七、番犬サルベロス
ふおう、とフクロウが鳴き、青ざめた月明かりのもと、おじいさんと野ウサギは、かぐや姫の部屋の前へと戻ってきました。
「……こりゃ、どういうことじゃ」
「扉が、閉まってる。さっきは閉まってなかった扉が」
「そりゃあつまり、どういうことじゃて」
「つまりそれは……、あんたと俺がふざけてじゃれあってたあいだに、お嬢さんが帰ってきて……」
「なかに戻った、ひと安心……、ということじゃな」
「……」
野ウサギは思案しました。
……ひと安心、か。そういうことにしておけば、楽観主義者の竹取翁は安心しきって寝床へ入り、ひとまずあの乱暴な手でもって耳をつかまれることはないだろう。しかし、そんなことをしてしまっては、かぐや姫が連れこんだ男となにをしているのか……育ての親に内緒でやましいことを……もしや、例の若者失踪事件に……、いや、とにかく、俺自身が安眠できない。今夜はきっと寝つきが悪く、竹取翁に耳をつかまれるよりももっと恐ろしい悪夢にうなされるだろう。……
思案の結果、野ウサギはおじいさんを説得して、ふたりでかぐや姫の部屋へと足を踏み入れることになりました。
「本当は入室は禁止されとるんじゃが、まあ、世の中の父親っちゅうもんも、一度くらいはあやまちを犯して、娘にゆるしを請うもんじゃろうからのう。たとえばの話、『入るときは絶対ノックしてよ』と言われたとして、ノック忘れの代償がフック、フック、フック、からの右ストレイト、なんてことにはなるまいて」
おじいさんが扉を開けると、なんとそこには、異様な光景が広がっていました。
「な、なんじゃこりゃっ……」
板の間の床に、新月のように真っ黒な、まん丸の穴が空いていたのです。
野ウサギが、隅にあった巨大な工具を指差して言いました。
「あのチェーンソーで空けたんだな」
「ほう、なるほど……」
その道具には、妖しく光る月のマークが描かれており、一目で地球のものではないと感づくことのできるものでした。
野ウサギはすっかり青ざめてしまいましたが、だれもが認める稀代の楽観主義者であるおじいさんは、ワクワクとした表情で、
「こりゃまるで、ゲームやらアニメやら、ネット小説やらの主人公になったようじゃのう」
そう言って、野ウサギの耳をひっつかまえて逃亡を阻止しました。
「ああ、痛い痛い、やめてえっ……」
と、突然あたりが暗くなり……
「そこまでだ、竹取翁っ」
「だ、だれじゃ貴様はっ」
「その声は、猿か」
「なんじゃとっ」
あたかもゲーム画面の演出のような、黒い霧のたちこめるなか、相手はうききっと笑い声をもらします。相手は、おじいさんと野ウサギがよく一緒に遊んでいた、山の猿でした。
「よくわかったな、バクダンのような耳をしたケダモノよ」
「だっ、だれがバクダンだっ」
「お前だ、野ウサギ」
「う、うぜえ。竹槍でぶっ刺してやりてえ……」
野ウサギとのやりとりを聞いて、相手がなじみの猿だとわかったおじいさんは、あっさりと警戒を解きました。
「おう、猿じゃったか。ちょうどよい、一緒に冒険ゲームごっこをせんか?」
「ああ、してやるよ。ただし……、俺は敵キャラだけどなっ」
うきゃーっきいっ。
「うっ……」
暗闇のなか、おじいさんが腕をおさえます。猿がいきなりおそいかかり、おじいさんの腕をひっかいたのです。
「まいったか、竹取翁。俺は今日から、ボスんとこで番犬のバイトをすることになったんだ。給料はきびだんごまるまる一個とはずんでいる。だから、容赦はしないぜ」
「あ、それならわし、持っとるぞ」
「え……?」
おじいさんは、腰のポケットをたたいて言いました。
「あれじゃろ、ほら。かぐや姫手製の、ハチミツ入りきびだんごっちゅうやつ。ほれ、ここに、ちゃんと密閉容器に入れて、三個ほど持っとるぞ」
「な……」
「棚のなかにも、あと三十個はあったのう。ほれ、いるか?」
きゃうううん。
猿は、おじいさんの前にひざまづき、言いました。
「だったら俺、バイトやめる。契約破棄っ」
そうしてきびだんごをもらい、むしゃむしゃと食べ始めました。
「なんでも、前の番犬の子が、明日から海へ汐汲みに行く課に転属になったってんで、代わりの番犬、その名もサルベロスとして俺がスカウトされたんだけど……、でももういいや、やめちまおっと。契約破棄っ」
こうしておじいさんと野ウサギは、最初の難関だったはずのものを難なくくぐり抜け、奥へと進んでいきました。
「じゃあのう、猿。台所の棚の、右から三番目んとこへ入っとるからのう、見つけて食べるんじゃぞい。ちなみに四番目んとこは、ドミニク・アングルの画集を入れておるがのう、観ながら食べて、汚したりでもしたら容赦せんぞっ」