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17本目 襲撃

 朝。いつもより少し遅い時間に目覚めたウィルは慌てて身を起こす。

 ()いで昨夜アスカが(とこ)へ就いた場所に目を向けた。

 視線の先。黒を身に宿した尊い御方が静かに寝息を立てているのを確認したウィルは安堵の息をこぼす。もちろんアスカの隣には神獣であるエンヨウの姿もしっかりと確認できた。


(よかった……)


 昨日の出来事は夢などではない。改めて確信できたウィルはそっと胸を撫でおろした。


「あ、いけない……」


 現状の確認を終わらせたウィルは手短に身支度を済ませ、すでに起きて朝の準備を始めていた神子に声をかける。


「おはようございます、神子様」

「おはようウィル。よく眠れましたか?」

「はい。でも寝坊しちゃって……すみません。手伝います」

「疲れていたのでしょう。まだ眠っていても大丈夫ですよ」

「へへっ。大丈夫です」


 力こぶを作る真似をし、ウィルは神子へと微笑んだ。

 そしてそのまま朝食作りへと参加する。といっても手伝えることなどは少ないが。


「はよー神子様……ふぁ」

「フフッ。おはようハルト、今日は一段と寝癖が酷いですね」

「え、そう?」

「えぇ」


 ウィルが神子の手伝いへ入ったあとハルトが起床し神子と挨拶を交わす。短い茶色の髪がいたる所へ跳ねている様子が微笑ましく、思わずウィルは小さく笑みを見せた。


 その後。残りの年長組であるアンリエットとマリンも目を覚まし、口々に朝の挨拶を交わす。しばらく後、幼いフランツとエミリーも起きてきたので、これで寝ているのは神々のみとなった。


 昨日はいろいろあり、アスカも疲れていたのだろう。少し騒がしくなった室内にも関わらず、二人は今もぐっすりと眠っている。

 そんな二人をわざわざ起こす意味もないと判断したウィルたちは、せめて食事ができるまではと二人を寝かせておくことにした。


 年長組の四人が神子とともに忙しなく動く一方、年少組であるフランツとエミリーは神子に一言断りを入れ二人揃って外へ出る準備を始めた。行き先は小屋近くに生えているベリーの木だ。

 あれはこの辺りで採れる唯一の甘味、かつ二人の好物でもある。

 もう数が少なくあまり採れはしないので大切に食べていたのだが、自分たちの好物をアスカとエンヨウにも食べてもらいたいらしい。


 その話を聞いたウィルたちにも異存はなかったので二人を快く見送る。


「気をつけてね。採ったらすぐに戻ってくること。いいね?」

「はーい」


 二つ重なった素直な返事につい笑みがこぼれる。

 行き先はすぐ近くといえど外が危険なことに変わりはない。

 ましてや二人はウィルから見てもまだ幼いのだから心配するなというのも無理がある。


「いってきまーす」

「いってらっしゃい」


 笑顔でベリーを摘みに出た二人を心配しつつも見送ったウィルは残った作業を片付け始めた。

 昨日採ってきたものを仕分けしつつ次の食事へ回せるものは回す。遠出した甲斐もあり成果は上々だ。

 昨夜の夕食に出した分。さらに朝食へ出した分を差し引いても残りはまだある。節約すれば二、三日は大丈夫だろう。


 アスカが数日ここに滞在すれば足りなくなる可能性もあるが、そのときはまた自分が外へ採りに行けば良い。


 考え事をしながらウィルは手を動かす。

 そしてそろそろ籠の中身がなくなってきたというところで、外から響く甲高い悲鳴に肩を跳ねさせた。その声が先程外へ出たエミリーのものだとすぐに理解したウィルは外へと急ぐ。


「エミリー! フランツ! ――ッ!」


 エミリーの悲鳴にいち早く反応した神子が二人の名を叫びながら扉を開けた。

 だが神子はすぐに動きを止めてしまい続いて外へ出ようとしていたウィルや、駆けつけた他の子供たちは扉の前で二の足を踏むこととなった。


「神子様どうしたんですか! フランツとエミリーは!」

「ダメです、下がって……」


 小さく呟き後ろ手でウィルたちを制する神子の行動に疑問を残しつつも、外にいる二人が気になるウィルは外の様子を伺おうと外へ出ようとする。

 しかしそれをさせまいと神子が後ろ手で全員を押しとどめた。

 そんな神子に痺れを切らしたウィルは少しでも現状を確認するべく神子の影から外を覗き見る。そしてそこに広がる光景を見て息を呑んだ。


 ウィルの瞳に映るのは血を流し倒れるフランツと、フランツに縋り付くエミリーの姿。さらにもう一つ。二人のすぐ近くに灰色の体毛を持つ巨大な熊型の魔物がこちらを睨み佇んでいたのだ。


