2 転生
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瞼を開ける。
身体を起こそうにもダルくて力が入らない。喉に力を込めることもできず、声さえだせない。
魔王は神経を尖らせた。拳をぐっと握ろうにも、逆に力が抜けていく。
ただ、視界は幾分かクリアだ。見覚えのない天井。何かの上に寝かされている。
ぴっぴっぴと音が聞こえる。魔法の音とは違う。
腕や手足、胸、いたるところに管がついている。
着せられている衣服も、着なれた漆黒のローブではない。
髪は? ……生えている気がする。ちょっとだけ、すーすーするが。
「……」
頭中に過ぎるエクスカリバーの煌めき。
と――、
魔王がいる部屋に向け、駆けてくる複数の足音。かなり急いでいる。
すわ、敵襲か! しかし、身体は鉛を飲み込んだように重く、動かない。
うめき声をあげたのと、ドアが開けられたのは同時だった。
「碧人ぉおおおおおっ!」
「碧ちんッ!」
知らないヒューマン風情のオス二人とメスがなだれ込んで来た。
彼らが武器を手にしていないことを横目で確認した魔王。
ホッと一息吐き、『うるせぇな誰だこいつら』とも思う。ヒューマンが魔王に気安く話しかけるなど不敬罪も甚だしい。
「先生、碧人はっ! 碧人は!」
「お父さん、お母さんっ! わたくしは研修医を終えて医療に二年従事しておりますが現代医療の……いや、生命の奇跡をわたくしたちは目の当たりにっ――」
(たった二年でエバるな。吾輩は千年魔王をやっておるのだ)
寝かされたまま起き上がれない魔王を中心に、部屋内があっという間にお祭り騒ぎになった。
ヒューマンと思しき者が次々と魔王の顔を覗きこんでくる。おまえたちごときが気軽に吾輩に目を向けるな! と叱責したいものの声が出ない。目から殺傷ビームさえ出せない。
元来、静けさを好む魔王である。この賑やかさは精神を苛立たせ、煩わしかった。
仕方なく目を閉じた魔王は、いつの間にか再び眠りにつく。
害を加えられることはなさそうだとちょっぴり安心したせいか、次に魔王が目覚めるのはまるまる一日後。
そう。魔王は人間界に転生を果たした。
日本の高校生――大空碧人として。
【大空碧人】
魔王が転生した人間。男性。173センチ。62キロ。前髪長め。首都近県中核市在住。
父・太郎、県庁勤務。母・花子、老人ホーム勤務。1人っ子。
私立希望ヶ丘高校1年生。サッカー部在籍。
*
転生から1週間。魔王は、自身が置かれた状況を大かた把握した。
自動車事故に遭い一週間昏睡状態に陥っていた大空碧人の身に転生した。
大空碧人がどのようなヒューマンであるか。大空碧人を取り巻く環境。そしてなによりも――
ここが魔界ではない、ヒューマンの世界であるということ。
己が備えている力についてもあらかた認識した。
魔力がほぼ失われていることには、若干のショックを受けた。魔界に君臨していた際のパワーがごっそりとこそげ落ちていた。100→2ほどの落差である。
(吾輩は詰んだのだろうか)
ヒューマンに転生したことを悟った時点で覚悟を決めてはいた……、それでも暫く動揺を隠せなかった。
魔王は碧人自身が嫌いだ。特に鏡に映る自分の顔を見る度に吐き気がする。
運命のいたずらとはここまでやるのか。いるかどうかも分からぬ神を呪いたい。
つうか、あの『ここマジ、ちょーブラック』と魔王を適当に転生させた奴……、おまえこそがブラックそのものだ。
ただそれでも、魔王の運動能力や体力回復能力は、ヒューマン基準で測るとスバ抜けているようだ。
『助かることはないだろう』との医師の見立てをあっさりと破り、尋常ではないスピードで社会復帰を果たした魔王。
彼は今、共働きである両親の目をかいくぐってランニングをしていた。先週まで昏倒していたとは思えぬ軽やかさで。
初夏を迎えた6月の日本は、暑い。
まるっと30度を越えた気温は、熱中症警戒アラート(外での運動を控えるよう警告)を発出させている。
運動公園の名称に相応しい広々した公園内の1周5キロのコースで20周目を、尋常ではないスピードで魔王は走る。
走りながらも魔王は常に周囲へアンテナを張り巡らせている。五感が捉える知覚はどれもが魔王にとって新鮮だった。
何よりも、このヒューマンの世界は平和だ。それはもう鼻で嗅げば分かる。魔界とは匂いが違う。
新宿や池袋などの盛り場を除けば、死や血の臭気が魔界とはケタ違いなレベルで感知できない。
世界は芽吹いた草花の瑞々しい自然の匂いに溢れていた。(嗅ぎ慣れない排気ガスの匂いはあるが)
悪くないな。感想を抱いた直後、首を振った。その感情をうやむやにする。いや、自らに罪悪感を覚えた。
(吾輩は魔王だ。平穏な世界に魅力を感じるなんて……恥を知れ!)
己を叱責する。他者にとてつもなく厳しい(パワハラをゆうにぶっちぎるレベル)魔王だが、自分にも厳しいのが魔王である。
「ふう」
25周のロードワークを終えた魔王は、自動販売機へと向かう。
魔王は既に知っていた。
このヒューマンの世界には、お茶と呼ばれるものの他に、喉でシュワっと弾ける炭酸飲料なるもの。甘い、苦い、更には色も透明、白、黒、紫など様々な飲料水がある。
それらを、貨幣もしくは電子決済サービスで買うことができることをも、聡い魔王は学習済みだ。
何故か言語が理解できるため、新聞やネットの記事を速読し、世の事情をあっという間に把握した。
徳川15代将軍名などさらりと暗唱できる。
魔王の能力値の高さは、ヒューマン・大空碧人の隅々にまで波及し、初見のスマホやネットさえも問題なく使いこなしていた。
例えば、
「ペイペイでお願いする」
と、おかしのむらおかでQRコードを店員に見せることは、転生後1週間のキャリアながら得意中の得意だ。
魔王は自動販売機の前である商品をガン見する。
アクエリ○ス。
……どこか勇者っぽいネーミングの飲み物。しかし、周囲で運動を終えたヒューマンはそれを美味そうに飲んでいる。
ごくり。唾を飲み込んだ。
〝飲みたい〟
しかし、魔王がそれを飲んで許されるのだろうか。
お茶やコーラ、サイダー類はもう経験済みである。魔界にはなかった味。衝撃だった。
魔王は、今、新たなる未知の一歩を踏み出そうとしている。
(勇者の聖杯に満たされていそうな名称の飲み物。それを、魔界の覇者・魔王が果たして口にしてよいのか……)
奥歯をぎりぎりと噛み締める魔王。
「あー、うめっ」
ウォーキングを終えた初老の男が、そばでぐびぐびと喉を鳴らしてアクエリ○スを飲んでいた。
魔王の腕がすっと持ち上がる。
これまで幾度となくこの指で相手の息の根を止めてきた。眼前を火の海にする魔法が放たれてきた。敵対する相手を恐怖のどん底に陥れてきた邪悪なる、指先。
その指先が、ボタンを押す。
ゴトり。
魔王がヒューマンに屈した瞬間だった。




