第1話:すべての始まりは盛大な勘違い
やれやれ、と日陰 蓮は内心で本日何度目かのため息をついた。窓の外では、色づいた葉がカサカサと音を立てて舞い落ち、空は高く澄んで、どこか物寂しい晩秋の色を映している。そろそろコートが必要な季節だ。まったく、季節が巡るのは早い。そして、面倒事の種が尽きないのも、この世の常らしい。
ここ、私立蒼葉学園の片隅、忘れられたように存在する『特殊状況対応準備室(仮)』――通称・特準室の空気は、今日も今日とて、どこかピリピリとして、それでいて間の抜けた奇妙なバランスで成り立っていた。ソファに深くもたれた蓮は、読みかけの文庫本(もちろん中身は頭に入っていない)のページを意味もなくめくる。先日の、あの時空を巻き込んだ大騒動――たしか、あれは秋の文化祭の頃だったか――を思えば、今のこの静けさ(?)は奇跡に近いのかもしれない。
あの騒動の中心人物、自称『次元迷子』のキィは、今は部屋の隅で、なぜか床に落ちた枯れ葉を相手に一人でじゃんけんをしている。確率だか空間だかをいじるという妙ちきりんな石ころ(本人はキューブと呼ぶ)を腰のポーチに忍ばせた、歩くトラブル発生装置。彼女を追ってきた『調律師』なる黒服の男との一件以来、さすがに少しは大人しくなった…ように見えなくもないが、油断は禁物だ。蓮の信条である『省エネ・平穏第一』は、彼女の存在によって常に脅かされているのだから。
「日陰君」
その、蓮にとっての貴重な精神的休息時間は、凛とした、しかし有無を言わせぬ響きを持つ声によって、本日も無慈悲に打ち破られた。
声の主は、白峰 凛。この特準室の室長であり、成績優秀、スポーツ万能、おまけにこの学園の理事長の姪御さんという、絵に描いたような才色兼備。長い黒髪をきっちりと一つに束ね、ブレザーのボタンを一番上まで留めた姿は、近寄りがたいほどの完璧さを醸し出している。――ただし、その完璧さには「融通が利かない」「妙にズレている」「時々暴走する」という、ありがたくない注釈がつくのだが。そして、蓮をこの面倒の吹き溜まりに引きずり込んだ張本人でもある。
「聞いてるの? 特準室の暖房の設定温度、勝手に下げたでしょう? 風邪を引いたらどうするつもりなの!」
凛は、壁に取り付けられた旧式のエアコンのリモコンを手に、柳眉を逆立てている。まるで、国家予算の無駄遣いでも発見したかのような剣幕だ。
「別にまだそこまで寒くないだろ。それに、無駄なエネルギーを使うのは俺の主義に反する」
蓮は、文庫本から視線を上げずに、面倒くさそうに答えた。まったく、この人は細かいことによく気がつく。
「体調管理も危機管理のうちよ! あなたのような不摂生な人間が、いつ体調を崩して業務に支障をきたすか…! 特準室の室長として、看過できません!」
「はいはい、俺が悪うございました。じゃあ、適切な温度設定とやらをお願いしますよ、室長様」
蓮は、わざとらしく皮肉を込めて言った。どうせ彼女のことだ、摂氏何度が最も人間の集中力を高めるか、などと科学的根拠(?)に基づいた設定をするのだろう。
「当たり前です! そもそも、あなたのその常に受動的で、建設的な意見を出そうとしない態度が…!」
「俺は現状維持を望むだけだ。変化はエネルギーを消費する」
「それを人は、進歩の放棄と呼ぶのよ!」
「進歩結構。安定こそ至高」
売り言葉に買い言葉。まるで、冬の訪れを告げる木枯らしのように、決まって吹き荒れる言葉の応酬。本気で相手を論破しようとしているわけではない。たぶん。むしろ、この一連のやり取り自体が、互いの生存確認のような、奇妙なコミュニケーションとして成立してしまっているのかもしれない。だが、その『コミュニケーション』を、特準室の第三の住人が、とんでもない方向に解釈しているとは、この時の二人には知る由もなかった。
「わー!」
突然、床の枯れ葉とのじゃんけんに飽きたらしいキィが、キラキラした目で手を叩いた。その瞳は、まるで最高のエンターテイメントでも観劇したかのように、輝いている。
「すごい! すごいよ、レン! リン!」
「…今度は何に感動してるんだ?」
蓮は、眉間に皺を寄せながらキィを見る。彼女の感動の沸点は、常人には理解しがたい場所にある。
「今の! すっごく熱くて、すっごく正直な、『アイ』のぶつけ合いだったね!」
「「…………は?」」
本日何度目かの、完璧なハモリ。蓮と凛は、顔を見合わせた。アイ? まさか、LOVEの愛ではあるまいな。いや、キィならあり得るかもしれない、というところが恐ろしい。
「キィの故郷ではね、こーやって、自分の本当の気持ち――好きとか、嫌いとか、嬉しいとか、怒ってるとか――を、隠さないで相手にバーン!って全力でぶつけるのが、一番ステキなことなんだよ!」
