【コミカライズ進行中】婚約者に捨てられたハズレ令嬢が、氷の王子様の最愛になった理由
ハイト伯爵家のハズレ姫。
社交界で広がるなんとも残念なこの呼び名は、ハイト伯爵家の次女、エルシオーネ・ハイト伯爵令嬢のことだ。
いったいエルシオーネの何が『ハズレ』なのか。
それは彼女に与えられた『女神の祝福』が理由だ。
聖エブオロニア王国では、誰もが十三歳になると特別な能力――祝福が女神から与えられる。
翌日の天気を予測できたり、植物を育てるのが得意になったり、精霊を召喚できたり、ドラゴンと意思の疎通ができるようになったり。
日常生活をちょっと便利にする些細なものから、国の重大な要になるものまで。
女神ベタニオルラの祝福の種類は多岐に渡る。
エルシオーネの兄は、炎を剣の形で扱えるようになる祝福だった。
兄はその力で、将来有望な騎士として王家に仕えている。
エルシオーネの姉は、治癒魔法を使えるようになる祝福だった。
姉はその力で、病や怪我に苦しむ人を助けている。
では、そんな兄と姉を持つエルシオーネの祝福は?
今から五年前。十三歳になったエルシオーネは期待に胸を膨らませ、神殿で神託を待った。
そんな彼女に、女神の言葉を伝える聖女が気の毒そうに告げる。
『エルシオーネ、あなたに与えられた祝福は「顔の周りの空気がメッチャ爽やかになる祝福」です』
顔の周りの空気がメッチャ爽やかになる祝福。
それが、エルシオーネがハズレ姫と呼ばれる理由だ。
*
「――チッ。見つかっちまったか。まぁ、いい。エルシオーネ、これで理解しただろ? 俺はお前と結婚する気はない。俺たちの婚約は今ここで解消だ」
そう言って、エルシオーネの婚約者だったはずのマーヴィン・グラニスは榛色の前髪をかき上げながら、隣にいる女の肩を抱いた。
マーヴィンの緑の瞳は忌々しげに細められ、エルシオーネのことを睨んでいる。
そして彼に肩を抱かれている黒髪の女の、黒い瞳はエルシオーネへの嘲笑で歪んでいた。
体にピッタリとしたデザインの赤いドレスからは豊満な胸が今にもこぼれ落ちそうで、いかにもマーヴィンの好みだと思った。
エルシオーネとマーヴィンが婚約したのは十二歳のとき。
同等の伯爵家で同い年ということもあり、条件が釣り合うと親同士が決めた婚約だった。
典型的な政略結婚。
それでも、最初からマーヴィンの態度が悪かったわけじゃない。
婚約が決まってから一年間は彼も伯爵令息らしく、節度ある婚約者としてエルシオーネに接していたと思う。
彼の態度が急変したのは、十三歳のとき……例の祝福の神託がきっかけだ。
『――はっ?! なんだ、そのくだらない祝福は! ハイト伯爵家の人間は代々優秀な祝福を授けられていると聞いていたのに、とんだハズレじゃないか! 俺は伯爵家の息子として相応しい、素晴らしい祝福を授けられたのに、その妻になる女がこんな落ちこぼれだなんて!』
マーヴィンの言うとおり、彼に授けられたのは『肉体の一部を一時的に強化できる』という、騎士団で有用な祝福だった。
(あの日以来、マーヴィンは私をあからさまに馬鹿にした態度で接するようになったのよね……)
幸い、エルシオーネの家族は祝福を理由に彼女を責めることはなかった。
けれどエルシオーネが『ハズレ』だったことで、社交界ではずいぶん肩身の狭い思いをしたらしい。
ヒソヒソと噂話をする仕草、嘲るような笑い声、憐憫と優越感の混ざった視線。
それらはエルシオーネ自身にも降りかかり、本来お転婆だったはずのハイト家の末娘は、すっかり消極的になってしまった。
できるだけ、お茶会や舞踏会にも参加しないよう、屋敷にこもって暮らしてきた。
(でも、今日は女王陛下主催の舞踏会だったから、さすがに欠席するわけにはいかなかった)
