とびだせ ぞくぶつの家
部屋を明るくして頭を空っぽにしてから読んでください!
マリイは激怒した。
必ず、このクソみたいな家を捨ててやると決意した。マリイには異世界転生の勝手がわからぬ。マリイは、普通の学生であった。授業を取り、単位を落とさぬ程度に遊んで暮して来た。遊び過ぎて一個落とした。もう一回学べるドン!
けれども己に向けられる邪悪に対しては、人一倍とは言わないが、そこそこに敏感であった。
と、まあ。純文学風にかっこよく言ってはみたけれど、マリイはそんなにお堅い訳では無いし、特別しっかりした人間ということも無い。寧ろ、親の金で通学しておきながら、単位を落としたカス寄りのカスである。
マリイ。マリイ・オネット。侯爵家の生まれであり、まあまあそこそこの貴威と生まれを持った、程々にやんごとなき身分の十八歳プラス二十数歳である。
このプラス二十数歳というのは前世の記憶カウントだ。ありふれた異世界転生令嬢。それがマリイ・オネット。...因みに前世はといえば、サークルの飲み会で泥酔して、そのまま多分あぼん。短い人生であった。
多分というのは、泥酔して以降の記憶が無いからである。なんか知らんけど、気付いたら転生していた。
自分の死因すら思い出せないアホっぷりであるが、アルコールのおかげで死の苦痛を知らずに生きてはいるので、まあ結果オーライ。おかげさまで図太く生きているが、酒は二度と口にしないだろう。
自己紹介は程々にすべきだ。現状、何故激怒したかを説明せねばなるまい。
٩( ᐛ )و
ざわざわ。ざわざわ。ハッキリとは聞き取りたくない言葉達がざわめきとなって、マリイの耳を撫で付けて行く。
「マリイ。悪いけど、今日は一人で昼食を取ってくれ」
ラテン系の、少し浅黒い肌にクセっ毛。タレ目がキュートさを醸し出すイヤらしい顔のイケメンがひらひらと手を振る。女こそ連れてはいないが、悪評が立たない程度に隠れて遊んでいるのは分かっている。
彼はマリイの婚約者のフィーロである。まあそれはそれは大変おモテになるので、マリイという婚約者が居ながら遊びまくりのカスであった。
しかしマリイは頷くことしか出来ない。フィーロは婚約者が居ながら浮気をするカスであるが、金で爵位を得たやり手の商家の嫡男...要するに、成り上がりの金持ち。
金は無いのに血統だけはよろしいマリイの家。純血の平民だが金は有るフィーロの家。互いの利益のために結んだ婚約であったし、助けて貰う側がオネット家であるから、マリイは従順に振る舞う方が良い。
メンツが最重要のお貴族社会。平民に家ごと舐められている訳であるから、本来であれば蹴り飛ばすべき婚約だ。
だが、浮ついた噂のある平民の男と婚約破棄をして、この男の元婚約者というレッテルを背負って婚活をする...それはかなり、分の悪い戦いである。
相手もその事を分かっているからこそ、堂々と色めき立っているのだった。だから、マリイは既に破棄を選べない。現状に甘んじた方がマシなのである。
矜恃じゃ飯は食べれない。一家全員破滅するよか、一人を切って生贄とした方が良い。切られるのは勿論、マリイである訳だが。
「ええ、分かりました」
控えめに、淑やかに微笑む。
淑女然とした笑みを浮かべれば、彼は満足気に去って行った。貴威の高い女を従わせるのが気持ち良いタイプの変態である。成功した平民というのは、その生まれを散々詰られるのがお決まりというやつで、彼もまた類に漏れず平民コンプレックスを持たされているようだった。哀れ。
「ああ、可哀想なマリイ嬢」
「あのような平民に良いようにされるなんて、わたくしだったら耐えられませんわ」
「頷くことしか出来ないのかしら。お顔が可愛らしいだけに、従順なお人形さんのようね」
嘲笑が半分、同情と野次馬がもう半分と言った具合である。
放っておいて欲しいとマリイは思っているが、ゴシップくらいしか娯楽の無い上流階級の人間たちというのは、鬱陶しい程に他人の痴情を好むものだ。
ただ、まあ、本気で介入して来ないだけマシである。...一応、マリイの実家はそこそこの身分であったので、目下の家などはオネット侯爵家に融資をすることで、多大な恩を売ろうと画策したりする。
今を立て直すだけならそれでも良いが、長い目で見た時に足枷にしかならない。いざ何かを行う際に、それを盾に押されれば、面子第一社会であるお貴族様というのは大変に困ることになる。
だからやっぱり、婚姻という形でイーブンにしてしまい、一族ごと結び付いた方がマシなのであった。マシだと言うだけで、クソかクソではないかと問われれば、かなりクソである。
半ばヤケクソになっては居るが、表には出さない。前世は一般市民であったけれど、十数年を貴族として生きているマリイには、半端な矜恃とプライドが混在していた。
「お前、悔しくないのか?」
なんにも分かりませんわと言った、あどけない微笑みを浮かべたマリイに声を掛けてくる人間など、そう多くは無い。
