猫にいたる病(1)
私は猫が大好きだ。
自慢はこの辺に住んでる野良猫の毛色と模様を把握してること。
趣味は猫の写真撮影と猫グッズ作り。
本当は猫を飼ってみたくて仕方ないけど、うちはマンション住まいだからペット禁止だった。いつか大人になったらペット可の部屋に住んで、とびきり可愛い子と一緒に暮らすのが私の夢だった。
そもそも趣味も、猫を飼えない代わりに始めたようなものだった。
最初はただ見かけた猫の写真を撮るだけだったし、猫グッズもお店で売ってるものを買うことが多かった。だけど猫グッズと言ったって店売りのものはデフォルメされたキャラクターものが多くて、よりリアルなものが欲しかった私としてはなかなか満足いく品に出会えなかった。それなら買わずに作った方が早いと自作を始めて現在に至る。
現在のお気に入りは近所のサバトラちゃんをプリントしたペンケース。毛並みがふっくらつやつやで超美人さんだ。写真を生地に転写してあとは縫うだけの素人ハンドメイドだけど、カメラとプリンタの性能がいいせいか結構いいのができる。
はじめのうちは、クラスの友達からも絶賛されていた。
「わあ、すごーい! 可愛い!」
でも調子に乗る性分だったのと、あとはやっぱり猫が好きなのもあって、身の回りのありとあらゆるグッズをお手製猫で固めてしまったら――通学に使うパスケースは汚れが目立たない黒猫ちゃん、ハンドタオルは白さを活かしたトビキジちゃん、休みの日に着るお気に入りのTシャツは愛くるしい表情の茶トラちゃん。
そんな感じで作り続けてたらしまいには若干引かれるようになった。
「柚ちゃんすごいね……何か徹底してるね……」
しょうがない。美とは、芸術とは、往々にして理解されないものだ。
こんなんだからもちろん彼氏なんていたことなかった。猫より興味持てて好きになれる人なんてこの先現れるだろうか。
どこかにあるかもしれない猫の国から素敵な猫の王子様が私を迎えに来てくれる方がまだ可能性ありそうだ、そんなふうに思っていた。
予定のない放課後は猫ウォッチングに行く。
カメラ持って学校から駅周辺までをうろちょろしては、顔なじみの猫を探す。そしてベストショットを狙うのが日課だった。
猫のたまり場は主に三ヶ所ある。
学校近くの神社の境内と、通学路の途中にある児童公園、それから駅前商店街の裏路地だ。
今日は帰宅時間を考えて、まっすぐ駅前商店街へ向かうことに決めた。
「こんにちはー」
声をかけながら裏路地に立ち寄る。古い店舗兼住宅ばかりが建ち並ぶ商店街の裏路地は、お線香のような古い家のような、おばあちゃん家を思い出させる懐かしい匂いが立ち込めている。どこの家も窓を開け放っているのか、風鈴の微かな音がほうぼうから響いてきた。
猫達はそんな裏路地に作られた、暖かなひなたでのんびり寛いでいた。
「お邪魔しまーす、今日も写真撮らせてね」
足繁く通ったのが功を奏してか、私が足を踏み入れても猫達は逃げなくなった。それどころか足元にすり寄ってきてくれる人懐っこい子もいたりして幸せだ。今日は前回モデルになってもらったサバトラちゃんと、この辺りの主らしいまんまるなトビキジちゃん、それにまだ若手と思しき三毛ちゃんが揃っていた。どの子も毛並みはさらさらつやつやで、おめめも透き通ってて元気そうだ。
「ね、見て見て。こないだの写真で作ったんだよ」
しゃがみ込んだ私が鞄から取り出したペンケースを、サバトラちゃんは宝石みたいな瞳で見上げる。でもそこにいるのが自分だとわからないのか、あるいはわかったところで関心もないのか、すぐにふいっと顔を背けてしまった。
「いつもありがとね、可愛く写ってくれて」
なうっ。
可愛い返事を貰えて嬉しくて、私はサバトラちゃんの小さな頭を手のひらで撫でた。
そして心を許してもらっているのをいいことに、彼女を抱き上げようとして――路地裏の向こうからまた一つ、小さな影が歩み寄ってくるのを見つけた。
