第5話:風邪引きと甘いお見舞い
晩秋の冷たい雨に打たれたせいなのか、それとも連日のキィによる精神的ストレスと、凛に対する妙なドキドキ感による心労が祟ったのか。
日陰 蓮は、翌朝、本格的に体調を崩してしまった。喉はイガイガし、体は鉛のように重く、熱は昨日よりも確実に上がっている。これはいよいよ本格的な風邪だ。
「……最悪の週末だ」
蓮は、薄暗い自室のベッドの中で呻いた。幸い(?)今日は土曜日で学校は休みだが、一人暮らしの身には、週末の風邪ほど辛いものはない。冷蔵庫には昨日買った牛乳と、いつのか分からないヨーグルトしかない。薬箱には、気休め程度の風邪薬が数錠。外は晴れているようだが、カーテンを開ける気力すら湧かない。ただただ、重力に身を任せ、布団の中で息を潜めるしかなかった。
(このまま誰にも看取られず、孤独に朽ち果てていくのか、俺は…)
弱気な思考が、熱に浮かされた頭をぐるぐると巡る。
その頃、特準室では。
土曜日にも関わらず(主に凛の熱意により)活動していた凛とキィは、蓮が連絡もなく現れないことを不審に思っていた。
「日陰君、遅いわね。まさか、またサボりかしら?」
凛が、少し眉を顰めて呟く。
「レン、どうしたのかな? 昨日、雨に濡れてたから、風邪ひいちゃったとか?」
キィが、心配そうに言う。
「まさか。あの男が、そんな軟弱なわけ…」
凛が言いかけた時、彼女のスマートフォンが鳴った。表示された名前は『日陰 蓮』。珍しいこともあるものだ、と思いながら通話ボタンを押すと、電話口から聞こえてきたのは、普段の彼の声からは想像もつかない、弱々しく掠れた声だった。
『…白峰か…? 悪いが、今日、休む…』
「日陰君!? あなた、その声…! 大丈夫なの!?」
凛は、思わず立ち上がっていた。電話の向こうで、蓮が苦しそうに咳き込む音が聞こえる。
『…ああ、ただの風邪だ…問題ない…ゲホッゴホッ…』
「問題ないわけないでしょう! 声が全然出ていないじゃない! まさか、熱があるんじゃ…?」
『…少しな…まあ、寝てれば治る…』
「一人暮らしなのでしょう? 食事はどうするの? 薬は?」
凛の質問に、蓮はしばらく黙り込んだ後、力なく答えた。
『…まあ、なんとかなる…』
その言葉は、明らかに強がりだった。
「…分かりました。とにかく、安静にしていてください。…私たちで、何かできることがあれば…」
凛が言いかけると、電話は一方的に切られた。
「レン、やっぱり風邪なんだ! 大変だよ!」
通話内容を聞いていたキィが、騒ぎ立てる。
凛は、切れたスマホを見つめながら、眉間に皺を寄せていた。あの様子では、「なんとかなる」はずがない。放っておけば、悪化する可能性だってある。
(…仕方がありませんね)
凛は、再び決意を固めた。
「室長として、部下の緊急事態に対応するのも当然の責務です。キィさん、今から日陰君のお見舞いに行きますよ!」
「うん! キィも行く! レンに、元気が出るスペシャルパワーと、とびっきり美味しいものを届けてあげるんだ!」
キィは、目を輝かせて飛び跳ねた。
再び、凛とキィによる、日陰蓮お見舞いミッションが発動された。
凛は、前回の反省(?)を踏まえ、スーパーで消化に良さそうな食材(卵、ネギ、うどんなど)と、体を温めるための生姜や蜂蜜、そして各種ビタミン剤などを手際よく購入。今度こそ、まともな看病食を作るつもりらしい。
一方、キィは「病気の時は、心が元気になるものが一番だよ!」という独自の理論に基づき、またしても高級パティスリーへ直行。今度は、クリスマス限定の美しいデコレーションケーキ(ホール!)や、色とりどりのマカロンタワー、さらには有名ショコラティエのボンボンショコラ詰め合わせなど、前回以上に豪華絢爛なスイーツを(もちろん凛の財布で)買い揃えていた。
蓮のアパートに到着し、呼び鈴を鳴らすと、前回よりもさらに弱々しい声で「…はい」と返事があり、ドアが開けられた。
そこには、ベッドから這い出してきたのだろう、壁に手をつき、ぐったりと項垂れる蓮の姿があった。顔色は悪く、額には汗が滲んでいる。明らかに、昨日の電話の時よりも悪化しているようだった。
「レン! 大丈夫!? しっかりして!」
キィが駆け寄る。
「日陰君…! これは、ただの風邪ではなさそうね…すぐに病院へ…」
凛が言いかけた時、蓮は力なく首を振った。
「…いや、大丈夫だ…ただの寝不足と…栄養不足だ…」
どうやら、昨夜から何も口にしていないらしい。
凛は、有無を言わさず蓮をベッドへ押し戻すと、買ってきた荷物を手早く広げ、キッチンへと向かった。今度こそ、まともな食事を作らねばならない。レシピを何度も確認し、慎重に調理を開始する。目指すは、消化が良く、栄養満点の「特製生姜入り卵うどん」だ。
一方、キィはベッドサイドで蓮の看病(?)を始めた。
「レン、大丈夫だよ! キィがついてるからね! えーい、元気になーれ!」
石ころを取り出し、蓮に向かって謎のパワーを送ろうとする。「やめろ! 余計なことするな!」と蓮が弱々しく抵抗する。
さらに、キィは買ってきたスイーツの箱を次々と開け始めた。
「見て見てレン! クリスマス限定のケーキだよ! キラキラしてる! こっちのチョコもすっごく美味しそう!」
甘い香りが部屋中に広がる。病気で食欲がないはずの蓮だったが、その香りと、目の前に並べられた宝石のようなスイーツの数々に、思わずゴクリと喉を鳴らした。
「こ、これは…『ピエール・エルメ』の新作マカロン…! それに、『ジャン=ポール・エヴァン』のボンボンショコラ…! なんでお前がこんなものを…!」
熱に浮かされた瞳が、爛々と輝き始める。
「キィさん! 病人にそんなものを!」
キッチンから凛の咎める声が飛んでくる。
「だって、レン、すごく嬉しそうな顔してるよ?」
キィは、不思議そうに首を傾げる。
「いや、体が糖分を…いや、カカオポリフェノールを欲しているんだ! これは、免疫力を高めるための、いわば薬だ!」
蓮は、もはや言い訳にもなっていない持論を展開し、フラフラしながらもチョコレートに手を伸ばした。その必死な(そして幸せそうな)姿を見て、凛はキッチンで額に手を当てた。
(…本当に、この人は…)
やがて、凛の作った(今回は奇跡的にまともな)特製うどんが出来上がった。生姜が効いていて、体が温まる優しい味だ。蓮は「…まあ、悪くない」と呟きながら、ゆっくりと、しかし確実に完食した。
食事と薬、そして(おそらく大量の)糖分のおかげか、蓮の顔色も少し良くなってきたようだ。
安心して眠りについた蓮の寝顔を見届け、凛とキィは部屋を後にした。
凛は、蓮の意外な食欲(甘いもの限定)と、自分が作ったうどんを完食してくれたことに、少しだけ満足感を覚えていた。そして、弱っている彼を看病する中で感じた、庇護欲のような、母性のような、あるいはそれ以上の何か特別な感情に、戸惑いながらも、その温かさを否定できずにいた。