鋭さすら感じる冷たい銀の髪に、静かに不快さを訴える鉛色の目。大層な男前が、マリイを睨み付けるように見下ろす。
「あんな男、付き合うだけ無駄だ」
彼はセイヴァ・シザースと言う。数少ないマリイの友人であり、口と言葉選びが悪い。これでも公爵家の嫡男であったけれど、貴族の家の一人息子とは思えないほどに性格も苛烈だ。大事に育てられた良いとこのお嬢さんお坊ちゃんというのは、ふわふわしたヤツが多いので余計に目立つ。
彼はどちらかと言えば、商魂逞しい庶民的な男であったし、冷ややかで、切れ味の鋭い刃物のような人間である。
「第一あのような低俗な人間と婚約するなど、耐え難い屈辱だと思うが?」
でもやっぱり矜恃やプライドを一番にする辺り、彼は根っからのお坊ちゃんではあった。
マリイは必要に迫られれば、辛酸どころか土を味わったっていい。ジャパニーズ土下座を見せてやる気概だったので、温度差というのがかなりあるのだ。
「そうは言いましても、婚約者さまですから」
「そんな態度だから、人形だなどと揶揄られるんだ。見ていて腹が経つから、ハッキリ言え。言い返せ」
「私はハイハイ頷くだけの都合の良い女ではありませんが」
じっとりとした目が呆れたように細まる。
「俺に言ってどうする」
全く以てその通りであった。
やれやれと息を吐いた美青年は、それだけで絵になる。マリイは彼のことを友達だとしか思っていなかったが、それはそれとしてイケメンであるとは常々思っていた。
「セイヴァは良い人ですよね。世話焼きです」
加えて言及するならば、顔も良い人だ。あと少し照れ屋である。何気無い発言であったが、セイヴァは少しだけ言葉を詰まらせた。
「良い人であってたまるか。相手は選んでいる」
「はあ。うち没落寸前ですよ。何かありましたっけ?」
「...それは、分かれ。自分で考えろ」
この話は終わりだと言うように、彼は深く深く溜息を吐いた。
マリイとしても結論が出ている話をエンドレスで掘り返されるのは面倒だったし、此処らが引き際というやつである。セイヴァはところで、と話題の切り替えを試みた。
「お前は一人寂しく食事をする気か?」
「ええ、勿論。先に言っておきますけれど、貴方と食事は致しませんよ。わ、た、し、は、浮気行為をしませんので」
「それを直接言ってやれば良いものを」
早い蒸し返しである。どうやら彼の中で、よっぽど腹立たしい案件だったらしい。
マリイは別に、軽んじられることも嘲笑されることもそこまで苦では無い。だってコンビニでアルバイトしていた時の方がよっぽど人権無かったし。だから、彼が気の毒がる程の辛さは無いのである。
「まあ、なんだ。その」
歯切れの悪い言葉に首を傾げれば、セイヴァは困った顔をした。
「...何かあれば、俺に言えばいい。腐っても公爵家の長子だからな」
しかしそれはそれとして、マリイのことを気遣ってくれるのは純粋に嬉しいことだった。
彼は権力を振りかざすタイプでは決して無かったけれど、マリイに気負いさせまいと大袈裟に言っているのは理解できる。それは世話焼きで、性根の優しいセイヴァのことをズッ友だと思うには、十分すぎる理由であろう。
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友人がフィーロをどう思おうと、マリイの婚約者が彼であることに変わりは無い。
「マリイ。キミ、僕の他に良い人が居るんだって?彼、随分とキミにお熱だったみたいだけど」
が、しかし。婚約者もまた、セイヴァをよく思っていない可能性を失念していたわけである。
「...ええっと、居りませんが...どなたの事を仰っているのですか?」
こんな口振りで聞いてはいるが、実質一択であった。マリイの男友達など最初から一人しか居ない。
だが誓って言える。彼はマリイにそのように不純な態度を見せたことは無いし、マリイもまたセイヴァに恋愛感情を抱いた事はない。当然のように、フィーロは不満気にしているわけだし、納得行きませんと目が語って居るのだが。
「惚ける気かい。大人しそうにしているのに...とんだあばずれじゃないか。どうやって誘惑したのか、僕にもやって見せてくれないか?」
「貴方が思っているようなやましいことなど、ありません。誓って言えます」
面倒臭くなったなあと内心で思うマリイだったが、家の件がある手前、殊勝にする義務が発生する。
誠実にした分、同じような誠実さを返して欲しいところだったが、平民コンプレックスのある彼には無理だったらしい。嘲るような目が、マリイを舐めるように見た。
「僕は中古が嫌でね。この話は白紙にするよう言ったっていいんだ」
「ですから、そのようなことは無いと言っております」
「それなら、誠実さを見せて欲しいね。どうしたらいいか、賢いキミなら分かるだろう?」
分からないですが?