怖気づきそうになる自分を叱咤し、どうにか参加したというのに、まさか婚約者の浮気現場に遭遇してしまうなんて。
『大丈夫よエルシオーネ、自信を持って。ほら、あなたのホワイトブロンドはなんてふわふわで可愛いのかしら。姉の言葉を信じなさい?』
『そうだぞエル。お前は俺の自慢の妹だ。お前の瞳と同じ色の紫水晶のネックレスがよく似合ってる』
そう言って勇気づけてくれた兄と姉に申し訳ない。
しょせん家同士の婚約だったから、エルシオーネにマーヴィンへの恋心などはなかった。
むしろ彼と会わなければならないときには、胃がキリキリと痛み憂鬱な気持ちになるくらいだった。
マーヴィンもエルシオーネへの侮蔑を隠さなかった。
(けれど貴族同士の婚約は簡単には白紙にできない。それをわかっているから、舞踏会に浮気相手と参加するなんて強硬手段に出たのね。しかも、王族主催の場でこんな非常識なまねをするなんて)
まさかマーヴィンがこれほどまでに軽率で、人への思いやりがない男だったとは。
浮気現場に遭遇してしまったことよりも、そんな人間がいることのほうがショックだ。
(舞踏会に出かけたはずの娘が婚約を解消されて帰ってきたら、お父様もお母様も悲しむだろうな)
けれど、エルシオーネに見られてもマーヴィンと黒髪の女はベタベタと絡み合っている。
彼らが別れることはないだろう。
「――わかったわマーヴィン。いいえ、グラニス伯爵令息。貴方との婚約解消を受け入れます」
背筋を伸ばして顔を上げ、マーヴィンの瞳を見据えながら毅然と告げる。
エルシオーネの言葉にマーヴィンが鼻白んだ表情になった。祝福を受けて以来、エルシオーネがマーヴィンに言い返すことなどほとんどなかったから、予想外だったのだろう。
「お幸せに……とはさすがに言えないけど、ごきげんよう」
伯爵令嬢らしい優雅な礼でマーヴィンに別れの挨拶を告げる。
微笑んだのは、たとえハズレ姫だとしても伯爵令嬢としての矜持だ。
他人からは尊重されなくても、せめて家族に誇れる自分でいたい。
背後でマーヴィンが何か言っているのが聞こえたが、エルシオーネは振り返らずにその場を去った。
こんなときでも、エルシオーネの顔をとりまく空気は高原のように爽やかだ。
*
「――もしかして私、迷子になってる?」
マーヴィンたちの視界から逃れることだけを考えて歩いたせいで、エルシオーネは広い王宮の中で自分がどこにいるかわからなくなってしまった。
「たぶん、ここは中庭……よね?」
星空の下で咲き誇った薔薇の香りが、甘く鼻孔に届く。
顔の周りの空気がメッチャ爽やかになる祝福は悪臭などは防ぐが、花や料理などのいい香りはちゃんと感じるようになっている。
「みんなには『ハズレ』って言われるけど、便利なところもあるのよね」
エルシオーネは祝福を受けてからの五年間、風邪や花粉に悩まされたことがない。
特にエルシオーネ付きのメイドのキャサリンは酷い花粉症で、花粉の時期にはエルシオーネのことを羨ましいとずっと言っていた。
「……そうよ。たとえマーヴィンにあんなふうに言われたって、私にはお姉様やお兄様、キャサリンっていう味方がいるわ」
マーヴィンの前では強気に振る舞っていたものの、家族に婚約解消のことを報告しなければいけないと思うと、ズンッと気持ちが重くなる。
どうやって婚約解消のことを両親に切り出そうかと、上の空になっていたせいだろうか。
エルシオーネは薔薇園の地面に転がる何かに足を取られた。
「きゃぁっ?!」
「わぁ?!」
転んだときにくるはずの痛みと衝撃に備えて目をつぶるが、体は一向に痛くならない。
それどころか、温かい何かにしっかりと支えられているようだ。
(しかも、私以外の声が聞こえたような……?)
