第4話:作戦2:冷たい雨と相合傘と…スマホの中の君
特準室での密室事件から数日。日陰 蓮と白峰 凛の間には、以前にも増して奇妙な空気が流れていた。互いの秘密――蓮の甘党と凛の犬好き&方向音痴――を知ってしまったことで、意識しないようにしても、どうしても相手のことが気になってしまう。廊下ですれ違えば視線を交わし、授業中にふと相手の横顔を見てしまったり。それは決して恋愛感情と呼べるほど明確なものではないのかもしれない。だが、確実に、何かが変わり始めていた。
そんな二人を、キィは特準室の隅っこで満足げに観察していた。
(ふふふ…レンとリン、前よりずーっとお互いのこと見てる! キィの密室作戦、大成功だったんだ!)
彼女の勘違いは、もはや揺るぎない確信へと変わっていた。そして、自信を深めた小さなキューピッドは、さらなる『ラブラブ大作戦』第二弾へと駒を進めることにした。
(次は、もっとロマンチックなやつよね! そうだ、少女漫画で読んだ『雨の日の相合傘』! しっとりした雨の中で、一つの傘に入って、肩が触れ合ってドキドキ…これしかない!)
キィは、目をキラキラさせながら、再び石ころ――確率偏向キューブを取り出した。今度は加減を間違えないように、と慎重に(?)念を送る。「綺麗な雨、降れー! でも、寒すぎないやつで、ちょっとだけロマンチックな感じの、ちょうどいいくらいの雨ね!」
その結果。
その日の下校時刻、天気予報は「乾燥した晴天が続くでしょう」と言っていたはずなのに、校門を出た途端、サーッと綺麗な霧雨が降り始めたのだ。まるで、舞台演出のように。冷たいけれど、凍えるほどではない、冬の始まりを告げるような雨だった。
「うわ、雨だ」「えー、傘持ってきてないよ」
周りの生徒たちが軽く騒ぐ中、蓮は「(…またかよ。ご丁寧にどうも)」と内心で毒づきながら、カバンから折り畳み傘を取り出した。そして、隣を歩く凛を見る。彼女は、空を見上げ、小さくため息をついていた。やはり、傘は持っていないらしい。
蓮は、一瞬だけ迷った。ここで傘を差し出すのは、あまりにもベタすぎる。それに、こいつは別に濡れても平気そうな顔をしている。…だが、あの密室での出来事や、風邪見舞いの一件を思い出すと、どうしても放っておけない自分がいた。それに、風邪を引かれてまた面倒なことになるのは御免だ。
「…チッ。ほら、入れ。風邪ひかれたら迷惑だ」
結局、蓮はぶっきらぼうな口調で、傘を凛の方へ差し出した。ツンデレ、という言葉が脳裏をよぎったが、即座に否定する。これはあくまで合理的な判断だ、と。
「え…?」
凛は、少し驚いたように蓮を見上げた。そして、すぐに状況を理解し、顔を微かに赤らめる。
「…ありがとう。助かるわ」
素直にお礼を言うと、凛は蓮の隣に寄り添うように傘の中に入った。ふわりと、彼女の清潔なシャンプーの香りが鼻をくすぐる。
小さな折り畳み傘の下、二人の肩が、今度は意識的に触れ合う距離にあった。
サー…という優しい雨音が、周囲の生徒たちの声や車の音を遠ざけ、まるで二人だけの世界を作り出しているかのようだ。湿ったアスファルトの匂い、冷たいけれど清浄な冬の空気。いつも歩いているはずの帰り道が、今日はなんだか違う景色に見える。
蓮は、無意識のうちに、凛が濡れないように傘を彼女の方へ大きく傾けていた。自分の左肩がしっとりと雨に濡れていく。それに気づいた凛が、「あ、あなたの方が濡れているわ」と心配そうに言う。「別に構わん」と蓮はそっけなく答えるが、その不器用な優しさに、凛の心臓はまたトクン、と小さく跳ねた。
(どうして…)凛は思った。(彼のこういう、ぶっきらぼうな優しさに、こんなにも心が揺さぶられるのかしら…非論理的だわ)
蓮もまた、隣にいる凛の存在を強く意識せずにはいられなかった。雨粒がキラキラと光る長いまつ毛、白い息、傘を持つ手に触れそうな、華奢な指先…。普段なら絶対に気に留めないはずの細部が、やけにスローモーションのように目に映る。
(近い…意識するな、俺。これはただの雨宿りだ。傘が小さいだけだ…!)
雨は、幸い(キィの絶妙なコントロールのおかげか?)強まることなく、ロマンチック(?)な霧雨のまま降り続いていた。バス停に着いても、バスが来るまでにはまだ少し時間がある。二人は、屋根のある待合所のベンチに並んで腰掛け、静かに雨が降り続く景色を眺めていた。
手持ち無沙汰な時間が流れる。沈黙が、少しだけ気まずい。
そんな時、凛がふとスマホを取り出した。そして、何かを思い出したように、少し照れた様子で、しかし嬉しそうに、蓮に画面を見せた。
「…これ、見てくれる?」
画面に映し出されていたのは、凛が溺愛する実家のゴールデンレトリバー、マックスの、冬バージョンの写真や動画だった。雪の中を元気に駆け回る姿、暖炉の前で気持ちよさそうに寝ている姿、凛が編んだ(少し歪んだ)クリスマスカラーのマフラーを巻いて、ちょっと迷惑そうにしている(でも可愛い)姿…。
「…なんだこれ。相変わらずだな、お前も」
蓮は、呆れたように言いながらも、つい画面を食い入るように見てしまう。確かに、その犬はもふもふしていて可愛い。
「ふふ、可愛いでしょ?」
凛は、スマホの画面を愛おしそうに見つめながら、自然と笑みがこぼれていた。
「マックスはね、冬になると毛がもっともふもふになって、抱きしめるとすごく温かいのよ。雪が大好きで、庭に雪が積もると、一日中こうして駆け回っているの。見て、この雪に顔を突っ込んでる姿なんて、最高に…」
普段のクールな才女ぶりはどこへやら、完全に『犬好きモード』に入った凛は、堰を切ったようにマックスの魅力を語り始めた。その声は弾み、表情は柔らかく、本当に幸せそうだ。
蓮は、そんな凛の姿から目が離せなかった。冷たい雨が降るバス停で、彼女の楽しそうな声と、スマホの画面の向こうの温かそうな犬の姿を見ていると、なんだか自分の心まで温かくなってくるような気がした。彼女の「好き」なものについて語る時の、こんなにも無防備で、愛らしい表情を、また自分だけが見ている。その事実に、蓮の心は、前回とはまた違う、穏やかで、くすぐったいような高揚感を覚えていた。
(…こいつ、犬の話をしてる時だけは、素直なんだな…)
やがて雨が上がり、西の空がうっすらと茜色に染まり始めた。バスが到着し、二人は乗り込む。
帰り道、二人の間に交わされる言葉は少なかった。だが、気まずさはもう微塵も感じられなかった。むしろ、共有した穏やかな時間と、互いの素顔に触れたことで生まれた温かい感情が、二人の間の空気を、以前とは比べ物にならないほど自然で、心地よいものに変えていた。
蓮は、バスの窓に映る自分の顔が、少しだけ緩んでいることに気づき、慌てて咳払いをした。凛の、あの楽しそうな笑顔が、まだ脳裏に焼き付いて離れなかった。
キィの勘違い作戦第二弾は、またしても二人の物理的な距離と心理的な距離を縮めることに成功した。たとえ、それが計算された偶然だったとしても、二人の心に芽生えた温かい感情は、本物だったのだから。