椎の葉は花を宿す
甲子園大会が終わった。幼い頃から憧れ、幾度と無く挑戦を阻まれた聖地に、最後の最後で立つことができた。ここのマウンドで投げられた時間は正に夢のようで、幸せ以外の何物でも無かった。
だが俺には更なる夢がある。それはプロ野球選手になること。亀高のエースとして甲子園大会に出場できれば、自ずと道は拓ける。そう信じて頑張ってきた。
そして夏休みも空けた九月のとある日。夢の扉を叩く音が鳴る。幾つかのプロ野球球団から調査書が届いたのだ。
調査書とはドラフト候補選手自身がプロフィールやプロ志望の有無を記入して提出するもので、球団にとってドラフト指名するかを判断する材料の一つとなる。これが届いたことは即ち、プロ球団が俺の獲得を検討しているということなのだ。もちろん調査書が届いたからと言ってプロ入りが確約されたわけではない。だが逆に届かなければ可能性は一気に狭まる。だから一つのステップは踏めたと言えるだろう。
その傍らでサプライズもあった。柳瀬もプロ野球選手になると言うのだ。地元の中京ドラゴンズの女子チームからのオファーを承諾したそうで、俺よりも一足先にプロ入りを決めた。これは俺としても素直に嬉しかった。
柳瀬とは男女の違いはあれども、同じ投手として一年生の頃から切磋琢磨してきた間柄だ。彼女がいたから俺はここまで頑張れた。
ただ本音を言えば、柳瀬にはこれからも近くにいてほしい。そのためにはどうしたら良いかは分かっているし、いずれは腹を括って実行するつもりでいる。
しかし今はお互い人生の岐路に立っている。柳瀬はプロになると言ってもどうやら大学との掛け持ちらしく、受験勉強に励んでいる。そんな大事な時期に良くも悪くも関係を変えてしまうことは、間違いなく双方にとってマイナスにしかならないだろう。焦る想いを我慢しつつ、俺は黙々と野球部に混じってトレーニングを続けた。
十月。ドラフト会議まで三週間を切り、テレビやネット上でも盛んに取り上げられるようになる。どこの球団が誰を指名するのか。巷の予想が毎日、目に付き耳に入ってくる。周りからは気にしないようにしろと言われていたが、これだけ取り沙汰されては無視できなかった。
《それでは私が独自で考えたドラゴンズのドラフト、当日シミュレーションは発表いたします。もちろんこれはあくまでも私の予想ですので、実際にどうなるかは分かりません》
地元テレビ局によるドラゴンズの応援番組でも、ドラフト予想が行われていた。司会を務めるのがドラゴンズに精通しているアナウンサーのため、的中する可能性も高いだろう。
《まず現状のドラゴンズの戦力構成を考えますと、投手、野手共に将来チームの柱になれる選手を集めたいんじゃないかなと思います。特に欲しいのは先発タイプの投手と外野手。私はそれを踏まえて予想を立てました》
ドラゴンズは先発タイプの投手を欲している。それが本当なら俺にもチャンスはあるはずだ。
《……以上が三位までの指名予想となります。これ以降の順位に関しては上位指名の結果に左右されると思いますので、幾つかのパターンに分けて考えていきます》
三位までで俺の名前は挙がらなかった。プロ野球のドラフトは高校生だけでなく大学、社会人の実力者も一堂に会する。上位指名を受けるのは容易ではない。俺は少し残念に思いつつも、希望を捨てずに後の予想を見守る。
《……続いて五位に参ります。私個人としてはこの五位が最大のポイントになるんじゃないかと思っています。何故ならこれくらいの順位で指名した有望株の選手が将来中核を担えるようになれば、チームが継続的に強くなる傾向にあるからです!》
司会の口調がここぞとばかりに熱を帯びる。俺も思わず息を飲んだ。
《投手か野手かは前の順位までに指名したポジションのバランスによって変わってくると思いますので、投手と野手、一人ずつ挙げさせてもらいます。まず投手は、亀ヶ崎高校の椎葉丈選手です》
俺は心臓が締め付けられたような感覚を覚える。名前が呼ばれた。ドラフト本番とは一切関係無いと分かってはいるものの、嬉しさが込み上げる。舞い上がった俺は思わずSNSで自分のことを調べてしまう。
《涌浅アナの予想は五位で椎葉か。良いピッチャーだし取ってほしいね》
《椎葉キタ! 今年の高校生の中では割と上位の素材やろ》
SNS上でも俺の指名を肯定的に見ている人は多かった。これでより勇気が湧く。
更に日は流れ、ドラフトの三日前となった。指名を信じてトレーニングしていた俺の元に、吉報が届く。
「え、ほんとですか?」
「ああ。今日球団の関係者から連絡があった。椎葉君を一位で指名しますと」
校長室に呼び出された俺は、大道監督からドラゴンズが俺の指名を決めたことを伝えられる。しかも予想されていた五位ではなく、なんと最上位の一位で。
「えっと……」
混乱が喜びを遥かに上回り、俺は口を開いて固まってしまう。自分としては五位でも指名されれば良いと思っていたので、予想外の展開に理解が追い付かなかった。
「球団としてはドラフト前日くらいで公表するそうだ。それまでは本人からも口外しないようにと言われている。プロに入って社会人になる身なのだから、これに限らず節度ある行動を取るようにしてくれ」
「はい……。ありがとうございます」
監督が言った通り、ドラゴンズはドラフト前日に俺の一位指名を公言した。その時には俺自身もある程度落ち着けており、このニュースを見て素直な喜びと安堵感が込み上げた。
ところがここで問題が起こる。俺の一位指名を巡り、SNS上が大荒れになったのだ。
