ノアとテラ
どういう事情なのか、孤児院の院長先生とコウは顔見知りらしい。先生は七十代の男性で、意識はしっかりしているけど寝台に横になったきり動けない体だった。
「報せを出しておくから、ナナのところへ行きなさい」
娘に会えたら、自分のこともよろしく伝えて欲しい。そう言うので、これから会う「ナナ」っていう人は彼の娘さんなのかな。
それでコウに連れられて向かった場所が砂漠の国クラシニアで、しかも何の審査もなく王宮へずんずんと歩み進んでいくものだからボクはとても驚いた。
「おかえり、コウ君。……大変だったよね、色々と」
出迎えてくださったクラシニア女王、ナナ様は、何の迷いもなくコウに抱きついて、背中をぽんぽんと優しく叩く。砂漠の旅で砂と汗にまみれて、お世辞にも綺麗とは言えないコウの体に。コウは腕の力が抜けたまま、抱き返したりはしない。彼女の言う通り、「色々あった」から、心も体もそんな元気がないのかもしれない。
ナナ様に初めましての挨拶をしたら、「ナナでいいよ、えーと。ノア君?」って、とても「女王様」とは思えない親密感で接してくれる。
「それで、私達はもうみんな、神竜から人間の体に戻ったってことでいいのかな」
そう言いながら、ナナさんは包帯で包まれた自分の左手をボク達に見せて、包帯をほどく。そこには横一文字、傷がふさがったばかりみたいな痕が残っていた。
「まさか、刃物で傷つけたのか?」
「うん。だって、これくらいしか確証が持てる手段、思いつかなかったから」
神竜の体っていうのは、負傷しても僅かな時間で治ってしまうらしい。だから傷つけてみて、治るかどうかで確かめたんだ。
「ちゃんと傷痕、消えるんだろうな。何も痕が残るほど切らなくてもよかっただろうに……」
「そうだけどね~……でも、消えなくたってそれも、悪くないかなって」
「いいの?」
「だって、これはこれで、人間に戻れた証って気がするじゃない?」
こんな風。ナナさんはちょっとだけ、不思議な感性の人だった。彼女が神竜として生きたのは三十年くらいで、その十倍以上もの歳月、神竜の務めをしてきたコウやボクがへとへとに疲れ果ててるのをよくよくわかっていてくれてて。クラシニアの王宮で気が済むまで休んでいいと言ってくれた。
しばらくして、ナナさんとコウが結婚した。この三十年ほど、何度か会って親交を深めてきたらしい。義理とはいえ兄であるコウと彼女が結婚したから、ボクはナナさんを「姉さん」と呼ぶようになった。
三月十四日。ボクの誕生日。神竜達が人間としては決して迎えられなかった、「二十一歳の体」になった。姉さんの私室でケーキを囲んで、コウと一緒に祝ってくれた。その席で、こんな提案をされた。
「ノア君はね、コウ君と違って、広い世界を旅して多くの人に会って話す。そういうのが向いてるんじゃないなーって私は思うんだよね」
現在のクラシニアの法律では、王族である姉さんは王宮から出られない。姉さんも人間だった頃は世界中を旅していて、そういうのが性に合う人で。いつかクラシニアの法律を変えたいと、その頃に世界中で手助けしてくれる人脈を築いてきた。
「私の代わりにみんなに会って、これからのことを相談してきてくれないかな。大変な仕事だからどうしてもとは言えないし、ノア君さえ良かったらなんだけど」
ボクはもちろん、即決で、「いいよ」って答えた。姉さんにはとってもお世話になったから。ボクが少しでも役に立てるなら断る理由がない。こんなこと、コウにはとても向いてないし、頼めないだろうからね。
とりあえず隣国のグランティスに立ち寄り、姉さんと懇意にしていてクラシニアでお会いしたこともある、次代女王のグレス様にご挨拶をした。
姉さんから預かった資料では、この国には他に連絡が必要な人はいないみたい。せっかく来たんだから何日か、観光でもさせてもらおうかな。
この国でいっとうの観光名所といえば、世界有数とうたわれた「グランティスの剣闘場」。ここは力を司る神竜の巨神竜様が庇護していた国だから、彼女の趣味嗜好を満たすために作られた場所だ。
影の世界には「グランティスという国」が存在したというのに、同じ場所に剣闘場はなかった。コウが、影の世界に争いは持ち込みたくないからってえり好みして、巨神竜様を受け入れなかったんだ。ここの剣闘場は明白に「巨神竜様の聖地」なのだから、彼女がいない以上、存在することが出来なかった。
グレス様に剣闘場までの道を聞き忘れてしまったから、道行く誰かに訊いてみようと思った時、ちょうどよく歩いてきた。剣闘場で百勝を数えた剣闘士に王家から贈られる勲章、「赤首」という防具を首に着けた男の人。もちろん、何も鍛えてないボクより筋肉がついてて背も高いけど、同年代に見える人で話しかけやすいと思った。
