたことを肯定しては、魔界のために、魔王のために死んでいった配下の魂が浮かばれない。

 しかし、

 ――お兄ちゃんカッコいい。勇者みたい。


 いつしか魔王は跪いて嗚咽していた。

 抱え込んだ業の深さ、重さに耐え切れずに上体が沈み、傾く。地面に両手を突き、四つん這いの姿勢で泣き崩れる魔王。


 とんでもないことをしてきた。

 多くの犠牲をはらってきた。

 今まで思い出しもしなかったことが、彩色を帯びてまじまじと甦ってくる。

 初陣で見事勝利をおさめた配下を、たまたま上機嫌だった魔王が労った。すると、その者は表情を引き締めながらも、ホッと息を吐いていた。

 酒が入り、赤ら顔で冗談をとばした配下がいた。普段聞けぬリラックスした笑い声もあった。

 魔界にも笑顔が、あったのだ……。

 それを握りつぶしたのは、いつだって――自分だった。魔王だった。

(吾輩、……だった)


 受診したメンタルクリニック医の言葉がぽっと過ぎる。

『いいんですよ。そのままのあなたでいいんですよ』

 自己否定ハンパない魔王を正面から受け止めてくれた医師は、こうも魔王に伝えた。

『今からでも遅くないですよ。何をするにしても今がスタートなんです。遅い・早いに意味はないんです。あなたがそう思うならば、やりなさい。そう思えたこと自体が宝物のようなものです』


 魔王は腹ばいの姿勢で顔を上げた。

 夕陽が眩しい。

「ああああああああああー……」

 魔王は生れ落ちた赤子のように懸命に泣き声をあげた。

 涙と一緒に憑き物が落ちていく気がした。もっと声量を上げて泣く。

(決めた。今からでも遅くない。いや、こう思えたことが宝物……)

 黄昏のオレンジ色に染め上がったこの世界に、魔王は誓った。


 そうだ、勇者(いい人)になろう、と。


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