 魔物の右手。鋭い爪や覆われた毛にフランツのものだろう血痕がベッタリとついている。

 それがポタポタと滴り落ちて土の上にどす黒い染みを作っていた。

 作られた染みに混じるようにポツポツと散乱するベリー。

 恐らくフランツとエミリーは木に残っていた全てのベリーを摘んできたのだろう。それなのに散乱したベリーのいくつかは無惨にも踏み潰され、血溜まりの一部と化していた。


「ボア、ベア……? なぜ、こんな場所に……?」


 神子の呟きにウィルは咄嗟に神子を仰ぎ見た。微かに見える横顔は目を見開き顔面蒼白となっている。


「ボアベアってたしか……」


 森の奥深くを縄張りとする凶暴な魔物だったはずだと、以前神子から聞いた記憶が蘇る。

 だがこの周辺には生息しておらず、アスカと出会った場所近くにある森を縄張りとする魔物という話だったはず。


 森の近くならいざ知らず、こんな場所にいるはずのない魔物が出現した。あり得ないことが起こってしまった。

 しかも森に棲む魔物は平野にいる魔物よりも強い個体が多い。ウィルたちが勝てる道理は微塵も残っていなかった。

 唯一の頼みの綱である燈火の樹は枯れかけており、その効力も期待できない状況。


(最悪だ……)


 通常の魔物ですら手に負えないのに、それ以上の魔物が現れた。

 自分たちではどうにもできない目の前の現実を認識しウィルの顔から一気に血の気が引いていく。


 見上げた先の神子の顔が青を通り越して白くなってしまっていることに合点がいった。恐らく神子もウィルと同じことを考えたのだろう。

 そして同じ結論に達したウィル自身の顔色もまた神子と同じような色になっているはずだ。


「ふ、ふらん、つ……はや、おきて……。あぅ、にげ、にげなきゃ……」


 倒れたフランツの服を掴み引き摺るように引っ張るエミリーだったが、腰が抜けているのか力が入っていない。


 早く助けにいかなければいけないと頭では分かっている。

 だが足の裏に根が張ってしまったかのようにウィルの体はぴくりとも動かなかった。


(フランツのあの出血量……もう、ダメかもしれない。みんなも死んじゃう、かも)


 ぐいぐいとフランツの服を引っ張り続けているエミリーの向こう側。ウィルたちを見ていたボアベアが視線を足下にいるフランツとエミリーに戻した。

 まるで、新しく現れた獲物は逃げるつもりがない。ならば先にこちらを仕留めてしまおう。そう判断したかに見えた。


 ボアベアが己の太い腕を振り上げる。足元に転がる虫の息となった獲物たちを完全に仕留める為に。


 助けないと。危ない。逃げろ。そう思うのにウィルの体は恐怖に支配され欠片も言うことを聞かない。

 喉が引き攣り声すらも上手く出せない。自分以外の家族も同じく恐怖で動けないでいる。


 助けに動けないウィルたちにはこれから起こるであろう惨劇をただ見ていることしかできない。


「――や、やめろっ!」


 しかしそんな中、一人だけ動けた人間がいた。自分たちの前に壁として存在していた神子だ。

 駆け出した神子はボアベアの爪がエミリーたちへ届く前に、己が身を二人とボアベアの拳の間へと滑り込ませた。

 いつもおっとりとした動きの神子とは思えない素早さにウィルは驚きを隠せない。


「ぐぅぁ!」


 勢いよく振り下ろされたボアベアの爪が神子の背に深々と突き刺さり、神子が悲鳴にも似た呻き声を上げる。

 爪が突き刺された背中はあっという間に真紅へと染まり、吸収しきれなかった血がポタポタと地面へ落ちていく。


(ち、血が……たくさん)