いつもの茶トラちゃんはもうちょい大きくてでっぷりしてるし、黒猫ちゃんの毛色じゃない。
「誰?」
声をかけても答えが返ってくるはずもなく、裏路地に張り巡らされた石塀の隙間からその子は現れた。
灰がかった体毛の、上品なアメリカンショートヘアだった。毛色はサバトラと似てるけど、背中が縞模様じゃなくマーブル。そして他の猫よりも顔立ちが丸く、ヘーゼルの瞳は吊り目がちだった。
「わあ……これはまた随分な美人さんで」
思わず感嘆の声が漏れた。
アメショなんてこの辺じゃ見たことない。毛並みはきれいだけど首輪はしてなくて、どうやらこの子も野良のようだ。
猫との距離の縮め方は、人間とはちょっと違う。
まず目を合わせないこと。
これはすごく大事。なぜって、猫にとっては喧嘩の合図だったりするからだ。
そして低姿勢からまず手を差し出してみる。大きな音を立ててはいけない。視線を合わせず、だけど相手がどんな気持ちでいるかを仕種から判断してちょっとずつ近づいていく。
「はじめまして、怖くないよ」
私は小声で呼びかけながら、初対面のアメショちゃんに向かって手を差し出した。
もちろん、できればこの子の写真も撮りたいって下心もちょっとある。野良のアメショなんてこの辺じゃ初めて見るもの。でもまずはこの子とも仲良くなりたい。
「私、猫大好きなんだ。仲良くしてね」
そう呼びかけると、アメショちゃんは三角の耳をぴくぴくさせた。
そして、ぴんと立てた尻尾を鉤みたいに曲げて、しばらくこちらを窺っていた。
こうなったらあとはもう余計なアクションを取らない方がいい。持久戦だ。とにかく辛抱強く待ちに待って向こうが気を許してくれるのを待つだけだ。猫が好きだからこそわかるけど、この小さくてふかふかで温かくて可愛さの塊みたいな生き物は、その小さな体のうちにとても複雑で気まぐれなメンタリティを有している。存分に尊重しなくちゃいけない。
サバトラちゃんや三毛ちゃん達といったいつもの面々が見守る中、私はただ待った。ひたすら待った。口を閉ざして微笑みながら待った。
そして耳を落ち着きなく動かすアメショちゃんが、私の手の匂いでも嗅ごうとしたんだろうか。その小さな前足をこちらへ一歩踏み出して、よし来たと思った瞬間だった。
「おーい、どこまで行った? うろちょろすんなよな……」
愚痴るような男の人の声がしたかと思うと、アメショちゃんがはっとしたように振り返る。
さっきアメショちゃんがやってきた路地裏の向こうから、今度は人がやってくるのが見えた。
私よりもはるかに背が高いその人はスーツを着ていて、その顔が見えるようになるまで近づいてきたところで足を止めた。
「お……っと、猫以外にもいたか」
声は完全に、大人の男の人だった。私がここにいることに驚いているようだった。
でも、私だって驚いた。だって。
「ったく、どこでも行くなっつってるだろ。しょっちゅう探させやがって」
そう言いながらアメショちゃんを抱き上げたその人は。
「こら、あんま擦りつけてくんな。毛がつく」
よく懐いているらしいアメショちゃんに身をすり寄せられて困った声を上げているその人は――。
猫だった。
人間と同じく二本足で立っていて、ぱりっとした濃いグレーのスーツを着て、グリーンのネクタイを締めている。足元はぴかぴかに磨かれた革靴だ。首から下だけを見れば普通の男の人のようだった。
でも顔は猫だ。
耳は頭の上に二つあり、三角形をしている。
キジ柄でマズルが白いハチワレ猫、瞳はアンバーだった。
白く細いひげを風に揺らしたその口元が、もぐもぐと何か食べるみたいに動いた。
「驚かせて悪かったな、女子高生」
私が制服を着ているからだろう、そんなふうに呼びかけられた。
確かに驚いた。だって二本足で歩く猫なんて初めてだ。しかもスーツ着てるし大人だし。デフォルメされたキャラクターの着ぐるみというわけでもなく、人間サイズの二足歩行猫。
それが今、私の目の前にいる。
