剣闘場の終幕
「贔屓の選手が出来た? それの何が悪いというのだね、我が娘よ」
あれから幾度もランセル殿の試合を拝見し、その気持ちは落ち着くどころか日増しになっていくばかり。父上との夕食の席にて、ついにわたくしはその心境を相談しました。
「剣闘場は元々、エリシア様のお眼鏡に適う剣士を見つけるための場だったのだぞ? 抜きんでた才能の若者が現れたというなら、エリシア様は徹底的に推し立てて鍛錬し、つぶさに磨き上げられたものだ。グレスにとってその対象がランセル殿であるというならば、素直に推せば良いではないか」
「お言葉ですが、父上……エリシア様がお亡くなりになってもう二十五年にもなります。すでに時代は移り変わっていて、最近の若い世代は特定の個人が上の者に露骨な贔屓を受けることを嫌うのですよ……」
「なんと軟弱な発想よ……近頃の若者というのはまっこと嘆かわしい。しかし、次代を担うのは儂じゃあなくグレスなのだから、そう思うのなら信ずるままにすれば良い」
「はぁ……」
参考になったような、ならなかったような。しかし、「かつてはそれが許されていた」という事実を知っただけでも、幾らか心は軽くなったかもしれません。
表だってその意思を表明したりはしませんでしたが、それからのわたくしは密かに……ランセル殿の出場される試合を見る時だけは殊更に熱を入れあげて、心の奥底で「今日もランセル殿が勝ちますように」と祈りながら。胸を高鳴らせながら観戦するようになってしまいました。
わたくしの祈りが届いた、なんてうぬぼれるのは失礼です。ランセル殿は実力で、「常勝の剣闘士」となっていました。もちろん、本戦の剣闘士達は手練れ揃い。いつだって、激戦の末の勝利でした。
どんな苦境に立とうとも、ランセル殿は自分自身にも対戦相手にも、決してその肌に刃を着けることがありません。次第に「傷なしランセル」の通称で呼ばれるようになっていました。言葉を表に出せないランセル殿にその心境をうかがうのは大変でしたが、後年、どうにか引き出すことの出来たその信条は。「自分や誰かの血を流すことで得た金で、生きていくのは嫌だから」というものでした。
本選で百回の勝ち星を数えると、剣闘場の殿堂入り剣闘士となります。王族からは赤く染色し、名前を彫った金属板を贈る習わしになっています。その金属板は首の防具に装着できるもので、殿堂入り剣闘士は「赤首」と呼ばれ讃えられるのです。
「赤首昇格、おめでとうございます。ランセル殿」
ランセル殿が赤首になったのは十八歳の時でした。殿堂入りとはいっても特別な式典が催されるわけではなく、いつも通り、剣闘場の事務室にて直接に手渡しするだけです。本来でしたら剣闘大臣や近衛兵も同席しますが、父上が妙な気のまわし方をしたもので、わたくしとランセル殿のふたりきりでした。
わたくしは小さな金属板を両手で軽く挟むようにして、胸の高さで差し出します。手が触れてしまうかしらとドキドキしましたが、ランセル殿はわたくしの手を避けてプレートを両手の親指と人差し指で挟むようにして、すっと引き抜くように受け取り、一礼します。はい、残念ですが、彼はいたって紳士的な方なので当然の結果でしょう。
「ランセル殿は……すごいですね。お強くて……わたくしはグランティスの女王になるというのに……どうしても、戦いが好きにはなれなくて……」
こうして直接にお話し出来たのは久方ぶりだというのに。またしても、わたくしは彼に、泣き言を溢してしまいました。何とも卑怯なのですが、わたくしは彼に思慕の念を抱きながらも、同時に。「外部に情報を漏らせない彼にであれば、自分の弱音をさらけ出せる」。無意識下でそんな風に思ってしまっていたのです。恋い慕う彼にだからこそ、自分の弱みを受け止めて欲しいというような、浅ましい感情もあったかもしれません。
ランセル殿はわたくしを見下ろしながら、少し、悲しげな表情でした。思い返せば赤首を授与した時だって、とても嬉しそうとは思えない雰囲気でしたが。
そのまま、静かに、首を横に振りました。そうして、腰に下げていた、小銭の詰まった巾着状の袋を持ち上げて、じゃらじゃらと鳴らします。
「ランセル殿……?」
そのお金は、彼の百勝目が確定した時に、観客席から投げられたお祝いの硬貨を係の者が拾い集めたものです。
彼が闘うのは、お金のため。口をきけない自分には、他に金銭を得る手段がないから。好き好んで戦っているわけじゃない。言葉はないのに、その時だけは……わたくしは、彼の心の声が聞こえたような気がしました。
彼がもう一度頭を下げて退室しても、わたくしは呆然と、その場を動けませんでした。
わたくしや彼を応援する全ての観客は、彼の身のこなしや誰も傷つけず闘う姿に見惚れてしまいます。他の剣闘士に類を見ない唯一無二の個性であり、美しい、と。ですが、彼自身はその行為をちっとも望んでいない……そう、知ってしまったから。
でしたら、「わたくし達が彼を応援する」というその行為は、はたして彼にとって有益といえるのでしょうか……?
「ランセル君、困るんだよねぇ。君が一度も負けないもんだから、君の関わる試合は賭けになりゃしないって苦情がきてるんだよ」
「大臣……誉れ高きグランティスの剣闘場の歴史に、八百長を刻むおつもりですか?」
「わーかっとりますってグレス様! 一応、言うだけ言っておきたかっただけですって!」
本戦の剣闘士達は年に一度、健康状態の変化などを確認するため個人面談があります。これはランセル殿との面談の場においての大臣のお小言です。最初の一、二回目はまだ慣れていなかったランセル殿は、大臣の理不尽なお小言に肩を縮ませてしまっておりましたけれど。五回目ともなると今やすっかり気にしなくなって、愛想笑いを返せるまでになっていました。ちょっと苦笑ぎみですけど、彼の笑っているお顔はなかなか見たことがないので、わたくしは内心ではちょっとだけ嬉しくなってしまいました。
ランセル殿の面談は、その五回目が最後の機会となりました。世の中の情勢の変化により、グランティスの剣闘場は廃止されることになってしまったからです。最終的な決定を下したのは我が父ですが、結局は剣闘場はエリシア様のためにあった場所。国外からの圧力に抗ってまで続けていく意義が、父上には見いだせなかったようです。
剣闘士の皆様は、剣闘場がなくなってからそれぞれの道を選び歩み出します。グランティスが軍事国家であることは変わらないため、指導者の立場に変わったり。剣闘士の経歴を買われて他国から是非にもと誘われて移籍したり。
しかし、ランセル殿だけはそう容易く、次の道を見つけることが出来ませんでした。剣闘士として六年間戦い、その経験をどこかで活かそうにも、彼は言葉を話せず文字を書けません。せめて文字だけでも書ければ違ったのでしょうが、これでは意思疎通があまりにも困難です。
報奨金の貯えがおありでしょうからすぐには貧窮しないでしょうが、次の道筋が見えない中、あてもなくグランティスの街中をさまよい歩く姿をよく見かけると噂になっていました。
わたくしはどうにか彼の力になれないものか考えましたが、何も思い浮かばずいたずらに時は過ぎ……やがて、ランセル殿は自宅の賃貸契約を打ち切り、グランティスを去ったという情報を伝え聞きました。
あんなに苦手だった剣闘場なのに、わたくしはこの生活で唯一……わたくし自身の心からの楽しみと安らぎを失ってしまったような心地でした。