そろそろと瞼を開けると、視界に飛び込んできたのは水宝玉だった。
見ているだけで吸い込まれそうな、透き通った水色の宝石。
それはハイト家にあるどの宝石よりも美しかった。
「――って違う、誰かの目よね?!」
アクアマリンに見間違えるほど美しい瞳は、長い銀のまつ毛に縁取られている。
髪の毛も、まつ毛と同じ蒼い夜の月光みたいな銀色だ。
間近で見てもニキビや毛穴が見当たらない白い肌。鼻筋は通っていて、薄い唇は不機嫌そうに引き結ばれている。
エルシオーネは、この天使のような美貌の持ち主の名前を知っていた。
いや、聖エブオロニア王国に暮らす者なら、彼の名前を知らない人間のほうが少ないだろう。
「アトレウス殿下?!」
アトレウス・エブオロニア。
この国の第三王子である彼は現在二十歳。
美しい美貌と長身痩躯の持ち主で、国民からの人気が非常に高い王子だ。
しかも彼が優れているのは外見だけでなく、頭脳明晰で剣技の腕も優秀だという。
(授かった祝福も『全て』が素晴らしいものだと聞いたことがあるわ)
女神の祝福は基本的には一人ひとつだが、王族だけは特別で、一人で何種類も与えられることが多いらしい。
王家の中でも、アトレウスはひときわ女神に愛された王子で、彼の祝福のどれもが『最高位の精霊を全属性同時に召喚できる』などの優秀で珍しいものばかりだという。
(王族の方の祝福は機密事項だから公表されているもの以外は知らないけれど、アトレウス殿下のおかげで聖エブオロニア王国はもっと豊かになるでしょうね)
『ハズレ』のエルシオーネとは正反対の国の宝。
事実、彼は高嶺の花ならぬ、王家の至宝として貴族令嬢たちの憧れの的だ。
けれど、今夜のような舞踏会でもアトレウスは誰とも踊らず、王族しか立ち入れない玉座の近くからほぼ出てこないか、いつの間にかダンスホールから姿を消してしまうのだという。
(公爵家や侯爵家のご令嬢でも、アトレウス殿下には近づけないとお姉様が前に言っていたわね。おかげでその髪と瞳の色彩も相まって、氷の王子と呼んでいる女性もいるとか……)
そこまで考え、自分が今そのアトレウスの上に乗っていることを思い出したエルシオーネは、慌てて飛び退き臣下の礼をとった。
「アトレウス殿下の上に転んでしまうなんて、申し訳ございません……!」
顔を伏せ、アトレウスからの沙汰を待つ。
王族をクッション代わりにしてしまうなんて、大失態だ。
(どうか私のせいで、ハイト伯爵家が王家の怒りを買うことがありませんように……っ)
しかし、そんなエルシオーネの行動を見てアトレウスは瞳を見開いた。
「――――君は、間近で俺の顔を見ても平気なのか……?!」
「…………えっ?!」
何故、彼はそんなことを聞くのだろう。
アトレウスの問いを不思議に思っていると、彼は鬼気迫る表情で更にエルシオーネに問いかけた。
「だから、君は、俺の顔を至近距離で見ても激しい動悸息切れ目眩を感じたりしないのか?!」
「え、えっと? はい、確かにアトレウス様はとても美しく整ったお顔をしてらっしゃると思いますが、特に私の体調などに変化はございません」
「で、では、ご令嬢にこんなことを聞くのは大変失礼だと承知しているが、興奮のあまりに鼻息荒く俺に飛びかかって押し倒してギュウギュウに抱きしめて『私の全てを奪ってくれるまで離さないわ!』と叫びたくなったりは?!」
いくらアトレウスに憧れる女性が多いとしても、そんな理性のない振る舞いをする人間がいるとは思えない。
もしかして彼は獣かなにかの話をしているのだろうか?
アトレウスの真意が理解できないエルシオーネは戸惑いつつも答える。
「王族の方を相手にそんな不遜なことできませんし、するつもりもありませんわ。殿下は私のことを受け止めたときにお怪我などなさっていませんか? 本当に申し訳ありませんでした」
その言葉を聞いた瞬間。
アトレウスはエルシオーネの両手を、自分の大きな両手で包み力強く握った。
「君、名前は?! 君は俺の運命の女性だ……っ! お願いだ、俺のそばにいてくれ!」
*
まさかハズレ姫の自分が、王国の至宝アトレウス王子に求められるなんて。
(人生って、何があるかわからないわね……)
舞踏会の日から三日。
エルシオーネはアトレウスの婚約者として王宮で暮らしていた。
あの日、エルシオーネが婚約を解消された直後だと知ったアトレウスは、それは好都合とばかりにエルシオーネに婚約を申し込んだ。
婚約解消直後に、別の男性……しかも王子と婚約。
さすがに急展開すぎると一度は辞退したエルシオーネだったが、アトレウスの熱意はエルシオーネの躊躇を上回った。
『だが、君が元婚約者に婚約解消を告げられたことだけを報告するより、婚約者が俺に変わったことを報告したほうがご両親も喜ぶだろう?!』
それはそう。それは確かに。
勢いに押されたエルシオーネは思わず頷く。
王族の婚約者になるという重大さに思いを馳せる暇もなかった。
『では決まりだな!』
氷の王子と形容されるほど近づきがたいはずのアトレウスは、満面の笑みで改めてエルシオーネの両手を握る。
(か、可愛い……!)