気を落ちつけようと、私は深呼吸をしながら立ち上がる。
「え、っと……」
だけどこういう時、とっさに言葉なんて出てこないものだ。
たとえ脳内で何度もシミュレーションしていた事態だとしても、実際に起きてみれば平然とはしていられない。
「ああ、この顔な。猫そっくりだろ?」
猫の人はと言えば、こうして驚かれるのにも慣れているようだった。表情は猫そのもので人間みたいに動いたりはしないけど、声は落ち着き払っている。
それで私も逸る気持ちを抑えながら、彼に尋ねた。
「もしかして……あなたは猫の王子様?」
「はあ?」
「私を猫の国に連れていってくれるとか?」
「なんで?」
「猫大好きな私を遂に迎えに来てくれたんじゃないかなって……」
「それはないな。俺、一応日本人だし」
猫の人は、あっさりばっさり切り捨てた。
違うんだ。実はかなり期待してたので、私もそれなりに落胆していた。
いつか、どこかにある猫の国から猫の王子様が私を迎えに来てくれるかもしれないって、ちょっとは思ってたのに。
だからといって、日本人と言われても信じがたい顔をしてるけど――いや、何人って言われても微妙に信じがたい。顔はどこからどう見ても大きめの猫だもの。
「この顔は変装だからな。仕事用」
王子様ではない猫の彼は、抱きかかえたアメショちゃんの首元をわしわししながら言った。
よく見るとその手は猫とはちょっと違い、人間と同じ五本指を白い毛皮がみっしり覆っている。爪や肉球の存在は確認できない。
「お仕事用?」
猫の顔になる必要がある仕事って、一体何だろう。
私の疑問に、彼は右耳をぴくぴくさせながら答えた。
「コスプレバーっつってわかるか? 要はまあ、飲み屋だ」
「えっ。じゃあその顔、コスプレなの?」
「さっき言っただろ、変装だって」
「なーんだ……」
この猫そっくりの顔も毛皮みたいな手もただの変装だなんて、つまらない。本物の猫だったらよかったのにな。
「猫、好きなのか」
そう尋ねてきた彼の腕の中では、あのアメショちゃんがとろける表情をしている。
猫が猫を抱いてるこの構図、撮りたい。グッズにしたい。
「うん、大好き。よく写真撮って、グッズ作ってるの」
「グッズって何だ」
「えっと、こういうの」
鞄からペンケースを取り出して、彼に見せる。私の足元にうずくまっているサバトラちゃんと同じ顔を、彼はアンバーの瞳を見開いて眺めた。
「へえ、こんなん作れんだ。プロみたいだな」
「ありがとう。この辺の猫の写真撮っては、こういうの作ってるの」
それから私は彼が抱いているアメショちゃんに目をやり、
「その子ってあなたの飼い猫?」
「いや」
彼は首を横に振った。人間みたいな仕種もするんだ、ちょっとおかしかった。
よく考えたらこの顔も変装なんだから、人間と同じ仕種をして当然なんだけど。
「どうも迷子っぽいんだよな。最近、うちの店の周りをうろついてて」
「迷子かあ……どうりで、この辺じゃ見かけない顔だと思った」
「飼い主見つかるまではと世話してやってんだけど、すぐちょろちょろすんだよ」
「私も、家猫まではさすがに把握しきれてないな」
野良猫なら顔なじみか、そうでないかくらいはわかるんだけど。
「何だそれ、野良猫は把握してるってのか?」
訝しそうに聞き返されたので、すかさず頷いた。
「うん。この辺の猫の写真撮ってるって言ったでしょ?」
「猫好きにも程があんだろ……」
「だからさ、この猫さんの飼い主ともいつか会えるかもしれないよ」
アメショちゃんもこんなに美人さんなんだし、家で飼われてた猫だとしたら飼い主さんが探してないはずがない。
こういうのは同じ猫好きの方がアンテナが働くものだ。猫を追っ駆けるうちに飼い主さんに行き着くかもしれないし、どこかで『探しています』なんて張り紙を見つけることもあるかもしれない。
「もし探してる人見つけたら、連絡しようか?」
私はそう持ちかけた。