《は? 何このチームドラフト捨ててんの?》
《はい出た! どうせアホ監督が独断でひっくり返したんだろ。はよ辞めろまじで》
《椎葉なんて即怪我して育成落ちレベルだろ。史上最悪のドラフト決定》
ドラゴンズファン、他球団ファン、以前の俺の指名に肯定的だった人たちも手の平を返し挙って批判し始めた。俺は不覚にもその様子を見てしまい、心が鈍器で殴られたようなショックを受ける。
外部の評価は気にするな。この忠告の本当の意味がようやく分かった。チームメイトや友達から祝福のメッセージが届いていたが、あまりの恐ろしさに俺はその日スマホを一切開くことができなかった。
《第一巡選択希望選手、中京、……椎葉丈!》
翌日、つまりはドラフト当日である。俺は無事にドラゴンズから一位指名を受けた。他球団との競合は無く、そのままドラゴンズへの入団が決定。だが本当に俺が一位指名で良かったのか。夢が叶った晴れ舞台のはずなのに、悪いことをしているような気分になる。
悶々とした気持ちが消えぬまま、ドラフトから一週間近くが過ぎた。今日はドラゴンズの応援番組にゲストとして招かれ、生出演する。地元とはいえこうしてテレビに出られることなど滅多に無い。本来なら楽しみになるものなのだが、正直全く気乗りはしていなかった。
「椎葉さん、アナウンサーの涌浅と申します。今日はよろしくお願いします」
リハーサル前、番組の司会を務める涌浅アナウンサーと挨拶を交わす。ドラフト前に俺を五位予想していた人である。SNS上の人たちと同じ思いを持っているのではないかと考えると、接するのが怖くなる。
「やあやあ椎葉投手、初めまして。今日一緒に出演させてもらいます、川下です。よろしくね」
涌浅さんに続いて陽気に挨拶してくれたのは、もう一人のゲストである川下さんだ。川下さんはドラゴンズに所属していた元プロ野球選手で、メジャーで活躍した経験もある名投手だ。俺にとっては大先輩に当たる。
「初めまして、椎葉丈です。よろしくお願いします」
俺は握手を交わしながら川下さんに頭を下げる。引退して十年ほど経つそうだが、その手はまだ厚いまま。何度も豆を潰した跡が伺える。
「いやあ、それにしても良かったねえ、椎葉君を獲れて。涌浅さんが布石を打ったおかげじゃない?」
「いやいや、僕は何もしてないですよ。あの話だけで他球団が方針を変えるとは思えないですし」
川下さんと涌浅さんは互いの顔を見合う。二人の言っていることが俺には理解できない。
「えっと……、どういうことですか?」
「ああ、ごめんごめん。実を言うとさ、ドラゴンズ以外にも椎葉君を狙っているチームは結構あったみたいなんだよ。けどドラゴンズとしてもどうしても欲しかった。更に言えば競合は避けたい。そこで涌浅さんの五位予想が上手く作用したんだよ」
川下さんの話によると、涌浅さんが事前にドラゴンズが俺を五位で指名すると予想したことで、他球団も二位や三位辺りで指名すれば良いと考えてドラフト戦略を練ったらしい。そのおかげでドラゴンズは俺を単独で一位指名できたということだ。仮に涌浅さんが俺の指名順位を一位や二位で予想していれば、他球団も上位で指名しなければならないと競合になったかもしれなかった。
「……ということはつまり、他にも僕を一位で指名しようとしていた球団があったってことですか?」
「そうだよ。甲子園に出たことで、プロでも君の評価がめちゃくちゃ上がっちゃったんだ。本人の前で言うことじゃないけど、ドラゴンズはかなり困ったと思うよ」
冗談交じりに言う川下さん。重たかった俺の心が一気に軽くなる。
「そうだったんですね……。……実は僕、ドラゴンズが一位で指名するって公表した時、SNSを見ちゃったんです。そこで批判的な意見ばかり出てて、本当に自分で良いのかなと思ってました」
「ああ、何かあったね。けどあんなの、ただの雑音だよ雑音。大抵は野球もやったことない素人が言ってるだけだから、一切気にしなくて良いって。はははっ……」
川下さんは大らかに笑う。これだけ実績のある人が言うのだから、間違い無いのだろう。
「良いかい椎葉君。プロ野球選手になると、今回みたいに何にも実情を知らない人間から否定的な意見や批判が無責任に飛んでくる。時には誹謗中傷だってある。もちろん過度なものを放っておいて良いわけじゃないけど、全部にいちいち反応してたら本業である野球に集中できなくなる。外の声に惑わされず、自分を信じて、指導者を信じて、チームを信じて、ひたむきに結果を残し続けなきゃならない。それがプロなんだ」
穏やかだった川下さんの表情が僅かに引き締まる。正直、まだプロにも入っていない人間に対する物言いとしては少し厳しいのではないかと思わなくもない。しかしいつかは知らねばならない理ならば、教えられるのは早い方が良い。
「椎葉君はプロに認められた上でこの世界に入った。だから胸を張って堂々と、思い切ってプレーしてほしい。そしたらきっと活躍できるから」
「はい……。……ありがとうございます。頑張ります!」
「うん。じゃあとりあえず今日は肩の力を抜いて、楽しくやっていこう」
川下さんが柔和な雰囲気に戻る。俺もふと笑みが零れ、この後の収録にも楽しく臨むことができた。
恐れることなどない。俺は正当な評価を受けてドラゴンズに一位指名された。それが真実なのだ。部外者にとやかく言われるのは、もはや宿命。その声を掻き消し、結果を残し続けた先に、掴むべき栄光が待っている。
go to next stage……