出会ったばかりの年上の男性、それも王子に可愛いと感じるなんて失礼かと思ったが、状況も忘れてエルシオーネの胸が高鳴る。
それからのアトレウスの行動は正に評判通りに有能で、てきぱきと両家への報告や手続きを進め、翌日には王宮にエルシオーネの部屋を用意してしまった。
『ドレスも家具も全て俺が用意するから、君は大切な物以外はそのまま引っ越してきてくれれば大丈夫だよ』
なにぶん急な話だったので、アトレウスの言葉に甘え、エルシオーネは数冊の本とお気に入りのドレスだけを持ち、メイドのキャサリンと共に王宮へ住まいを移した。
白と金を基調にした優美なデザインの調度品の並ぶ部屋は、ハイト伯爵家のエルシオーネの部屋の倍以上広い。
毛足の長い絨毯はふかふかで、天蓋付きの大きなベッドはエルシオーネが三人は寝られそうだ。
キラキラと輝くシャンデリアは、最高級のクリスタルで作られているらしい。
最高級なのは調度品に限った話ではない。
エルシオーネ専用の衣装部屋として用意された部屋には、最高品質の生地やレースで作られたドレスが何着もかかっていた。
エルシオーネも貴族の娘だが、ここまで最高級品ばかりに囲まれるのは初めてだ。
(しかも国王陛下も女王陛下も、私がアトレウス様と婚約したことをとても喜んでくださった)
アトレウスはもちろん、誰もエルシオーネのことを『ハズレ』などと噂しない。
それどころか、国王夫妻からはアトレウスを救ってくれたと感謝された。
王宮での暮らしは全てが夢のようだった。
しかし、エルシオーネには王宮に来てから悩んでいることがあった。
アトレウスの距離が近すぎるのだ。
「……アトレウス様、申し訳ないのですが、もう少し距離を開けていただいてもよいでしょうか……?」
王子と婚約者に設けられた午後のティータイム。
柔らかな陽射しが気持ちのいい薔薇園のガゼボに、エルシオーネとアトレウスは座っていた。
通常だったらこういう場合は、節度を持ちテーブルの向かい合わせに座るものだろう。
しかし、アトレウスは真横に座り、にこにこと微笑みながらエルシオーネを見つめている。
完璧な美貌を持つアトレウスの、至近距離からの熱い視線。
異性に免疫のないエルシオーネは動揺し、ティーカップを持つ手が震えてしまう。
「んー? ごめんエルシオーネ。君のことを可愛いなぁってことばかり考えていたから聞こえてなかった。もう一度その鈴を転がすような声で俺におねだりしてくれる?」
「おねだりと言うか、距離をもう少し開けてほしいと、切実にお願いしているのです……!」
「そんなつれないことを言わないで可愛い人。強引に君を王宮に連れてきてしまったから、そのぶん君のことをたくさんたくさん甘やかして大切にするって決めてるんだ」
甘く囁きながら髪の一房にキスをされて、エルシオーネの唇から「ぴぇっ」という悲鳴が漏れる。
アトレウスが氷の王子という噂は、いったいなんだったのか。
「エルシオーネ、俺は本当に嬉しいんだ。こんなふうに俺が迫っても、君は理性を失わない。こんなの、女神の祝福を受けて以来なんだよ」
アトレウスがこうまでエルシオーネに執着する理由。
それは彼が女神から与えられた祝福が原因だった。
確かにアトレウスは、エルシオーネの知る『最高位の精霊を全属性同時に召喚できる祝福』という絶大な力も与えられていた。
けれど同時に『家族以外の結婚適齢期の女性が、アトレウスに近寄るとメロメロになる祝福』も授かったのだという。
『――家族以外の結婚適齢期の女性が、殿下にメロメロになる祝福……ですか』
『あぁ』
『確かに殿下は貴族令嬢……いいえ、国民の女性たちの憧れの的ですものね』