何を求められているか一切理解できないし、したくもない。が、渋々口を開く。
「分かりませんので、お教え下さいますか」
どう考えても買い言葉であったが、従順な態度だと思ったらしい。気を良くしたフィーロは、鼻を鳴らして口角を上げた。少し興奮しているらしく、荒っぽい息である。
若干の嫌悪を抱きつつも、微笑みは崩さない。多少の我慢で好転するのなら、幾らでも焼け石の上で座禅を組んでやる気概であった。
「いつも通りでいいのさ」
「はあ。と、言いますと...」
「あの公爵サマにやるように、下品に誘って見せ、」
ボッと鈍い音が鳴った。
ての音がドゥになった。ドゥッ。ドはどんなに謝ってもお前を決して許さないのドだ。レはレモンのレ。ミは皆まで言うな、早く楽にしてやるのミ。ファはファッ...これ以上はいけない。
いや、鳴った、か。それは正しく無い。意図的に鳴らした。意思を持って打撲の音を響かせた。音だけ気持ち良い優しい平手では無くて、ダメージを与える為のガチのビンタである。
「すみません、気持ち悪くて、つい...」
当たり前だが、口先だけの謝罪である。
マリイはキレた。キレッキレである。その辺の尖ったナイフの数億倍尖っている。頬を嬲った掌は、もう一度この駄肉を叩く事を望んでいる。
中古判定が覆らないのなら、そのようなことは言うべきでない。そして気持ち悪い表現を使っているんじゃない。
生理的に無理すぎて、マリイの中のキリストが「右の頬を殴り、スナップを利かせて左の頬も往復で行きなさい」と言った。
イエス、キリスト。そうします。それはそれとして、マリイの神はマリイである。
「何をするんだ!お前、自分の立場が分かっ、」
ゴッ。肉体への打撲を目的とした時、衝撃はスパンなどという爽やかな音を鳴らさない。
骨。肉。汚らわしい魂。その全てが、なんとも言えない鈍い音を奏でるのだ。
「すみません、聞こえませんでした」
これはグー。殴り抜けるためのグー。
マリイにとって、嘲笑は苦では無い。だが、友人を巻き込んだセクハラはどうしてもNGであった。キモいのである。
キモいし、下世話な勘繰りは不愉快を超えた何かなのである。頭ではいけないと分かっているけど、平手が反射で飛んだ。やっぱりキモかったからである。
現代社会も異世界社会も、頭と下半身が直通している人類は共通なのだな、と酷く冴え渡る頭で考える。全て終わったとも思った。詰んでしまったとも言う。
「ええっと、婚約を白紙にするということで宜しかったですね。結構です、そう致しましょう」
フィーロはガチガチの下町坊主であったけれど、さすがにマリイを殴り返す程の馬鹿では無かったらしい。
いや、訂正しよう。単に呆けている間抜けである。唖然とした顔でマリイを見ているが、マリイは知らん顔で踵を返す。女性の癇癪をスマートに流せないようじゃ、この社会ではやっていけないぞ。
「では、さようなら。貴方のような方と縁を結んでくれる、良家のお嬢さんが居たらいいですね」
それが、昼の話。まだ第一段階であった。
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「マリイ。お前、何をしたか分かっているのか?」
ハラスメントに耐え兼ねたマリイを叱責するのは当然、破談によって不利益を被る人間である。
有り体に言えば肉親、オネット家の者...マリイとの関係性で言えば、父。パパ。ダディ。己の手腕が至らなくて娘を売ったわけであるが、その試みがコケればマリイを責めずには居られない。この世は無情であった。
しかしマリイも、ただハイハイと頷くばかりでは無い。このまま菓子折の中の気持ち...率直に言えば賄賂を持たされて、謝罪の為に馬車に乗る未来だけは避けなくてはなるまい。
それはマリイの私的な利益の為でもあったけれど、一割くらいは「あの男はボンクラであるから、絶対に一族に入れるべきでは無い」という総合判断に基づいたジャッジであった。
「お言葉ですがお父様。彼の家はお金は潤沢にあるようですけれど、中身が伴っておりません。典型的なイキ...調子に乗っておいでの成金です。あれを婿として迎えてしまったら、我が家の名声は地に落ちるでしょう」
心の底からの気持ちである。
お気持ち表明ではなく、誰の目から見ても分かること。周りから悪評を買い、敵を作りすぎた貴族は破滅すると決まっている。次期侯爵が成り上がりで、才能も凡。性格も陰湿。カリスマも無い。家名抹消ルート一直線だ。
だが父はそんなことも理解に及ばないらしい。祖父はやり手の領地経営マンであっただけに、落差がひどい。本当にマリイや祖父と血が繋がっているのだろうか?
