『或る男の、政治的手法』
『或る男の、政治的手法』
㈠
初めに言って置くが、これは私小説ではない。或る男が、偶然出会った本に、酷く感化されてしまったようだ。柄谷行人インタヴューズ2002-2013 (講談社文芸文庫)の、『トランスクリティークをめぐって』の中で、引用された文章である。
柄谷行人「実際、マルクス自身が『ドイツ・イデオロギー』にこう書き込んでいます。《共産主義はわれわれにとっては、つくりだされるべきなんらかの状態、現実が則るべき(であるような)なんらかの理想ではない。われわれが共産主義とよぶところのものは現在の状態を廃止する現実的運動のことである。この運動の諸条件は今、現に存在している前提から生じる》『マルクス=エンゲルス全集 第三巻』
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或る男は、この引用に、心底驚いた。詰まるところ、貧相に見える現実的支配者の、体制批判だったのが、偶然、共産主義というものを掲げていた、という偶然に、問題は帰着するだろう。つまり、この時の体制批判は、共産主義でなくても、よかったのである。或る男は、訝し気に読んでいる。
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そして、体制が共産主義に則って変わったから、共産主義を体制は目指した、という結果である。これは即ち、政治というものが、如何に自然災害などの偶然に、良く酷似しているか、ということを吐露している。或る男は、この社会の仕組みを知らず、ただ、そんな理想はあり得ないという、共産主義の批判者であったことを悔いた。
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こういう流れに、歴史の痛恨を見る時、我々は、体制批判というものが、その独裁に乗って変わるのを目指すだけでは、危険だ、という意味を提示する。平和というものを、念頭に置けば、平和主義の独裁者が体制に居る時は、体制崩壊ではなく、体制への補助を、野党は行うべきだろう、となる。
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この或る男は、ただ、自己の貧困を現政治体制に向けるのではなく、現体制が、何を目標として、活動しているか、ということを、精査すべきだ、と思った。国民が、である。現体制のやっていることが、実に平和的実行であれば、自己の貧困は、自己の責任で取るべきかもしれない。
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或る男は、生活保護を受けているが、これも、随分と行き届いた、現政治体制の、我々への恩恵なのである。或る男は、この、柄谷行人インタヴューズ2002-2013 (講談社文芸文庫)の、『トランスクリティークをめぐって』の引用を巡って、少し、政治への見識が、変わったそうである。
※筆者は、生活保護者ではありません。また、柄谷行人の自分の読解は、非常に範疇論的です。