祝福の説明を受けたエルシオーネが納得したように言うと、アトレウスは悲痛な声を上げた。
『そんな生ぬるいものじゃないんだ……っ!』
『えぇと……?』
『大きな声を出してしまってすまない。当時のことを思い出してつい。ぅっ、寒気が』
記憶を辿るアトレウスの表情は青ざめ、体も小刻みに震えている。
祝福のせいでそんなにも酷い目にあったのだろうか。
『俺にメロメロになるというのは、家族以外の結婚適齢期の女性が俺のそばによると、激しい動機息切れ目眩を感じ、最終的には鼻息荒く俺に飛びかかって押し倒してギュウギュウに抱きついて「私の全てを奪ってくれるまで離さないわ!」と叫ぶ状態になることを言うんだ……』
『それは……』
『しかも酷いときなど、その状態になった女性の集団に追いかけ回されたこともあるんだ……! とても恐ろしかった……!』
それは確かに、トラウマになっても仕方ないかもしれない。
『おかげで公務に支障は出るし、舞踏会も頻繁に欠席するわけにはいかないから参加するものの、参加している間は気が気じゃなくて……』
アトレウスが女性と踊らず、ダンスホールから姿を消す理由がまさか祝福のせいだったなんて。
『だから、あの女王主催の舞踏会の日も、頃合いを見て抜け出したんだ』
『それは、大変でしたね……』
『けど俺はあの日、君に出会えた。俺に触れても理性を失わなかったエルシオーネの存在に、俺がどれほど救われたかわかる? 君は俺にとっての奇跡で癒やしだ』
アトレウスのように美しい男性に熱烈に囁かれ、ときめかない女性はいるだろうか?
メロメロになる祝福が効かないエルシオーネですら、鼓動が激しく高鳴り落ち着くまで時間を要した。
――そんなわけで、エルシオーネが王宮に来てからはアトレウスがずっとベッタリなのだ。
今もこうして至近距離で見つめられ、髪の一房を愛しむように撫でられいる。
「ど、どうして殿下の祝福が私に作用しないかは不明ですが、私の存在が殿下の癒やしになれるのなら光栄です。でも、だからって、やっぱりこの距離は近すぎると思います……!」
エルシオーネは不敬にもアトレウスを押し退けようとするが、彼は蕩けるように瞳を細める
「ふふ、子猫がじゃれているみたいで可愛い。だって考えてもみてよエルシオーネ。俺は十三歳で祝福を受けてから七年間、家族以外の適齢期の女性に近づかないよう気を張っていたんだよ? そんな俺に君という奇跡が起きたんだ。しかもその奇跡の存在が、こんなに可愛い女性だなんて、ちょっと浮かれたっていいじゃないか」
エルシオーネの髪にチュッと音を立ててキスをしたアトレウスが、今度はテーブルの上で指を絡めてくる。
「更に君とは驚くほど話が合って、君は貴族としての所作も優雅で美しく、人柄もいいから城の人間たちからも評判がいい」
「褒めすぎですアトレウス様……!」
「なんで? 全部本当のことだよ。……エルシオーネは俺といるの、つまらない?」
「まさか! 私も、アトレウス様とお話するのはとても楽しいです……っ」
そう。意外なことにエルシオーネとアトレウスは会話に困ることがなかった。
アトレウスは博識で、色んな本や芸術作品の知識に富んでいた。
エルシオーネが王宮に持ってきた本を彼も読んでいて、感想や考察を語り合っているうちに、自然と打ち解けることができたのだ。
そして何より、二人には『女神の祝福が原因で苦労している』という共通点があった。
おかげで話は弾みに弾み、気がつけばあっという間に時間が過ぎていた。
(家族やキャサリン以外の人と話していて、心の底から笑ったのは五年ぶりかもしれない)
「俺の運命の女性が、エルシオーネで本当に良かった」