マリイは現代の知識を継いではいるが、それとは別に広い目で物を見る能力がある。前世縁の物ではなく、祖父が教えた帝王学が身に付いているのである。貴族の心得、領地経営のノウハウ、その他諸々。
例え婿が中心に立とうとも、何もせず座って微笑むだけの女にはなるな。イエス、サー。
因みに祖父は名門貴族であったが、次男だったので爵位を継げず家出。
騎士として武勲を立て、新たに別の爵位を貰ったハイブリッド貴族である。すげー男ではあるが、当然めっちゃこわかった。精神年齢が既に成人であるマリイも叱られてガチ泣きした。
それを学んだ筈の父であるが...結果はこの通り。鷹から生まれたトンビというのが、マリイの父親を的確に表す言葉だと思う。
「そのような事を言うべきでは無い。いいか、お前は女だ。駄々を捏ねるな」
「駄々ではなく、理屈を捏ねております」
「選べる立場には無いんだ。バカではないのだから、分かるだろう」
何言ってるか全然わかんねーけど?
マリイはここでもキレた。世界はあまりにも、無情であった。婚約者もカス、父親も頭ごなしのアホ。そんなんだから、祖父が一代で叩き上げた資産を溶かして、娘の婿をロクに選べなくなるのだ。
「ええ、ええ、分かりました、お父様」
わかんねーやつということが大変にわかった。
「そうだ。それでいい、最初から大人しくしておけばいい」
「はい、では、私はこれで失礼します。ありがとうございました。我が家の発展を、心より応援しております」
「あ、ああ...分かればいいんだ。早く寝なさい」
あたまがスッカラカンの父は、少し疑念を抱くだけで何も言わない。そんなんだから、いいように転がされまくるのだ。
今世の養育費を支払ってくれたこと、高等教育を義務感で行ってくれたことは感謝している。だが、マリイを真っ直ぐ育てたのは、使用人である乳母であったし、この屋敷で働く温かい人々だ。そんな彼らを置いて行くのは心が痛むが、遅かれ早かれこの家はもうダメである。
頑張って、再雇用先を見つけて欲しい。推薦状ならば此方で書かせて頂くので。
そんなこんなで激怒したマリイは、家を捨てようと思ったのである。
父はダメだが、マリイに家を継ぐ権利は無い。男尊女卑のこの世の中、どれだけ父がポンコツだろうが無能だろうが、女として生まれた時点で跡継ぎ失格なのであったし、爵位を継ぐ権利が無い。つまり将来は結婚一択しか無かった。
そうなってくると家にとってメリットのある相手...癒着を進めるべき同格の家の次男坊や三男坊を婿として迎えるのが普通だ。
だが、経営難の所為でマリイの家と癒着するメリットは消えた。だから、貴族としての籍を欲した成金と婚約する羽目にもなった。
経営者。王国騎士。近衛兵。錬金術士。学者。医者。そのどれもが女性である時点で学びの道を絶たれたカリキュラムだった。一つでも選べたのなら、どうにかして家を再興させたのであるが。
だからと言って脳死してれば良いとは全く思わない。腐らずに精一杯の努力をした。
己が領地経営するのは無理でも、オネット家を立て直す助力が出来れば良いと、今迄わりと頑張って勉強してきた。そのような身ではあるが...それ以前の問題で全てがパアである。さよなら、マイホーム。こんにちは、虚無。精神病みそう。もぉ無理、、、、マヂ病み。つらたにえん。むり茶漬。当たり前だが、この世界に永谷園は無い。
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「ということで、じきに平民となりますから、オネット家の使用人共々雇用して下さると嬉しいのですが」
「ということで、と言われてもだな...ええっと、何処から聞けばいい?」
困った時はいつでも相談しろと言ったズッ友────セイヴァは、困惑を有り有りと浮かべている。
まあマリイも、突然貴族の友人が「家が無くなります!働かせてクレメンス」などとほざいたら、聞き間違いかと思うし、冗談か否かを聞くに決まっていた。
「家を出て来ました」
「それは分かる」
「元婚約者殿の横っ面を...」
「平手で叩いたのか?」
「いえ、グーで行きました」
一瞬引いたような目でセイヴァは此方を見たが、すぐに鼻を鳴らした。
呆れた風ではあるが、何処となく嬉しそうである。人の不幸を喜ぶタイプの友人だったことを知ってしまった。
「だから言ったんだ。あのような低俗な人間は、付き合うだけ無駄だと」
