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エアコン

作者: すもち

 浮き輪を持って花火を見に行く。日々の生活は無味乾燥なもので、この数年間はこれっぽちの前進も見られず、むしろ後退しているような気さえする。

「前進のないものは後退しているのだ」

 ゲーテが私の頭の中で囁いている。


 地球規模における暑夏のせいで(いや、暑さのせいにしたいだけかもしれないが)、どうにもこうにも仕事に熱が入らない。身体には熱が籠もりっきりなのだけれど。キーボードを叩く指が鈍っている。一本どこかへ忘れてきてしてしまったような気さえする。

 昨年の春に超新星の如く現れた某有名大卒の新入社員の仕事ぶりを見ていると、彼には手が四本あるのではないか、そう勘ぐってしまう。きっとこんな季節に、オフィスではなく青空教室みたいに野原で仕事をしていたならば、かなり離れた席に姿勢良く座っている彼にはきっと蜃気楼によって四本の手が生えているのだろう。

 しかし、我々には文明の利器がある。エアーコンディショナー、略してエアコン。彼は私達から夏を取り除いてくれる。冷気という魔法をかけてくれる。文明の利器という名ではもったいないくらいで、あれは一種の救済であろう。壊れた地球に暮らす壊れかけの私たちに垂らされた命綱である。


「よーし、7月に入ったからエアコンつけるぞー」

 オフィスにアナウンスをする上司。普段よりも、会議の時よりも張り切った声で呼びかける。ぶっきらぼうな上司に「ありがとうございます!」と私を含めたヒラは応える。きっと「もっと早くつけろよ」と心のなかで悪態をつきながら。皆の目は彼の人差し指に注目し、エアコンのスイッチを押すその瞬間を見届けるのであった。

 家庭用エアコンでは感じることのできない風はすぐさま届けられた。室内の温度がみるみる下がっていき、軽やかな指と平常心が戻ってくる。別にやる気が出るわけではなく、パニックから脱するだけである。オフィスの空気もさっきより美味しい気がする。

「設定温度のリクエストあったら遠慮なく申し出てくださいね。あ、さっき言い忘れてましたが定時になったら切りますからね。お忘れなく」

 心なしか機嫌の良い上司。奴は「クーラーをつければ皆の士気が上昇し、仕事の能率が上がる。働き方改革は進められるし、残業代も払わなくていい」と妄想に耽っているのだろうか。絵に描いた餅である。定時に仕事を終わらせ、帰れる人間などこの職場にいるだろうか。私が入社してから見たことはない。かの超新星は周囲と同じ仕事量ならば定時、いや定時前で帰れるのだろうが、有能な人間はすぐに目をつけられる。人の2倍も3倍も仕事を押し付けられ、人柄も相まって引き受けてしまうのだから、それはもう定時には帰れない。さっきまでの士気はどこへやら、オフィスの空気は不味くなってしまった。クーラーが切れるならば自宅に仕事を持ち帰るだけである。至極当然だが、夏は暑い。そんな暑さに私は勝つ気などないのである。

「自ら後退せよ」

 私にとって都合の良い、絶対にゲーテではない哲学者が囁いている。


 笑う門には福来たると言うが絶対にこのオフィスには福はやってこない。断言できる。上司の人差し指を見つめ、口角を上げていた十数人は今ではただパソコンを見つめ、ただキーボードを叩く機械なのである。彼らが機械のままでいられる理由は、定時を迎えていないから。ただそれだけである。現在進行系で我々を癒やしてくれる冷気様だけが救いなのである。そうして一時間が過ぎ、二時間が過ぎ……家庭用エアコンでは感じることのできないけたたましい音が我々の鼓膜に届けられた。


 彼は壊れた。壊れてしまった。


 慌てふためく上司。落胆するヒラ。そうして一時間が過ぎ、二時間が過ぎ……汗にまみれた大人たち。

 

 だから私は浮き輪を持って花火を見に行くのである。

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