 あまりの惨劇に血の気が引いていく。もう引いていく血すら己の顔に残っているのか不明な程に。


「あ、ぁ……」


 声が震える。声だけではない。手も、足も。全身全てが震えている。

 今にも腰が抜け、へたり込みそうになるのを意思の力で必死に抑え込む。


「エ、ミリ……だいじょ、ぶですから――ぐぁっ!」


 恐怖により神子の体の下で泣くエミリーを安心させる為、神子は諭すように声をかける。

 しかしそんな努力も虚しく再度振り下ろされたボアベアの爪が神子の背をまたも深く切り裂いた。


(どうしようどうしようどうしよう)


 自分が逃げるという選択肢などウィルにはない。自分は死んでも良い。だけど家族はダメだ。心優しい家族がこんなところで死ぬなんて許せない。

 必死で思考を働かせウィルは家族を助けられる道がないか模索する。しかしそう上手くはいかない。気持ちばかりが焦り思考がまとまらない。


 ウィルと同じく震えるハルトの手には護身用の短剣が握られている。だが死の恐怖に襲われているハルトにそれを上手く使えというのも無理な話だ。


(ハルトから短剣を受け取ってぼくがみんなを助けに――ダメだ。どうしても体が動かない。アンリとマリンだって体がすくんでる。早くどうにかしないといけないのに、ぼくはどうすればいいの……)


 震えるだけで何も打開策が思い浮かばないまま、時間だけが無為に過ぎていく。


「……あ」


 ボアベアの赤い瞳が神子からウィルへと動き、獰猛な視線がウィルを捉えた。

 ぐったりと倒れ伏し血を流した神子をその場へ放置したボアベアがウィルの方へとのっそり動き出す。


(まずいまずいまずい)


 焦燥感に支配されるも体はぴくりとも動かない。他の家族も同様だった。仕方がない。だって自分たちは無力な子供なのだから。何ができるというのか。助けたいという気持ちだけは立派だが、実力が何も伴ってはいない。


 赤い血を滴らせた巨体が目の前まで来たというのに、ウィルはただ巨体を見上げることしかできなかった。

 ただただ己の無力さを噛みしめる。


「わぁ――」

「う、うわあああ!」


 それでもせめて他の家族だけは守らなければ。

 その一心でウィルは動かない足を動かし咄嗟に前へ出ようとするも、隣に立つハルトが動きだす方が早かった。

 短剣を手にしたハルトが無謀にもボアベアへと突っ込んでいく。


「待っ――ダメだ!」


 ハルトを止めようとウィルは手を伸ばしたが、その手は虚しく空を切る。


「あああ――ぐぇっ!」

「へ?」


 しかしウィルの背後から急に現れた手によってハルトは首根っこを掴まれ苦しそうな声を上げた。

 そんなハルトを気にもとめず、その手はハルトを後方へと放り投げる。

 後ろでアンリエットとマリンがハルトを受け止めた声を聞きつつ、ウィルの視線は手の持ち主へと注がれた。


「アス――」

「チッ!」


 ハルトと入れ替わるようにして前に出たのは寝ていたはずのアスカ。恐らく自分たちの騒ぎ声などで目が覚めたのだろう。そして襲われているウィルたちを見つけて助けに来てくれたのだろう。