「それはそうでしたけれど、途中で癇癪を起こした私にも非が有りますので」
「どれくらい?」
「小指の先の甘皮ほど」
「随分と謙虚なことだな」
余程フィーロが気に食わなかったらしい。マリイは全く悪くないと暗に言っているのであるが、責任の一端は勿論マリイにある。多少の反省はすべきだ。
マリイは胸に手を当てて、身を乗り出した。貴族令嬢としてはダメであるが、声を張り上げて懇願する。こういうのは勢いが大切だ。
「ともかく、雇ってください!働きます!一生懸命!レジ打ちでも、皿洗いでも、荷運びでもやります!」
頭を下げたマリイの肩に手を置いて、セイヴァは顔を上げさせた。これは「分かった」の流れだろう。
深く深く溜息を吐いた彼は、ゆっくりと手を下げる。涼やかな色の瞳が真っ直ぐにマリイを見て、
「雇わない」
「親友が頭を下げていると言うのに!?」
ズバッと切られてしまった。
そうして、わなわなと激情で震えるマリイに、しっしと追い払うジャスチャーを向けた。非道の極み。
「お前と親友は御免だな。ほら、馬車を出すから早く帰れ」
「こ、この薄情者!冷血男!私が路頭に迷うのを見たいのですね!?このひとでなし!」
「そうは言っていない」
「事実としてそうではないですか!」
ハンカチの端を噛んでキー!と咬ませ令嬢ムーブをする。
しかし親友...元親友のセイヴァは首は縦に振らない。このひとでなし!
「使用人としては要らない。俺がお前に求めているのは、そういう立場じゃないんだよ」
呆れた顔のセイヴァがマリイを見た。心底見損なったという目であるが、彼はデフォルトでそういう顔をしているので、そういう訳でも無いのだと...思いたい。
使用人としては要らない。じゃあ、何?マリイは考えて、もう二つだけ思い当たった。
「愛人になれと言っているのですか!?」
「どうしてそうなる」
「では表舞台から完全に消え、土地を渡せと!?そして奴隷として貴族令嬢を!?光の差さない地下室で囲いになられるの!?...なんたる性癖!」
「どうしてそうなるんだ」
あっちは先祖に前々々々々王が居るやんごとなき血統の公爵家。領土も名声も申し分無い。こっちは名家から出奔した祖父が武力で作った新興侯爵家。潰れかけの豪族。
その上で彼がマリイに頼むことがあるとすれば、愛人として都合の良いお付き合いをするとか、籍を消し、土地をガラ空きにして買収しやすい領地を生むことくらいだろう。幸か不幸か、セイヴァの家の領地はマリイの家の領地と地続きであるし。
「妙な言い掛かりはやめろ。小説の読み過ぎだぞ」
「実際大抵の貴族はそうではないですか。一夫一妻制だった筈ですけれど、皆さん金で叩いて囲いまくり、侍りまくり。良いご身分ですね」
マリイは元現代人というのもあって、この時代の人間ほど貞操観念がガチガチと言うわけでもない。
なので割とそんなもんなのか程度の感慨で、別段激しい嫌悪を抱く訳でも無いのだが、潔癖のきらいのあるセイヴァは心底軽蔑しているらしい。渋い顔をしている。
「セイヴァは憧れないのですか?美女を侍らせて地下室にハーレムを作る生活」
「俺が望んだ相手が居るなら、他は要らん」
「まあかっこいい」
「どうもありがとう」
マリイの所為でセイヴァは口が悪くなる一方である。
今こそこんなんではあるが、元々は恐ろしく固くて冗談の通じない男であった。軽口をぶつけまくっている内にノリの良い貴族になったので、若干悪いことをしたとは思っているが、マリイは今のセイヴァの方が好きである。
「貴方に選ばれる相手は幸せですね。心の底からそう思います」
彼は物凄く良い男になったと思う。
元々良かった顔、性格に加えて、クッソ真面目で融通が利かなかったところ、あまり笑わず冗談も分からなかったところ、無駄話がどれだけ有意義な時間であるか知らなかったところ。
それらが全て緩和されて、ちょっと可愛げが無いだけの思い遣りがあって顔の良い男になった。どこに出しても恥ずかしくない、パーフェクトな親友である。
「じゃあ、それも踏まえて、だ。これからどうなるのが俺とお前の最善だと思う?」
「それは勿論使用人として、」
「俺はお前と、気のおけない関係で在りたい」
「...では、ご友人の屋敷を働き口として紹介して頂くとかですか?」
「使用人から一度離れたらどうだ」
彼は深く溜息を付いて、ほんの少しだけ優しげな瞳を向けた。
鈍い色の瞳がマリイを映して、入り込んだ自分が困ったような顔で此方を見つめて来る。