熱く告げるアトレウスの瞳は優しく、その言葉が彼の本心なのだとわかる。
思わず、エルシオーネの視界がじわりと滲んだ。
「エルシオーネ?」
「すみません……! 『ハズレ』の私が、まさかこんなに幸せな気持ちになれるなんて、なんだか夢みたいだなと思ったら、涙が出てきて……」
エルシオーネの言葉を聞いたアトレウスが真剣な表情になり、絡み合った指に力を込める。
「当たりや外れという基準で君のことを見たことはないが、敢えて言うなら君は俺にとって『大当たり』だ。これからは誰にも君のことを『ハズレ』なんて呼ばせない。俺が君を守るよ」
*
エルシオーネが王宮で暮らし始めてから数週間。
この時期ばかりは『自分の祝福を他の人にもわけてあげたい』とエルシオーネが思う季節が、例年よりも早くやってきた。
「――ぶぇっっくしょんっ……!!!」
キャサリンがハンカチで鼻を押さえながら盛大なクシャミをする。
「ぅ……エッくしょんッ!!! 今年の花粉は強すぎる……! 鼻が詰まって本気でなんの匂いもしないし、目が痒すぎて発狂しそう! お嬢様に見苦しい姿をお見せしてしまって、申し訳ないです」
「いいのよ。辛いのはキャサリンなんだから気にしないで。こういうとき、お姉様の祝福だったらあなたを楽にしてあげられたのに」
「またそんなことを言って! 私はお嬢様のお人柄に惚れ込んでお仕えしてるんです!」
エルシオーネよりも四歳年上のキャサリンは、普段は焦げ茶色のくりくりとした瞳が可愛らしい女性なのだが、今は花粉のせいで腫れてしまって見る影もない。
栗色の髪の毛も、なんだかいつもより艶がないように見える。
「でも花粉の時期が来たということは猫たちも恋の季節ですからね。またお嬢様の好きな可愛い子猫が見られると思いますよ」
キャサリンは『猫同士の相性と、発情期がいつかわかる祝福』を与えられている。
自分が体調不良で辛いときでも、キャサリンはこんなふうにエルシオーネを喜ばそうとしてくれるのだ。
「はっ。そろそろアトレウス殿下がこちらにいらっしゃる時間ですよね。私は他の部屋に控えておりますね」
「ありがとうキャサリン」
二十二歳のキャサリンは結婚適齢期で、アトレウスのメロメロになる祝福の範囲にバッチリ当てはまる。
エルシオーネが平常心だったことで、彼の祝福の効果がなくなった可能性も期待されたが、キャサリンは王宮に来た初日にアトレウスと接近してしまい危うく我を忘れそうになった。
そのため、アトレウスがエルシオーネに会いにくるときには他の部屋で控えるきまりになっていた。
しかし部屋から出て行こうとしたキャサリンが扉を開けると、そこにはタイミング悪くアトレウスの姿があった。
「殿下っ?!」
「――っ!」
部屋中に緊張が走り、アトレウスとキャサリンの動きが止まる。
「しっかりしてキャサリン……!」
アトレウスもキャサリンもどちらも守らなければ。
慌てて駆け寄ったエルシオーネだったが、そこには予想外のキャサリンの姿があった。
「殿下にぶつかってしまうなんて申し訳ございません申し訳ございません!」
平伏の勢いで謝るキャサリンの様子はいつもどおりだ。理性を失っているようには見えない。
「いや、俺がエルシオーネに会いたいあまりに予定より早く来てしまったんだ。気にしないでくれ。……君、体調に変化はないのか?」
「あっ、そう言えばそうですね?! 花粉症でボロボロですが、初日のような状態にはなっておりませんね?! ……ッぶぇっっくしょん!!! すみません、私は姿を消しますので、あとはお若いお二人でごゆっくり……!」
キャサリンがズビズビと鼻を鳴らしながら部屋を出て行くと、アトレウスが呆然と呟く。