キィは、興奮冷めやらぬ様子で、小さな体をいっぱいに使って力説する。その理論によれば、激しい口論は最高の愛情表現であり、魂の交歓なのだそうだ。迷惑極まりない文化である。
「だからね、レンとリンがいつもこーやって、お互いに言いたいこと言い合ってるの、キィ、ちゃーんと最初からわかってたんだ!」
キィは、うんうんと深く頷きながら、確信に満ちた、そしてとてつもなく間違った結論を口にした。
「本当は、すっごくすっごく、お互いのこと、だーい好きなんでしょ!」
しーん、と。
特準室の空気が、一瞬にして凍りついた。窓の外で舞う枯れ葉の音だけが、やけに大きく聞こえる。
否定しなければ。全力で。光の速さで。誤解を解かなければならない。
だが、なぜか、言葉が喉に詰まる。顔が、耳が、カッと熱くなるのを感じる。これは暖房のせいではない。断じて。
「なっ…! ば、馬鹿なこと言ってんじゃない!」
「き、キィさん! あなた、何を根拠にそのような非論理的な推測を…!」
やっとのことで絞り出した否定の言葉は、しかし、自分でも驚くほど上ずっていて、説得力の欠片もなかった。
キィは、そんな二人の動揺などどこ吹く風、一人で感動(?)の余韻に浸っている。
「ボクもね、ネェネと、もっとこーやって、アイをぶつけ合いたかったなぁ…」
一瞬だけ、その表情に、遠い故郷と姉を想う切なさがよぎる。だが、それはすぐに、新たな決意の輝きへと変わった。
「よし!」
キィは、小さな拳を胸の前でぎゅっと握りしめた。その瞳には、聖なる使命に目覚めたかのような、キラキラとした炎が燃えている。
「キィが決めた! 二人のキューピッドになってあげる! レンとリンの『アイ』が、これから来る寒い冬にも負けないくらい、もっともっと熱く燃え上がるように、キィの石ころパワーで、このキィが! 全力で! 応援しちゃうんだから!」
その宣言は、蓮と凛にとって、真冬の到来を告げる北風よりも恐ろしい響きを持っていた。
((まずい…! こいつ、本気で何かやらかす気だ…!))
二人の心の声が、再び不吉なハーモニーを奏でる。
「お、おい、キィ!」
蓮は、慌ててキィを制止しようとする。
「早まるな! いいか、俺たちにはそんなものは微塵もない! 断じて、絶対に、天地がひっくり返っても、ない!」
「そうです! 私と日陰君の間にあるのは、純粋かつプラトニックな業務上のパートナーシップ! それ以外の何物でもありません!」
凛も、必死でキィの暴走列車を止めようとする。
だが、一度火が付いたキィの『応援魂』は、そう簡単には鎮火しそうにない。
「えへへー、ナイショ!」
キィは、人差し指を唇に当てて、悪戯っぽく笑う。その純粋すぎる笑顔が、今はただただ恐ろしい。
「大丈夫だって! これは、レンとリンの『ため』なんだもん! キィに任せておけば、二人はきっと、もーっとハッピーになれるよ!」
『二人のため』。その言葉が、重くのしかかる。そして、キィの言う『ハッピー』が、十中八九、自分たちの望まない方向へ向かうであろうことも、二人は痛いほど理解していた。
(だが…)蓮は、一縷の望みにすがるように考えた。(最近は、あの石ころの力も安定しないようだし…まさか、学園を巻き込むような大騒動には…)
(ええ…)凛も、不安を打ち消すように頷く。(キィさんも、少しは反省しているはずです。きっと、ほんのささやかなお節介程度でしょう…)
二人とも、見事にフラグを立てていた。キィの善意(という名の勘違い)が秘めた、予測不能なエネルギーと、それが引き起こすであろう、面倒で、甘酸っぱくて、そしておそらくは抱腹絶倒(他人事なら)の珍騒動の規模を、完全に見誤っていたのだ。
キィは、そんな二人の甘い見通しを(たぶん気づかずに)、ニコニコと満足げに見つめていた。その小さな頭の中では、壮大で、奇想天外で、そして関係者全員にとって迷惑この上ないであろう『ラブラブ大作戦』の具体的なプランが、次々と練り上げられている。
(ふふふ、レンとリン、楽しみにしててね! キィのスペシャルパワーと、とっておきのアイデアで、二人を最高のカップルにしてあげるんだから!)
日陰 蓮が切望する平穏な日常と、白峰 凛が重んじる論理的な秩序は、今、小さなキューピッド(ただし時空干渉能力と盛大な勘違い付き)の手によって、前途多難なラブコメディの舞台へと、否応なく引きずり込まれようとしていた。
特殊状況対応準備室(仮)に、新たな、そしてこれまでとは全く質の異なる、甘くて、寒くて、そしてとてつもなく厄介な季節風が吹き荒れるまで、あと―――ほんの少し。