28 予兆
◇ 幕間 美神 ◇
「ちょっといいかしら」
タクシーの後部座席・窓枠から空を見あげていた美神が、車を止めさせた。
告げられていた目的地までは、まだ距離があるため、シルバーフレームのメガネをかけた運転手はビクりと肩を震わせた。
いや、正直に言おう。タクシーの運ちゃんは、タイトスカートから伸びる美神の美脚をバックミラー越しにチラチラと見ていた。それを見咎められるのを心配して、肩をビクりとさせたのだ。
運ちゃんは先日、タクシー会社に再就職したばかりであった。昨今ニュース沙汰となっているハラスメント絡みで勤めていた会社を追われた運ちゃんが、ようやく就けた再就職である。顧客からセクハラで訴えられるのを怖れたのだ。
「ちょっとここで待ってて。そんなに時間はとらせないから」
運ちゃんはホッとした。どうやら、セクハラによる乗車拒否には発展しなさそうだ。
美神はタクシーを待たせたまま、車道脇の茂みの中へと入った。
(しょんべんかな?)
性懲りもない運ちゃんは、美神が茂みの中で腰をおろすシーンを空想し、悶々ともだえだす。
一方で美神は、茂みの中で一度腰を屈めてから周囲を窺がった。
人気はない。視界で認識できる者は明らかにいなかった。
見間違いならばよいのだが……実は極度の緊張に陥っていた美神はホッと息を吐く。強ばった身体が緩むや尿意を覚えた。再びキョロキョロと見まわすも、付近にトイレはなさそうだ。
ここでしちゃう?
悪魔の誘いのような閃きが走るも、さすがに乙女の恥じらいがあった。
今はヒューマン・美神であるが、かつては処女魔王ザキラスティアであった身である。そんなことができようはずがない。だが……堪えれば堪えるほどに尿意が嵩上がる。
背に腹は代えられぬ……スカートを緩め……チカッと何かが光った気がした。同時に、強烈な強い魔力属性を帯びたモノの気配を感じとり、背後をふり返る、その矢先、光源の場所のもう少し遠くの方から攻撃魔法が放たれた。
黒光りする波動が周囲の茂みを焼き尽くしながら美神を襲う。屈んだ美神は、受け身を取りづらい姿勢だ。ヒューマンの平和な世界に毒されていた己に失望しながらも、美神は咄嗟に防御シールド魔法を唱える。かつてのザキラスティアとしての魔力には及ばないが、それでもある程度のディフェンス能力を発揮してくれるだろう。案の定、波動は防御シールドにひっかかり美神に届く前で消滅した。
すぐに反転攻勢に出ようとスカートをたくし上げた。
しかし、無駄であった。
波動を放ったと思われるモノの気配が消えていた。つ、と美神のこめかみに汗がつたう。
背後をとられたのは、それこそ勇者アオに敗れた時しかなかった。つまりは、生を受けて、今回が二度目である。
二度目……まさかアオ、もしくはアオに匹敵するモノがこのヒューマンの世界に潜んでいるというのか。
ぷん、と茂みの葉っぱが焼かれた匂いが美神の鼻先を掠める。
気のせいか肉が焼かれた時特有の匂いが混じっていた。
波動が茂みに潜む動物を巻きこんだのかもしれない。自分がここに来なければ死なずに済んだ命を思い、美神は黙礼をした。
待たせていたタクシーに戻る。
はて、運転手はどこへ行ったのだ? そんなに時間をとらせないと言いながら、ちょっとだけ時間がかかったため、待ちきれずにどこかへ行ってしまったのだろうか。それにしてもタクシーを置いていくとは。
タクシーの後部座席で暫く待機した美神であったが、仕方なく、タクシーの運転席へと移動した。時計を確認する。ヘアサロンの予約時間が迫っていた。美神はアクセルペダルを踏みこむ。愛車のフェアレディよりも優しいエンジン音で、タクシーが走り出した。
波動に巻きこまれたのが、運ちゃんだったことも知らずに。
悶々とした運ちゃんは、覗きへの好奇心を抑えきれずに茂みの中へ身を投じた際、波動に巻きこまれその生涯を閉じたのだった。
きらりと光ったシルバーフレームのメガネは、運ちゃんの生命の最後の煌めきであったことを、美神はこの先も一生知ることはないだろう。