すると彼はまたしても右耳をぴくぴくと動かした。
一体どうやって動かしてるのかわからないけど、本物の猫をトレースしたみたいに精巧な動きだった。
「連絡か……まあ、そういうのもアリか」
そしておとなしいアメショちゃんを片腕で抱き直すと、毛むくじゃらの手で内ポケットを探った。
そこからカードケースを取り出すと、黒くて四角い紙を一枚、器用に抜き出してみせる。
「これ、俺の名刺」
私はそれを受け取った。
一目見て、思わず絶句した。
「め、名刺って、こういうのだっけ……」
「何だよ、何か文句あんのか女子高生」
うちのお父さんが持ってる名刺は、白地に大きく名前と会社名が入ってるシンプルなやつだ。普通、名刺って言われたらそういうのを想像する。
だけどこの人がくれた名刺はまず黒地で、左半分に大きく顔写真が入ってて――ちょうど今、目の前にあるキジ柄ハチワレの猫の顔だった。そしてその横に銀ラメで『小太郎』と名前らしいものが記されている。
お店の名前もその上にあって『ボーイズバー マッドティパーティ』というらしい。
「ボーイズバーって何? ホストみたいなの?」
「飲み屋だよ。ケータイの番号、そこに書いてあんだろ」
「小太郎さんって、名前まで猫みたいだね」
「放っとけ。言っとくけどその名刺、親には見せんなよ」
釘を刺した後、小太郎さんは人間らしく肩を竦めて、
「お前ん家がどういう家庭か知らないけど、女子高生が飲み屋の名刺持ってるのはさすがに外聞悪いだろ」
「そうなの?」
「普通はな。普通じゃなかったら聞き流せ」
猫に変装したホストっぽい人から名刺貰った、って言ったら結構ウケそうだけどな。でもまあ、小太郎さんに迷惑かかるといけないから素直に従っておこう。
「わかった。誰にも見られないようにするよ」
私はその名刺を黒猫のパスケースの中にしまった。ここなら親にも、誰にも見つからない。
「それとお前、名前は?」
「私は柚。里見柚」
「ユズ? お前の名前も十分猫っぽいだろ」
そう言うと小太郎さんはふっと息を漏らすように笑った。
笑った。
猫の笑顔を見たことがあるだろうか。
よく言われていることだけど、猫は笑わない。
正しく言うなら、人間のように嬉しかったり楽しかったりで笑うことはない。
笑っているように見える表情をすることはあるらしい。でも私は猫のそういう顔を見たことがなかった。
でも私の目の前で今、猫そっくりの小太郎さんは笑っている。
人間みたいに目をきゅっと細めて、口角を上げて、軽く口を開け歯を覗かせて笑っている。
思った以上に屈託なくて、心の底から笑ってる顔に見えた。
すごく楽しそうなその笑顔に、私は同時に二つの思いを抱いた。
――この人の笑顔は素敵だ、写真に収めたい。
――だけど、変装しているその顔で、一体どうやってこんなふうに笑うことができるんだろう。
そもそも変装って何だ。マスクでも被ってるんだろうか。それともフェイスペイントなのか、どちらにせよ感情に従って耳まで動かせるほどの変装なんて。
「ん? どうした、女子高生」
小太郎さんがきょとんとしたので、私は我に返って、
「ううん。猫が笑うの、見たことなかったなって思って」
と言ったら、アンバーの瞳の奥で瞳孔が開くのがわかった。
「『猫だって笑わないとは限らない』」
静かな声で小太郎さんが言う。
どこかで聞いたことのある言い回しだ。どこで、だっただろう。
「じゃあ俺、そろそろ戻るから。飼い主探しは何かのついででいいからな」
そう言うと小太郎さんはアメショちゃんを抱えたまま踵を返した。
「あと、ぼちぼち暗くなるぞ。気をつけて帰れよ女子高生」
革靴の足音が遠ざかっていく中、私は見た。
小太郎さんの後ろ姿、ぴしっとしたスーツ姿のお尻の辺りに、キジ柄のしましまの尻尾が揺れていたのを。
裏路地に取り残された私は、顔なじみの猫達に囲まれたまま、しばらく呆然としていた。
私、今日、とんでもない出会いをしてしまった気がする――。