 涙でウィルの視界が滲む。

 アスカは神だ。この世で一番尊い存在。こんな危険な場所からは一刻も早く、一番に逃がさなければいけない人物なのに。それなのに――。


 恐怖を押し殺しながらも魔物へ立ち向かうアスカの背にウィルの視線が吸い込まれる。

 微かに震える手には粗末な木の棒を持ち、勇敢にもボアベアへと向かっていく漆黒の姿に目を奪われる。


「クッ――ソがああああ!」


 雄叫びと共にアスカが勢いよくボアベアへと体当たりを放った。

 恐らく少しでもウィルたちからボアベアを引き離すためだろう。二者は縺れるように転がり倒れ込む。


 アスカの見た目は非力そうなただの女性だ。

 それなのに二メートル程もある巨体を己の身一つで引き倒す程の力を持っていることに驚きを隠せない。

 やはりあの方はただの女性ではないとウィルは確信する。自分たちを助けてくれる偉大な力を持つ神なのだと。


「――ふっ」


 倒れ込んだアスカは大きく息を吐きながらボアベアの上から身を起こす。そして武器である木の棒をボアベアの頭目掛けて振り下ろした。


「チィッ!」


 ガツンという鈍い音と共にアスカの腕が大きく弾かれる。ボアベアが己の腕で防御したのだ。

 弾かれた勢いそのままにアスカは後ろへ大きく飛ぶ。ボアベアとの距離を取りつつ素早く体勢を整えたアスカが、ウィルとボアベアの間に体を滑り込ませた。


「ふぅ――ふぅ――」


 アスカの呼吸を整える音が嫌に大きく聞こえる。

 ウィルからアスカの表情は窺えないが小さく震える足が、背が、アスカの心情を如実に表しているようだった。


 きっとこの神は戦闘が苦手なのだ。初めて出会ったあの時も魔物から逃げていた。それでも誰かを守る為には逃げずに脅威へ立ち向かえる人だった。


 対して自分はどうなのだろう。震えるだけで何も出来ない。情けなさで涙が出てくる。


「ふぅー」


 改めて大きく息を吐いたアスカは強く武器を握り直し腰を落とした。


「ア、アスカ様……ダメ。早く、逃げて」


 貴女だけでも。そんな気持ちで目の前の背中に語りかける。


「大丈夫、大丈夫だウィル。私が何とかするから。神子(キール)も、チビたちも。お前らも。だから――今は下がってろ!」


 そう言ってアスカはまたボアベアへ向かい駆け出していく。

 型も何もない。ただやみくもに武器を振り回しているだけの攻撃。それが数度続くも全てボアベアに防がれてしまっていた。


 アスカの攻撃の合間にボアベアからの反撃が挟まれる。

 辛うじて避けてはいるようだが、それでもボアベアの攻撃が掠っているのかアスカにダメージが降り積もっていた。


 このままではやられるのも時間の問題だった。

 どうすればいい。どうすればアスカの助けになれる。ウィルは自問自答を繰り返すも、答えを導き出せずにいた。


「グルァ!」

「はっ! んだよ、熊のくせに人間様睨んでんじゃねぇぞクソが!」


 距離を取ったアスカとボアベアが睨み合う。ボアベアは次の標的を完全にアスカへと切り替えたのか、その視線はアスカだけを狙う。

 それを好機を見たのか、アスカが少しずつウィルたちから離れるように動き出した。


「そうだ、私が相手だクマ公。私をぶっ殺してぇんだろ? なら、ついてこいや!」


 言い終わると同時にアスカはボアベアに向かって地面を蹴る。蹴り出された勢いで抉れた土がボアベアの目へ降りかかった。


「ガアアア!」


 目潰しに怒りを覚えたボアベアがアスカに向かい腕を振るった。

 それを間一髪回避したアスカはボアベアに背を向ける。


「鬼さんこちら! ハハッ!」

「グガアアア!」


 アスカは駆け出しながらボアベアを挑発する。

 怒りでアスカしか見えなくなったのか、ボアベアは逃げるアスカの背中を追いはじめた。


「エンヨウ! あとは頼んだ!」


 大きな声でエンヨウへと言い残し、アスカはそのままボアベアを引き連れあっという間に見えなくなっていく。


「お任せを!」


 アスカへ返事をしながらエンヨウが小屋から飛び出してくる。そして倒れ伏す神子たちへと駆け寄った。


「怪我人を小屋の中へ運んでください! すぐに手当を! まだ間に合います!」

「で、でも、アスカ様が!」


 叫ぶように指示を出すエンヨウに怯みつつもウィルの視線はアスカへと注がれていた。

 ボアベアを引き連れ遠くへ去っていったアスカに自分ができることはないのか。考えてもやはり良い案は浮かばない。


 何も出来ないと分かっている。なのにウィルはアスカを助けようと駆け出そうとしていた。優先順位すらもはや理解できないほど焦っている。


「貴方が行っても! 邪魔になるだけです! アスカ様を信じ、今、あなたに出来ることをしなされ!」

「――っ!」


 厳しく言い放たれた言葉。咄嗟にエンヨウへ視線を向ければ、彼は小さな手で地面を強く握っていた。エンヨウ自身、すぐにでもアスカの背を追いかけたいのだろう。

 しかしそれを強い意志で抑え込み、アスカの頼みを遂行する為この場へと踏みとどまっている。ウィルにはそう見えた。


「お早く! 手遅れに、手遅れになってしまいます!」

「――はいっ!」


 今はアスカを信じできることをしよう。

 そう決めたウィルは他の家族と協力しながら怪我人を小屋の中へと運び込んだ。

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