百人抜き
その瞬間、何が起きたのか、わたくしはとても目で動きを追えませんでした。ランセル殿は右手にぶら下げていたサーベルを、ほんのわずか後ろ足を下げて右足を軸にして重心をかけると、一瞬にして右腕を斜め上に振り抜きました。……おそらく、そうしたのだろう、と推測しただけです。気付いた時には彼がそのような体勢になって、天に刃先をかざしていたから。
対戦相手はぱちぱちと、目を瞬きさせていました。いつの間にか、愛刀がその手から消え失せている。刀は上空をくるくると回転し、ランセル殿の後方に落ちました。地面に突き立つのではなく、無様に、刀身から地面に着地して。
その状況に皆が気付くまで、しばらく間がありました。誰から始まったのか、いつしか会場全体をブーイングが包んでいました。
「え!?」と言いたそうに、ランセル殿は自分達を取り囲む観戦客達に戸惑いの顔を向けて、その場でひと回りして。どうやらその中に自分に味方しそうな人はいないらしいことを察知して、肩を落としてしまいました。
「困るんだよね~、ランセル君。剣闘場のお客さんは観戦を楽しみに来ているのだから、あーんな一瞬であっけなく終わらせてしまわれては」
主賓室にランセル殿をお呼びした大臣はそう苦言を呈します。剣闘場はあくまで、大臣が運営責任者。主賓というのは、同じ運営者側ではありますが、わたくしを含め王族が観戦するための席となっています。
「いいや、大臣。何も悪いことはない」
本日はわたくしだけではなく、我が父。現グランティス国王も観戦しておりました。父は意図して伸ばした黒ひげを撫でながら話すことに安らぎを覚える癖があり、今回もそのようにしながら話し始めます。
「エリシア様がお亡くなりになってから、いつしか剣闘場は国民の為の見世物となってしまっていたが……あくまで、彼女に見合う剣闘士を見つけるための場であったはずだ。ランセル君のような手練れを見つけたら、エリシア様は大層お喜びになっただろうなぁ」
父はエリシア様を心から尊敬しておりました。彼女が亡くなったことで父はグランティス国王に即位出来たのですが、それをちっとも快く思ってはおりません。叶うならば彼女を喪わず、今も我が国の女王として君臨していただくことを望んでいたのでしょう。自分が王になれずとも。
「もしかしたら君は、予選会の選手ではすでに相手にならないのかもしれない。ちょうど、現在、予選会に登録している選手は百人いる。その全員と一日で連戦してみるというのはどうかね?」
我が父ながら、なかなかの無茶振りをおっしゃいます。いくらランセル殿にそれほどの才能を見出したのだとしても、一日で百連戦なんて。本日の対戦相手はすでに対戦済みということで、残りは九十九人でしょうか。
「今日と明日、どちらが良い?」
さしものランセル殿も困惑の眼差しが隠せないというのに、父は楽しげにそう続けます。見かねたわたくしは父上に耳打ちします。少しだけ、お口を噤んでいてくださいませ、と。いくら娘といえど不敬ではありますけれど、父は肩を竦めて了承くださいました。
「ランセル殿、あの、大丈夫ですか? 我が父ながら雑な提案を申し上げて……。もし、よろしいのでしたら、わたくしが次に『今日にしますか』『明日にしますか』と訊ねましたら、どちらかで頷いていただけますか?」
わたくしは平均的な女性の体形なもので、身長の高いランセル殿とは頭ひとつ近く差があります。昨日のように座って対面していたら気になりませんでしたが、そう呼びかけますと、ランセル殿はわたくしを見下ろす形になりました。
不思議なことに、そのように見下ろされているというのに、なぜだかまるでそのような印象を受けません。その瞳の表情がどことなく幼くて、まるで小さな子供に上目使いに窺われているような心地になってしまうのです。
「今日にしますか?」
さすがに、こちらはないでしょう、と、言葉にしながらわたくしは予想していたのです。こんな無理難題を告げられて、その日のうちに承諾してしまうなんて、そんなこと。
しかし、ランセル殿は意を決したような表情で、こくりと頷きました。何かの間違いではと疑って、念のため「明日にしますか」も告げますと、動きはありませんでした。ほ、本当によろしいのでしょうか?
実のところ、ランセル殿は故郷からの長旅ですでに持ちだしの資金が尽きかけていて、この日のうちに百戦分の報奨金が得られるのならそれもまたよし、と判断していたようなのです……故郷で負け知らず、それだけ己の実力に自信があったのでしょうけど、それにしたってあまりにも……。王族に生まれて経済的に困窮した経験のない我が身が、世間の皆様に対して申し訳なく思えてしまいます。綺麗事を申すなと逆に叱られてしまいそうですが……。
かくして、百人抜きはその日の一時間後には開催されました。先ほどブーイングをしていた観客達も今までに見たことのない催しに大盛り上がりでした。
ちぎっては投げ、という表現がありますが、ランセル殿の百人抜きでの戦いようはそれに近いものがありました。善戦できた者も何人かはいたものの、ほとんどの選手はサーベルの一振りで的確に武器を弾き飛ばされて終わってしまうのです。
ランセル殿からしたら、予選会の選手達はまだ動きが洗練されていなくて、隙が見えるようです。そして、昨日わたくしがお話しした「勝敗の決め手」の中で、最も手っ取り早いと彼が感じたのが「武器を手放させること」だったのでしょう。
こうして剣闘場の歴史に、予選会一日で百人抜きの記録が新たに刻まれました。
一見して楽勝のようにも見えましたが、さすがに一日で百人も打ち倒したとなると、控室に戻られたランセル殿はへとへとにお疲れでした。床の上に足を広げて座り込み、荒い吐息を繰り返しています。
「お、お疲れ様でした……」
元より、我が父の思いつきでこのようになってしまって、申し訳ないことこの上なく。わたくしは、剣闘場入口で商売をされている飲料の屋台から、柑橘を絞った飲み物を限界まで冷やしていただいた上で、お持ちいただきました。
それを受け取ったランセル殿は一気にそれを飲み干して、心地よさそうに、冷えた吐息をはぁ~とつかれます。わたくしは立っておりますので、今度は例えではなく本当に上目使い。どこか照れたような幼い目で、わたくしに一礼してくださいました。