「いったい、どういうことだ……? 初日にはあのメイドの彼女にも、俺の祝福は確かに効いていたよな……?」
「はい。あのときのキャサリンは通常の様子ではありませんでした」
「では何故、今日は平気だったんだ……?」
最初からアトレウスの祝福が効かなかったエルシオーネ。
以前は効いたのに、今日は効かなくなっていたキャサリン。
二人の共通点はなんなのだろう。
しばらく考えていたエルシオーネの脳内に、ある可能性が閃く。
「もしかして、殿下の祝福の正体はフェロモンに近いものなのではないでしょうか……?!」
「フェロモン、だって?」
「はい。以前キャサリンから『猫は発情期にフェロモンという嗅覚に作用する物質を分泌する』と教えてもらったことがあります。フェロモンには異性を強烈に惹き付ける作用があるのだそうです」
「確かに、言っては失礼だが、俺を襲った女性たちは発情状態だったと考えれば納得いくな……?」
「女神の祝福なので完全にフェロモンと同じではないかもしれませんが、その仮定でいくと、重要なのは嗅覚なのではないでしょうか?」
エルシオーネがそこまで言うと、アトレウスもハッとした表情になり、頷く。
「私は『顔の周りの空気がメッチャ爽やかになる祝福』のおかげで、キャサリンは花粉症で鼻が詰まっていたおかげでアトレウス様の祝福が効かなかった。つまり、強力な浄化魔法をかけたマスクなどを作れば、他の女性も理性を失うのを防げることができるのではと考えます」
「確かに一理あるな。しかしまさか、そんな単純な方法で……?」
「けれど王子であるアトレウス様に、嗅覚を完全に失うほど鼻の詰まった適齢期の女性が近づく機会はほぼなかったのではないでしょうか? 試してみる価値はあると思います」
王宮では、王族に病を感染さぬよう、少しでも体調に異変がある者は登城を控える決まりがある。
更にアトレウスは、女神の祝福を受けてから家族以外の結婚適齢期の女性との接触を極力断っていた。
(キャサリンみたいな花粉症はお城に来ても大丈夫だけど、アトレウス様に憧れる女性なら鼻水ダラダラの姿を見られたくないものね)
エルシオーネの言葉にアトレウスが頷く。
「そうだな。試せることはなんでもやってみよう」
*
結果から言うと、エルシオーネの推理は大当たりだった。
強力な浄化魔法をかけた防御マスクに効果があったのだ。
実験に協力したキャサリンもその他の適齢期の女性も、マスクを着けていればアトレウスの近くに寄っても理性を失うことはなかった。
浄化魔法を施したマスクは手間も費用もかかるから多くを用意できるわけではないが、それでもアトレウスを長年の悩みから解放するには充分だった。
「ありがとうエルシオーネ。君は何重にも俺を救ってくれた……っ」
瞳を潤ませ、感極まった声で感謝しながら、アトレウスがギュッとエルシオーネを抱きしめる。
全身から彼が喜んでいることが伝わってきて、エルシオーネの胸も熱くなった。
(でも、これでアトレウス様は、私以外の女性とも接する機会が増えるのよね……)
せっかくアトレウスが喜んでいるのに。
いけないと思いつつも、彼が他の女性といる場面を想像すると気持ちが重くなる。
マーヴィンのときにはなかった感情だ。
そんなエルシオーネに気がついたアトレウスが、いたずらっ子のように瞳を細め、耳元で囁く。
「――エルシオーネ。君に、キスしてもいい?」
「へっ?!」
「いい? ……それとも、嫌?」
「嫌なはずないです……!」
思わず小さく叫んでしまってから、エルシオーネは自分の頬が熱くなっていくのを感じた。
(私ったらなんて大胆なことを……!)
