胸の高鳴り
剣闘場には、引退した歴戦の剣闘士達が新人に指導してくださる鍛錬場が併設されています。もちろん、現役の剣闘士の方々が自己鍛錬する場所も兼ねています。
実力の上ではすでに予選会を卒業したとはいえ、ランセル殿も新人。それも、身のこなしは自己流で、並外れたセンスによって通用しているだけ。磨けばまだまだ光るもの。鍛錬場の指導者達は彼をたいそう可愛がっておられました。しかし、言語による意思疎通が出来ないことはやはり指導の壁にもなり、忍耐力の乏しい師範は割と早期に匙を投げてしまいました。ランセル殿に長く指導をしてくださったのは、元々寡黙な傾向にある老剣士でした。
ランセル殿の本戦、初戦の日を迎えました。予選会百人抜きの経歴に、剣闘場の観戦客界隈での話題性は相当なものでした。
対戦相手はもうじき五十代になるベテラン剣闘士。この年代は、僅かながらもエリシア様の指導を受けられた最後の世代になります。エリシア様のお墨付きというそれだけで、老齢に差し掛かろうとはいえ侮れない実力者であることがわかります。
「おまえさんの評判は聞いてるぜぇ~、テリア・ランセル。そのお綺麗な肌に最初の傷をくれてやるのがこの俺様になるってぇのは光栄なこったぜ」
彼は、通称「血まみれアイドウ」と呼ばれています。試合の度に、対戦相手の体のどこかに、大小は問わず必ず傷をいれなければ気が済まないという困った方なのです……困っているのはわたくしの個人的な「お気持ち」であって、剣闘場の禁止事項には一切抵触しないのですが。
試合の度に毎回、お相手を流血させ。軽傷と思われましたが大事な神経を傷付けていて再起不能になってしまった剣闘士も、亡くなってしまった剣闘士もいます。
上背だけはそんなにないのですが、その分、筋肉の隆起は目を見張るものがあります。父上は二の腕の筋肉に触れたことがあるそうですが、岩石のように固く引き締まっていたそうです。
「剣闘場といやぁグラディウス! 浪漫としてこいつぁ外せねぇよなあ!」
その浪漫というのはわたくしにはわかりかねますが、そういう信条でグラディウスという剣を愛用しています。身幅が広く肉厚でもあり、頑丈な剣です。切っ先の鋭く切れ味の良い、刀身の真っ直ぐな両刃。シンプルな形状ながら無駄なく攻撃力に優れた剣ではないでしょうか。
剣闘士になって初戦の相手としては、些か荷の重い方ではないでしょうか……おまけに、「肌に傷をつけてやる」と宣戦布告までしています。わたくしは主賓室から開戦の合図を待つ間、心臓が破裂してしまうのではないかというくらい鼓動していました。
どうか彼が無事に試合を終えますようにと、胸の前で固く手を組んでお祈りしていました。
開戦の銅鑼の音が鳴り響くより前に、アイドウ殿は動き出していました。撥の動きを目で追って、銅鑼に触れる瞬間に飛び出したのでしょう。
予選会の時とは違って、ランセル殿は即座にサーベルを構えました。サーベルは片刃なので右手で柄を握り、左手で刃を支えて突進してくるアイドウ殿のグラディウスを受け止めます。相手にも初手で決めるつもりはさらさらなく、右から左から何度も、楽しげに剣を振り落としてきて、ランセル殿はそれを受け止めるのに手いっぱいなようです。表情に焦りはないものの、緊張感をもって相手をまっすぐ見据えています。
「予選会の小僧どもの剣をぴょいぴょい飛ばしてたんだってなぁ? 楽しそうだねぇ~、剣闘士じゃなく曲芸師でもやった方がいいんじゃねえかぁ~?」
思いっきり、小馬鹿にするような調子でさえずりながら、アイドウ殿は首を右に曲げて唾を飛ばしました。ランセル殿へ向けて直接に唾を吐いたわけではない、ですが。その一瞬で、ランセル殿の表情が一変しました。今まで静かに燻っていた火が、ほんの一瞬の風に煽られて急に燃え上がったかのように。
ランセル殿は即座にサーベルを両手に握り直し、右斜めに刃を振ってグラディウスを遠ざけます。おっと、と、余裕を見せながらアイドウ殿が半歩下がり、しっかり両足を地につけます。
予選会で何度も見せた、動きを追えない素早さで距離を詰めたランセル殿は、右から左へ刃を水平に振りました。目指した先は、グラディウスの刃の付け根。そこに当たった瞬間、刃が折れて吹き飛んでいきました。
「……あえぇ?」
わたくしは今まで、アイドウ殿のそのようなお顔は拝見したことがありませんでした。何度も目をしばたたかせて、失礼ながら少々、間の抜けた表情で。剣闘場は静まり返り、はぁはぁと、怒りをにじませたランセル殿の荒い吐息が響くばかりでした。
グラディウスのような頑丈な剣を、いくら強化しているとはいえ、サーベルのような曲刀で折るなんて……。
後年になって知りました。ランセル殿は普段は温厚な方ですが、故郷で「口をきけないことを揶揄される」ことが多かったため、自分に対する侮辱的な言動にはこのような爆発的な怒りの感情で反撃してしまうそうなのです。言葉が使えないからこそ、体が反射的に動いてしまうのかもしれません。
非常識な光景を目の当たりにして、剣闘場はしばし、時を止めていました。事態を飲み込み切れた時は、皆、一緒だったのでしょう。静寂の後、一斉に喝采の声が降り注ぎました。
わたくしは、会場の皆様と違って、声すら出せませんでした。あまりの緊迫感にいつのまにか呼吸もおろそかになっていたのか、とりあえず、深く深く溜息をつきます。心臓は先ほどのように早鐘を打つようでしたが、先ほどとは真逆の高鳴りであることをわたくしは自覚しました。
剣闘場での試合観戦で、こんなにも……特定の選手の戦いぶりを「美しい」と感じ、夢中になって見入ってしまった。こんなことは初めてだったのです。
「なんて……はしたない……」
わたくしはいずれ、グランティスの女王になる立場。剣闘場を支える全ての剣闘士の皆様に感謝し、誰よりも公正な目で見るべきではありませんか。
それが、たったひとりの選手に心を奪われてしまうなんて。許されるはずがないでしょう?
「困るんだよねぇランセルさん。百人抜きの時もそうだが、あんたのサーベルは使い方が荒すぎて刃こぼれしすぎるんだよ。力を入れるばっかりじゃなく、抜けるところでは抜いてもらいたいもんだ」
剣闘場には、公認の鍛冶場も敷地内で備え付けです。初戦を終えたその足で、ランセル殿は鍛冶場へ直行し、お小言をいただいてしまいました。
最初こそこんな感じでしたが、ランセル殿は忠言は素直に受け取れる性格の方らしく、刃こぼれしすぎるような武器の扱いはどんどん改善されていったそうです。