「もっと簡単な答えがあると思うんだがな」
それが分かんないから困っているんだが。
結局セイヴァが首を縦に振ることは無く、彼の家の馬車に乗せられて実家へと返送された。マリイは詰んだことを悟り、己の行く末と父を呪うしか無い。
٩( ᐛ )و
マリイが家に帰ると、父は蒸発していた。借金まみれの家と借用書を遺して。
とことん父とは似ない子供であったが、追い詰められた末に逃げるという選択肢はDNAに刻まれていたらしい。マリイも逃げようと思ったので、親と子は似るものだと思った。
一度は捨て置いて逃げようとした身であるが、それはあくまで父と共倒れは勘弁だったからである。
ヘッドを失った実家は、最低限の処理も為されず崩壊するだろう。給与が未払いのままオロオロとする使用人たちを放り出すのは貴族として最悪である。領地も混乱の渦に飲まれるし。社会人としてダメだ。そういう企業本当に良くない。
仕方なくマリイは屋敷の財産整理を行う。当主の代わりにこの家と共倒れするのは今を以てマリイと成った。帳簿を取り出して、僅かに残った使用人たちと仕分けをして行く。
父は使用人に財政管理を丸投げしていたけれど、その経理担当を雇う金が無くなったのはどれほど前だったか。
親切で人の良かった経理は「良くして頂いておりますから、最後までお供させてください」と言っていたが、管理したところでどうにもならない。申し訳ないとは思いつつも、すぐに職を持てそうな専門職の方々は優先して解雇してある。そのレベルまで達していたのだ。
前世で簿記や会計など一切学んで来なかったが、幸いこの時代の簿記レベルは低かった。
マリイでもどうにかなる。多分。まずは借用書から察される未払金を纏めて、まと..めて...
「ん?」
おかしい。
何がおかしいって、金額がおかしい。
資本金と収入と支出が合わない。入った筈の税も消失している。
恐る恐る帳簿を見ると、明らかな異常が幾つも見られた。ぺーぺーのマリイでも分かるほどに酷い抜け...闇に消えた資金がある。
「セイヴァが言っていたのはこういうことか...」
もっと簡単な方法があると彼は言っていた。
どこでそれを掴んだのかは知らないが、オネット家は不正塗れのグチャグチャ帳簿を所持している。...これ、もしかして見直すだけで持ち直せるのではないか。
とりあえず使用人に早馬を出させる。大金を貸し出してくれている領地...マリイの親戚の家に。
月の一定返済の額と、借り受けた時期。元の額を鑑みても、とうの昔に払い終わってそうな物もあることに気が付いた。過払金じゃねーか。
あちらの帳簿も比較させて貰い、歪みをまずは修正する。
過払金を払い戻す制度も法律もこの中世異世界社会には存在していないけれど、初期金額に対する金利は最大値が決まっている。その上、過払いが発覚した時点でその借金は無くなるという制度がある。
過払い分が返却されることはないが、月の支出を減らせるだけでデカイ。その方向で行くべきだ。
領地経営の為の資金は纏めて月末に入る。税の収集が月末だからだ。
先月までは一般的な経営費の他に、謎の大金が闇に葬られているが、税金を使用したと言う割になんの事業も見られない。建築も行われていないし、物資を買い込んだ記録も無い。
...もしもこの金が着服されていただけの純粋な収益だったとしたら。
それを正せば領地を立て直せるとしたら。
「やってやりますよ...!」
(((((٩( ᐛ )و))))
セイヴァ・シザースの友人は賢い馬鹿である。
同年代にしては達観した視点を持つ、良く言えば聡い、悪く言えば世捨て人じみたお嬢さんであるが、貴族の令嬢らしさはまるでない。かと言って騎士の娘らしいかと言われても、それは違うと断言出来る。
賢いのに抜けている。高水準の教育が身に付いているのに、庶民臭さも持ち合わせている。
マリイ・オネットという侯爵令嬢はそういう、言語化し辛い珍しいタイプの女だった。
貴族社会の見栄っ張りにうんざりしていたセイヴァにとって、飾らない少女というのはそれだけで稀有であったし、次期公爵であるセイヴァを特別扱いなどせず、ただの友人として、一切の恋愛感情や利益を持ち込まない女は只々気が楽だった。
ウマが合うと言えばいいのか。面倒臭がりであることを隠さないものの、なんだかんだで真面目な彼女はセイヴァと同じ冷めた価値観を持っていたし、自分自身にプライドこそ無いものの、貴族としての誇りは持ち合わせていた。