「すみません、剣闘場への道をお訊ねしたいんですが……」
ぼんやりとした顔でふらっと振り返ったのに、ボクの顔を見た瞬間にぎくりとした顔になる。その刹那には「振り返らなければ良かった」って言いたげな、後悔が滲んだ顔に変わってる。ほんの短い時間にくるくる~って顔の変わる人だなぁ。それが第一印象だった。
現在、剣闘場は廃止されていて、見に行っても跡地でしかない。それを知ってるけどそれでも見て行きたいんですって伝えたら、彼は無言で歩き出した。言葉に出さなくても、「ついて来て」って言われてるような気がして、ボクも黙って彼に続く。思った通り、彼の行く先には剣闘場があった。
「……テリア・ランセルさん? 傷なしランセル……素早い身のこなしで、自分自身も対戦相手も傷ひとつつけずに常勝する名剣闘士……へぇー、すごいんですね~」
剣闘場の掲示板に、案内してくれた彼の情報が貼られていた。ボクの想像していた以上に凄い選手だったみたいで驚いた。だって、試合中はどうなのか知らないけど、今は全然そんな風に見えない。優しげで、実年齢よりちょっと幼ささえ見える表情だったから。
道案内してくれたお礼にその辺の売店で飲み物を買うことにしたら、黙ったまま、注文票からコーヒーを指さした。ボクも同じものを頼んで、芝生に座ってそれを味わう。
ボクは掲示を見て彼の名前と経歴を知ったけど、自分はまだ名乗ってなかったから、遅ればせながら自己紹介をしようとした。そこで、彼が疑問符いっぱいの顔でボクを見ているのに気が付く。お互いに座っているけど、鍛えているであろう彼は体幹がしっかりしていて背筋も曲がっていたりはしないので、身長差は立っている時と変わりない。にもかかわらず、ボクを見下ろすはずの彼の眼差しは、どこか「下から見上げてこっちを窺ってくる」みたいな感覚になる。
彼は何が疑問なんだろうなぁって考えようとして、ボクも気が付く。ボクから一方的に話しかけるばっかりで、彼が何も話していないってことを。返事をしない相手に対して一方的にペラペラ話すボクのことが不思議だったのかもしれない。
ボクの側には七百年間、ほんのたまにしか、それも感情の見えない事実を一言二言しか話してくれないヒナがいた。だから、返事をしてくれなくても自分の気持ちを一方的に話すのが当たり前の感覚になっちゃってたんだなぁ。
「ボクの母もほとんど喋ってくれない人だったから、慣れてるんですよ」
そう伝えると、納得したような顔。こんな調子でしばらく、「ボクが話すばかりで彼は聞く」だけの会話を続けていたら、彼の顔がみるみる曇っていく。今日の空は雲ひとつない深い紺碧で、気持ちの良い芝生の上に座って寛いでるっていうのに。
そんな表情をどう読み取ったらいいんだろうと思った時……ふ、っと、ごくごく自然に浮かび上がった。
『せっかく……やっと、会えたのに……ボクはずっと、待ってたのに』
ずっとずっと会いたかった、この世でたったひとり、ボクだけの「本当の兄」。やっと会えたと思ったのに、ソウはボクを置いていなくなった。ボクのためにそうしてくれたのはわかってるけど、それでも思わずにいられなかった。「ボクを置いていかないで」って。
今の彼……テリアさんから、あの時のボクと同じ言葉が聞こえてくるような気がした。ここまで至ってもそれを直接言葉にしないっていうことは、「したくても出来ない」んじゃないのかな。そんな彼とごく自然に、一緒に過ごせる人っていうのがテリアさんの周囲にはいなくって……そんな想像が、情報だけでなく情景も併せて次々と浮かんでくる。
……いいのかなぁ。彼は、フウの時とは違う。だって、フウはボクが連れ出さなければ、どうやってもあの「本物じゃないアルディア村」を出られなかった。ボクがいないとどこへも行けなかったから、気安くこう言えたんだ。「ボクと一緒に行く?」って。
でも、迷ったのもほんの一瞬だけで、結局ボクはこう言っていた。「ボクと一緒に行きますか?」って。
『ひとりも悪くないけど、誰かと一緒の方が楽しいな』
ほんの少ししか話せなかったから、あの時ソウが言っていたことは忘れたくない。ボクだって、誰かと一緒にいられるならその方がいい。誘って断られるとしても、しないで諦めて後悔する道理はないじゃないか。
それに、断られないんじゃないかなぁって不思議な確信もあったんだ。そして、予想した通り。彼は、さすがに少し考えはしただろうけどそう間もなく、決心したように頷いた。
自分の首についた勲章の赤首を外して芝生の上に置くと、「テリア・ランセル」と彫られた名前の「テ」と「ラ」の文字を指さす。
「えーっと、『テラ』って呼んでいいのかな」