そんな彼女を愛しくて仕方ないと微笑みながら、アトレウスが長身を屈めた。
「たとえ何十人何百人、何千人の女性と接したって、俺が愛してるのは君だ」
温かく乾いた唇が優しく重なる。
エルシオーネとアトレウスの初めてのキスだ。
「――それに、マスクをしていたらこうして唇を触れ合わせることだってできないしね? 俺がキスする女性は、エルシオーネだけだよ」
*
マーヴィンは焦っていた。
舞踏会でエルシオーネに婚約解消を突きつけてから二ヶ月。
あのときはこんなことになるなんて、思ってなかった。
王家の至宝。氷の王子。
そう呼ばれるアトレウス王子が寵愛する婚約者が、自分が捨てたエルシオーネだというのだ。
「まさかあのエルシオーネに王子が夢中になるなんて!」
アトレウスは執務以外のときは常にエルシオーネのそばにいて、甘い微笑みを向けていると社交界中の噂だ。
以前はエルシオーネを『ハズレ』と嘲笑していた貴族たち……特に令嬢は手のひらを返し『エルシオーネが羨ましい』と囀っている。
態度を一転させたのは社交界の連中だけではない。
両親はことの重大さに恐慌状態に陥り『エルシオーネの許しを得るまで帰ってくるな』とマーヴィンを屋敷から追い出した。
ならばと浮気相手の家に転がり込もうとすれば、平民の女は家もマーヴィンも捨てて姿を消したあとだった。
(もう、こうなったらエルシオーネにどうにか許しを請うしかない……っ)
縋れるものを失ったマーヴィンは、恥も外聞もなく王宮へ訪れていた。
だから、応接間へ通されたときはホッとしたのだ。
きっとこれで自分は勘当されずに済む。
(もしかしたらエルシオーネのやつ、まだ俺に対する好意があるのかもしれないな)
しかし、そんなマーヴィンの思い違いは、応接間に入ってきた人物によって打ち砕かれた。
「――どのツラを下げてやってきたのかと思えば、歪んだ性根が顔に滲み出てるような男だな」
アトレウス・エブオロニアは、部屋の温度が下がったのかと思うほどの冷たい空気をまとい、絶対零度の視線でマーヴィンを見下ろした。
「まさか、エルシオーネに会ってもらえると思った? 残念、君が王宮に訪れたことは彼女に伝わってすらいないよ。ゴミの処理は俺一人がいれば充分だからね。俺の大事な愛しい人の視界には、綺麗なものしか映したくないんだ」
「違うんです殿下、俺には事情があって……!」
「誰が発言を許可した? 黙りなよ」
アトレウスの言葉に合わせて、衛兵たちがマーヴィンへ剣を向ける。
「あと、君は騎士団志望だそうだけど、剣技の腕は入団基準に達していないね。自分には祝福があるからと、鍛錬を怠っているんだろう」
図星を突かれ、マーヴィンの頬がカッと赤くなる。
まさか、アトレウスがそんなことまで言ってくると思わなかったのだ。
「けれど残念だな。君の持つ祝福は騎士団の人間なら珍しくないし、強化の持続時間も一瞬しかない君では話にならない。優秀な騎士なら数時間は強化したまま戦える」
プライドを傷つけられ、マーヴィンの視界が怒りで赤く染まる。
反論をしたいが、自分は発言を許可されていない。
そんなマーヴィンに、アトレウスは更に追い打ちをかける。
「それと、エルシオーネの兄は団長にとても気に入られていてね。君と違って勤勉だし部下にも慕われている。将来的には騎士団長になるだろう。――その彼の妹に非情な仕打ちをしたんだ。君の入団が叶う望みはほぼゼロだろうね」
「……っ!」
「そうそう、君のしたことは女王の耳にも入っているよ。母はエルシオーネを実の娘のように可愛がっていてね。よりによって自分が主催した舞踏会で非常識な行動をした君を、大層不快だと言っていた」
瞳を限界まで見開いたマーヴィンの喉がヒュッと鳴った。
まさか、女王の名前まで出てくるなんて。
「たとえ君を勘当しても、グラニス家には衰退の道しか残らないだろうね」
エルシオーネに会いさえすればどうにかなると思っていたマーヴィンは、自分の浅はかな考えを思い知り膝から崩れ落ちた。
*
動けなくなっているマーヴィンを汚物を見るような瞳で一瞥し、アトレウスは踵を返した。
「今後二度と、エルシオーネや王宮に近づけないように」
衛兵に命じ、マーヴィンの存在ごと脳内から消去する。
エルシオーネが可愛くて可愛くて。アトレウスの頭も心も彼女の存在でいっぱいだ。
あんなくだらない男に脳の容量を使うなんてもったいない。
「――よかった。約束の時間ちょうどだ」
今日はこれから、薔薇園でエルシオーネと二人だけのお茶会だ。
先日は星座学者の書いた本の話題で盛り上がったから、その話の続きをするのもいいかもしれない。
(エルシオーネといると本当に楽しい)
彼女のことを考えるだけで、胸が温かくなる。
ガゼボに愛しい婚約者の姿を見つけたアトレウスは、甘く蕩けるように微笑む。
「アトレウス様!」
アトレウスに気づいたエルシオーネが小さく手を振っている。彼女の笑顔に愛しさが溢れた。
「エルシオーネと俺を出会わせてくれた女神の祝福に心から感謝するよ」
アトレウスはそう呟き、エルシオーネにキスをした。
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