上に立つ者としての自覚があった。こいつが男として生まれていれば、魁傑として名を馳せただろうと惜しくも思ったが、入れ込むにつれて女で良かったとも思ってしまう。
性別を一切持ち込まない彼女に不誠実であるが、セイヴァはマリイのことが好きだった。
嫁として欲しい。賢く、鋭く、臆せず物を言う彼女。当主に成れない身だと知っていながら、努力を止めない健気な彼女。手元に欲しすぎた。
しかし、外堀から囲ってやろうと思っていたセイヴァは行動が遅すぎたのである。
彼女の家はボンクラの父親によって致命傷を負い、マリイは悪評高い成金の家に出されるのだという。
セイヴァはこの世を呪った。
今すぐマリイの家の領地を買い取ってしまっても良かったが、真面目な友人はそれを嫌がるだろうし、そんなことをした日には対等で居られない。
それはセイヴァのエゴであったけれど、誰より公平なこの少女が、己に膝を付くところなど見たくなかった。膝を突くのは、セイヴァの方が良い。
そうした矢先に、彼女は婚約を破談にしたと泣き付いて...はいないが、セイヴァに珍しく頼み事をしに来た。
マリイが言えば、こちらはなんだってしてやりたい。使用人としての雇用などという世迷言は流したが。
これはチャンスだと思った。
婚約者を捨て、家も捨てると言った彼女。心残りは使用人だけ。もしもマリイが実家から出たく無いと言えば、セイヴァは無理に彼女を嫁として貰う気など無かった。
だけれどマリイは、借金で家が潰れるならば逃げると言い切った。我が友人ながら、結構思い切りの良い女である。
ならば。ならばだ。婚約者も居らず、家ごと潰れてしまう彼女。少なくとも悪くは思われていないセイヴァ。
事を進めたって、いいだろう。
彼女は驚くほど鈍かったが、ハッキリ言わないセイヴァもまあ悪い。一割程度は。
だから、しっかり言うべきなのだ。借金ごとお前の人生が欲しいと。
しっかりと書類を揃え、家の印も持ち出し、オネット家を丸ごと吸収する気でセイヴァはマリイの家に来ている。オネットの領地も武勲もマリイに付いて来るオマケだ。
そんなかわいいかわいい彼女に婚姻を申し込み、嫁として迎え入れに来......来.....来た、のだ、が。
「ようこそセイヴァ。貴方のお陰で領地が立て直せそうです」
満足気に微笑むマリイは、金の無いオネット家では過ぎる趣向品をティーテーブルに並べている。
使用人たちは咽び泣き、口々に良かったと口にする。趣向品も口にする。率直に言って異様な空間だった。
「ええっと...どういうことだ?」
婚姻届をうっかり握り潰しそうになった。
オネット家が崩壊の危機から脱したのは理解出来たし、それは良いことだと思うが...セイヴァに礼を言う必要はあるだろうか?
「まあ、無駄な謙遜をして。貴方が言ったのではないですか。私が使用人にならずとも、もっと簡単に済むと」
「その結果が?」
「帳簿の見直しです」
マリイはそれはそれは嬉しそうに語る。
祖父が親戚に恨まれていたこと。爵位を継げなかったみそっかすのくせに、武勲で実家よりも大きな領土を賜ったのが気に食わず、潰してやりたかったと言われたこと。マリイは軽んじられているからか、悪行の全てを罵りと共に授けられたこと。
マリイは良かれと思って経営の人間を追い出したが、結果的にそれ故に助かったこと。
現在は裁判にかけて逆に潰す準備を進めていること。
父が信用していた経理の人間は親戚の家から派遣されてきた工作員だったこと。それにしたって帳簿の読めない父はアホであること。
「腐った貴族はアホばかり。父が逃げ、借金と共に捨て置かれたお嬢さんには何も出来ないと思っていらっしゃる」
もしもの時の為に持っていた金を半分程使い、専門家を一時的に雇ったのだと言う。そして暴いた不正の記録を持って、今度は告発を行うのだとマリイは笑った。最近は専ら遠い目で笑うことの多かった彼女であるが、心の底からの朗らかな笑みである。邪悪ではあったが。
「丁度良く婚約の申し込みも頂きましたからね!順風満帆です」
マリイは口角を上げるが、その言葉は聞き捨てならない。
セイヴァは如何するべきか迷うこともなく、握り潰しかけていた書面を眼前に掲げた。クエスチョンマークが浮かぶような、間抜けさすらあるあどけない顔が彼を見る。
「俺にしておけ」
セイヴァと書面を交互に見たマリイは、困ったように眉を下げた。
「気持ちは嬉しいですが、そこまでして貰う訳には行きませんよ」
もう援助も要りませんし、と彼女は笑う。
マリイは分からんやつであった。鈍感。にぶい。疎い。セイヴァも別に上級者ということも無ければ、結構鈍い方ではあったが、それにしたって酷い部類。
「同情じゃないと言ったら、お前はどうする?」
聞かれた彼女は、やっと笑みを消した。そして少し固まった後に、ぽかんと小さく口を開けたのだった。
٩( ᐛ )و
「同情じゃないと言ったら、お前はどうする?」
マリイの友人は義理堅く、面倒見の良い男である。
程々の冗談を好み、対等な立場と適当な軽口を求める、貴族にしては珍しい青年だ。
その彼がマリイとの婚約を望んでいる。その上で、借金塗れのオネット家に同情した訳では無いと言う。
「ええっと...武勲が欲しいのですか?」
「要らない」
「我が家の領土と、親戚からむしれそうな飛地ですか?」
「不要だ」
「それなら何を?」
「お前だ」
涼やかな瞳がマリイを見る。いつでも彼は真剣な顔をしているが、今日は普段以上に真っ直ぐマリイを見てくる。
冗談を言っているような雰囲気では無く、本気なのだとぼんやり思ったが、イマイチ現実味が無い。
「私の顔がお好きなのですか?」
「顔も好きだが、それだけではない」
「影で働いてくれる理解のある貴族を側に侍らせたいと?」
「それはあるが、お前で無ければ要らん」
「もしかして告白ですか?」
「もしかしなくてもそうだ」
良くも悪くも正直な男であるセイヴァは、若干言うのが憚られるような内容も堂々と言った。マリイはオイオイと思わんでもなかったが、そう思うだけで“気にしない”のだ。
そのような人間の有り難さは正直すごく分かる。あけすけなやつは気楽で良い。ストレートな告白を頂いたものの、こいつ苦労してるなあと同情が先行してしまった。
「此方から正式に申し込もうと思っていた。事前に仄かしもした」
「そんなこと言ってました?」
「以前、借金をどうにかしたいかと聞いただろう」
「...」
「加えて言えば、気の置けない関係でありたいと明言した」
わかりづれえよ。
「それをお前が相談も無しにあのような下賤の男と婚約するから...」
「セイヴァに相談する必要は無いのでは」
「...」
「い、いひゃい、いひゃい...」
不機嫌が極まった顔で頬を引き伸ばされた。
陽を受けて煌く銀の髪に、意志の強そうな鉛色の瞳。それが面倒臭そうに細められて、マリイの手を取った。
「...お前は俺が嫌いか?」
彼にしては珍しい、少し困ったような顔だった。普段は吊り上っている眉尻が、自信を失ったように下がっている。
努力家の彼らしく、ペンだこと豆だらけの手が遠慮がちに指に触れた。
それにマリイは驚いて、つい口を滑らせてしまう。
「そんなしおらしい態度出来たんですね」
頬を思い切り引っ張られた。
「ひはいへはないれす」
頬を解放された。
「今はそれでいい。いつか、好きだと言ってくれ」
マリイは首を振る。そして彼の手を取った。
いつかではなく、今で良いと思ったからである。マリイもまた、一生付き合うならば、彼のような人が良いとずっと思って居たのだから。
その後と言えば、マリイとセイヴァはめちゃめちゃに甘々バカップルと化してしまった。
サバサバした友人関係を築いていたし、彼はかなりクールな男だと思っていたのだが、だいぶマリイがすこすこのすこらしい。すぐ引っ付く。すぐ嫉妬する。すぐイチャイチャしたがる。ケーキは別のを買って半分こにしてあーんがお決まりになってるくらいバカ。学園でも話題になるくらいバカ。恥ずかしいとか思わないからマリイもバカ。
普段ツンツンしてた男がこうも可愛いやつだったとなると、ギャップでかなり参ってしまう。恥の有る無しを聞かれれば有るが、マリイを見ている男という非実在性概念と戦っているセイヴァはちょっとおばかさんでかわいいのであった。
婚約破棄して良かった〜!当時はどうなるかと思ったが、今は大変にそう思う。
因みに父は婚約後すぐに家に戻ったが、勿論すぐに追い出した。おめーの家ねーから。机ごと追い出してやった。
親戚の家にも多大な賠償金を吹っ掛けた。この手で取り潰すまでは行かないものの、貴族格付けチェックでもうじき消えるのレッテルが貼られている。あと一手失敗ればすぐに無くなる風前の灯。わたくしにここまでさせるからいけないんですわよアッハッハッハッハッハッハッハッハ!!!!!
これにてハッピーエンドである。ちゃんちゃん。